朱いアザ
「ねえヌッちゃん、今、左手の薬指の痛みが嘘みたいにおさまった」
「いやん、良かったわ〜。
でもどうしたのかしら。突然に痛みが引いていくことなんて早々無いわよね。薬や麻酔でも使わない限り。
まだアザは赤いままだしねえ」
「それが、どうやらシルビアちゃんの声を聞いたら痛みがやわらぐみたいなの。
それで、今エリオットの大声が聞こえてきたでしょ。そしたら痛みが完全に消えたんだ。
きっとシルビアちゃんがエリオットに何かしたんだと思う。
もしかしたらこの前、髪を切った日みたいに、シルビアちゃんがエリオットに口付けしたのかも」
私はヒソヒソ声でヌッちゃんにそう伝えた。
右手ではステラの背中の毛を撫で続けている。
そうしているとこの異常な状況下でも震えず喋ることが出来た。
エリオットと秘密の花畑で会った時から、感情を負の方向へと揺さぶられることがあまりにもありすぎて、平常心というものがどこかへ飛んでいってしまった。
変に冷静なのに、恐怖や怒りでずっと心が振動している感じでもあった。
ずっと続く小刻みな揺れにそう違和感を感じないのは、自分の心も揺れているからなのかもしれなかった。
だからステラに触っていることは、今私が正気を失わないための命綱だった。
そして、二人が口付けする姿を思い浮かべたら、ウエーッと気持ち悪くなった。若干えずいた。
この前は至近距離でその様子を見てもなんとも思わなかったのに、今は心から嫌悪感を感じる。
シエラが過去の自分だったことを思い出したからなのか、エリオットとシルビアちゃんの組み合わせを思い浮かべること自体、なんだかもう嫌だった。
もはや組み合わさってるところだけではなく、それぞれを単体で思い浮かべるのも嫌である。
「そういえばリッちゃんの調子が嘘みたいに良くなったっていうのも、シルビアちゃんが関係してたわよね?
確か、シルビアちゃんがエリオット氏に濃厚な接吻ぶちかましたら、リッちゃんにそれまで絡み付いてたものが消えた気がしたって言ってたわよねん。
シルビアちゃんのエリオット氏へのキッスには、リッちゃんを呪縛から解き放つ効果があるんでない?
って、なんだか複雑〜!
普通、こういうのって王子様のキッスによっておなごの呪いが解けるんじゃないの?
なんなの、この関係性。謎すぎてヌッちゃん、混乱〜!」
「ヌッちゃん、声、声。でっかくなってるよ。
でも確かに、口付けの他にもシルビアちゃんに髪を切ってもらった時も、心身がすごく軽くなった感じがした。
確かに、シルビアちゃんにはそういう力があるのかも。前世は聖女様だし」
「え? なに、聖女様って。
さっきからどしたの、リッちゃん。
ヌッちゃんに分からないこと言っちゃって〜」
「あ、そうそう、そのことなんだけど……
って、また痛っっ!!」
その時、階上からまたエリオットの声がしてきた。
「もう……そんな…………僕……リシュ……のもの……! ……邪魔……させ……い!
ぼく……リシュ……婚約者……!
僕達……ぜった……結婚……!」
やはり聞こえてくる言葉は途切れ途切れで何を言ってるかは分からないが、その声に並々ならない決意のようなものが込められているのは分かった。
そしてその強すぎる決意は、どうやら朱いアザの痛みを復活させたようだった。
眠りから目覚めた朱いアザは、再び意志を持って私の左手の薬指を締め付け始めた。
「ヤダ! 大丈夫? リッちゃん!
やっぱりどうやらそのアザはエリオット氏の気持ちとつながってるみたいね。
うん? て……ヒエエエエエ!
アザが! アザが! ヒエエエ!」
ヌッちゃんは私の左手の薬指を指差し、ワナワナと震えている。
見てはいけないものを見てしまった人がする、ホラーな顔をしている。
「アザがどうしたの?
って、ヒエエエエエエエ!!」
私はアザを見た。
なんと、アザがうねうねと動いていた。
今まではただの輪のような形だった朱いアザから蔓のようなものが一本伸びて動いている。
それは、手首の方に向かってなんとかして自らを伸ばそうとしていた。
まるでアザが生きているみたいだ。
このアザが命を持った一つの生命体のようだ。
気持ち悪くて見たくないのに、目を離さずにいられなかった。
「エリオット……いい加減に……!
今日は……かえ……!
ジャイム様……ほんと………みません……」
これはカルデロお兄さんの声だ。
これまで聞いたことのない厳しい声だ。
そして、その声の後にベレトお兄さんとオルノお兄さんの声も続いた。
どうやら、お兄さん達三人がかりでエリオットを無理矢理家に連れ帰ろうとしているようだ。
エリオットもさすがにそれには物理的に抵抗することは出来なかったようで、エリオットがジャイム様の家の外へと連れ出されていく音が聞こえてきた。
「リシュリー! ……かならず…………むかえに……!
ぼくは……婚約者……から!
決し……切れない…………結ばれて……!」
エリオットが最後に何か叫んでいた。
そして、それと同時に左手の薬指の朱いアザの痛みは、やはり強くなった。
そして、手首に向かって伸びようとする蔓の他にも、元々の環状のアザを囲もうとする蔓も新しく出来ていた。
それは、指輪のようなアザを補強するかのように、その周りを這うようにしてグルグルと伸びていた。
階上から聞こえる物音の様子からして、エリオット達がジャイム様の家から出て行ったと思われてからしばらく経った。
しかし、動ける者も、言葉を発することが出来る者も、私達のうち誰一人として居なかった。
二人と一匹のうち、誰も。
全員祭壇の下でただ呆然としていた。
ステラからも激しい脱力感が伝わってきた。
朱いアザのことを考えるのも、前世のことを考えるのも億劫に感じた。
朱いアザはいまだ私の左手の薬指を締め付け続けている。
今エリオットとの距離が物理的に離れていっているからか、それに比例するかのように、痛みやわらいではいる。
しかし、一度目を離したそれに目を向けることは、厭わしすぎて出来なかった。
本当はきちんと確認した方が良いのかもしれないが。
ただただ、エリオットを助けたくてジャイム様の家から外へ出た。
その時は自分はどうなっても良いと心から思っていた。
エリオットを助けに行く道が、九百九十九の世界へと続く道でも良いと思った。
しかし、自分で予想していた過酷さを遥かに上回る過酷さに遭遇した。
死んだ世界に降り積もっていく火山灰のような雪が降る中で、自分がシエラだったことを思い出してしまった。
そして、エリオットはカインだった。
シエラを壊したのはカインだ。
シエラを裏切り、悲しませ、シエラの心を壊した。
しかし何よりもとんでもなかったことは。
シエラとカインの婚約が、まだ生きていたことだ。
だとすれば、ずっと幼馴染みだと思っていたエリオットは、私の人生に登場した一番初めのその時から今までずっと、婚約者だったということなのか。
私とエリオットはなんの約束も交わしてないのに。
そんなことって、あるのだろうか。
そもそも、それは成立するのだろうか。
しかし、少なくともエリオットは、カインの記憶をしっかり持っているようだったエリオットは、そのつもりだった。
エリオットの中では、私は初めっから幼馴染みではなく婚約者だった。
それを考えると、これまでエリオットと過ごしてきた時間や作り上げた思い出が、全て崩れていくような感覚を覚えた。
朱いアザは左手の薬指を締め付け続けていた。




