リシュリーへの愛の言葉
ちゃんと言えた。
ちゃんと、エリオットへ別れの言葉を伝えることが出来た。
あの金色の羊の毛のお守りが燃えてしまった今、いつ巡礼の旅に出られるのかは分からない。
ジャイム様の言う通りに再び金色の羊の毛のお守りを手に入れられたとして、いつ巡礼の旅から帰って来られるかは分からない。
秘密の花畑では、エリオットに散々酷いことを言ってしまった。
エリオットにも色々激しいことを言われたが。
それでもやはり、冷静になって考えてみれば、エリオットが大切な人だということに変わりはなかった。
もう二度と会いたくないだなんて、言ってはいけなかった。
カインの前世を持っていたとしても、今エリオットはエリオットとして生きている。
そして、どんなに暗い一面を持っていたとしても、エリオットはエリオットなのだ。
そういう一面をエリオットが持っていることも真実だが、これまで私が見てきたエリオットの良い面だって、紛れもないエリオットの一面だ。
これまで一緒に過ごしてきた、世話焼きで、優しくて、涙脆いエリオットだって本当のエリオットなのだ。
だから、ちゃんとエリオットに別れの言葉を伝えておきたかった。
大切なエリオットに、ちゃんと別れの挨拶をしたかった。
それがどんなに利己的で残酷なことだったとしても、ちゃんと伝えたかった。
私は石の扉に背を向け、祭壇の方へと歩き出した。
すると、扉の向こう側からエリオットの声が聞こえてきた。
それはエリオットが発する、純粋なエリオットの声だった。
震えた、か細い子供のような声だった。
「…………リシュリー……あいしてる……」
私は足を止めた。
いや、違う。
前に進めなくなってしまった。
まるで金縛りにあったように、体が動かなくなってしまった。
あるただ一つの感情が間欠泉のように胸の底から噴き出て来て、それを止めることが出来ない。
そのあまりの勢いに、肉体も精神も飲み込まれてしまっている。
私が持つ全てのエネルギーが、今その感情の噴出のために使われている。
その感情は、恐怖だった。
その恐怖は、その言葉を発したエリオットに対して向けられたものではなかった。
それは、「あいしてる」という言葉そのものへの恐怖だった。
もっと言えば、愛そのものへの恐怖だった。
それに気が付き、ゾッとした。
私は愛に恐怖を感じている。
今この時、ものすごい恐怖を確かに感じている。
まるで狼や熊のような、自分の命を脅かす存在に対して持つような恐怖を、愛に対して感じている。
私にとって愛は、恐ろしいものだったのだ。
この恐怖は、カインがどうとか、裏切られたからどうとかいったところに原因があるのではないという気がする。
この恐怖はおそらく、私の中に根源的に内在していたものだ。
気の遠くなる程古くから、在り続けていたものだ。
この世で最も素晴らしく、尊いものだとされている愛が、私はたまらなく恐ろしい。
エリオットから向けられた純粋な愛の言葉によって、そのことに気が付いてしまった。
「あいしてるよ、リシュリー」
エリオットの震える声が、再び扉の向こうから聞こえてきた。
気付きたくなかった。
自分がこんな存在だったなんて、気付きたくなかった。
だって、愛に恐怖するだなんて。
まるで、光を恐れる怪物みたいじゃないか。
私は隠し部屋いっぱいに広がった、あの不思議な形の影を見た。
短い棒を横に、長い棒を縦に組み合わせたその形が、先程までは私を守ってくれているように感じていた。
しかし、今はなぜだかその形に責められているように感じる。
あの蔓を弱らせた正しき力が、今は私に向かって振るわれている気がする。
私はあの形の元にいることが許されない、邪悪な存在だという気がする。
あの形の元では、私は存在することを許されない。
その時、何か決定的に重要なことを思い出しそうになった。
あの形と、激しく燃え盛る炎の映像が浮かんだ。
そして、その炎の熱さと生きながら体が焼かれていくおぞましい感覚が体中に広がった。
その炎は、カインが纏っていたような朱い炎ではなく、正しく神々しい光を発する炎だった。
皮膚や、髪がその炎にのまれ、焼かれていく。
渇きを超えた渇きが、体中を襲う。
自分の肉体が灰へと変わっていくのを、ただ見つめることしか出来ない。
それはほんの一瞬のことだったが、まるで今現実に体を焼かれたようなリアルな感覚だった。
自分の皮膚が焼けるにおいすら、まだ鼻に残っている気がする。
なんなんだ、今のは。
今の、恐ろしすぎて、リアルすぎるイメージは。
何か重要な記憶であることは確かだろう。
おそらく、シエラの悲しみにまつわるものなのかもしれない。
しかし、これ以上思い出してはいけない。
そう体が言っている。
これ以上思い出せば、あのリアルな感覚に、生きながら焼かれる熱さと痛みに、体が持ちこたえられないだろう。
そして、自分の正体を思い出してしまう。
その正体が一体なんなのかは全く分からないが、私はそれをどうしても思い出したくない。
絶対に、思い出したくない。
立ちすくみ、ギュッとこぶしを作った。
気がつくとステラが横にいた。
硬く握り締めた私のこぶしに、頭を擦り付けてくれていた。
そして、もう行きましょう、と言っていた。
「ありがとう、ステラ。
これでもう何回目になるだろう。ステラに助けてもらうのは。
そうだね、行こう」
「メーーーー」
その時、ステラの言葉が伝わってきた。
ステラが心を込めて発してくれたその言葉は、正しく私の心の奥底へ届いた。
「あの形についても、あの炎についても、解き明かすのは今じゃなくて良い。
愛が恐いことについても、今は考えなくて良い。
今は安全な場所へ行きましょう。
でも、あんたは悪くない。
あんたは怪物なんかじゃない。
悪いものなんかじゃない。
あんたはここにいていいのよ。
本当よ」
ステラは、確かにそう言ってくれた。
「ありがとう、ステラ」
泣くのをこらえて出したはずの声は、涙声だった。
ステラは私を許してくれた。
それだけで十分、また歩きだすことが出来た。
私は再び、祭壇へ向かって歩き出した。
ステラと一緒に。
「忘れないで、リシュリー。
僕が愛しているのは、いつだってリシュリーだけだ。
この愛は永遠に変わらない。
いつまでも愛してる。
この魂が消滅するまで、僕はずっとリシュリーを愛し続ける」
後ろからエリオットの声が聞こえた。
その声はもう震えていなかった。
神聖な誓いをする時のような、凛々しい声だった。
そしてその声は、私の肉体に変化を起こした。
忘れかけていた渇きの感覚が、蘇ってきたのだ。
エリオットの血を欲する時に感じる、あの渇きの感覚が。
エリオットの愛が、私を渇かすのだと、その時気付いた。




