侵食
大変だ!!
どういうわけだか、金色の羊の毛のお守りが燃えている!
火の近くになんて一度も行かなかったのに、一体なぜ!?
金色の羊の毛のお守りがひとりでに燃え始めるなんてこと、あるわけないのに!
金色の羊の毛のお守りを燃やす炎は、暗い朱色の、まるでなんだか粘り気があるようにドロリとした炎だった。
これまでこんな炎を見たことはなかった。
普通の炎に触れた時のような熱さや強い痛みは感じず、チリチリとした微かな痛みがあるだけだ。
金色の羊の毛のお守りは燃えているものの、私の皮膚は火傷もなにもしていない。
これが普通の炎ではないことは明白だった。
でも、これは良くないことだ。
確実に、とてもとても悪いことだ。
現にお守りが燃えれば燃えていくほど、私を包んでいる光の膜も弱くなっていっている。
そしてそれを嗅ぎつけて、私に近付くのを一旦止めていたあの触手のような、蔓のようなものが、また私に絡み付こうとしてきている。
もし、ジャイム様の家に辿り着く前にこの金色の羊の毛のお守りが燃え尽きてしまったら。
一巻の終わりだ。
私を守ってくれている光の膜は完全に消滅するだろう。
私はあれに再び絡み付かれ、侵食されてしまう。
血楔病の渦の中へと引き戻され、巡礼の旅には出られない。
そして、エリオットと結婚することになるかもしれない。
エリオットの言う通り、私達がカインとシエラだった時にした婚約がまだ生きているのなら、そうなるのかもしれない。
これまで自分は約束が出来ないから、婚約も結婚も出来ないと思っていた。
しかし、私はリシュリー・アルコとしては約束をすることは出来ないが、シエラだった時にした約束がまだ生きているならば、それを履行することについては、もしかしたら出来るのかもしれない。
シエラだった時にカインとした婚約を、リシュリーとして履行し、エリオットと結婚することは可能なのかもしれない。
それが私とエリオットの魂によって、人格関係無くされた特別な約束だと言うのならば。
しかしそうすると、なんの問題も解決していないまま、壊れた絆のままで、私とエリオットは夫婦になるのだ。
きっと、シルビアちゃんの存在を常に近くに感じながら、夫婦として暮らしてゆくことになる。
シルビアちゃんは、おそらく私とエリオットがどのような関係になろうとエリオットを諦めないだろうから。
それゆえ、シルビアちゃんに対する嫌悪や、シエラの時と同じことが再び起きるのではないかという不安、エリオットに対する永遠の不信を胸に抱きながら、ずっと怯えて生きていくことになるだろう。
いつ裏切られ、シエラのように壊れてしまうか分からないと怯えながら、一生を過ごすことになるだろう。
そして、もしかするとその恐れは現実の物となるのかもしれない。
あの千分の九百九十九の世界では、私とエリオットは夫婦にはなっているようだった。
しかし、あの世界の私の言葉からすると、どうやらシルビアちゃんがエリオットの子供を身篭っているようだった。
ひょっとするとあの世界は、私とエリオットがシエラとカインだった頃にした婚約が無事履行された後の世界なのかもしれない。
エリオットの望み通りに。
あの夢の中で私は、婚約も結婚も出来ないと言っていたが、やはりリシュリーではなくシエラの時にした約束なら履行することが出来たのかもしれない。
しかし、私達の婚約が履行された後待ち受ける未来が、ああなのだとしたら……
私達二人の運命は呪われているとしか言いようがない。
もしくは、二人で生きる選択肢など、そもそも最初から用意されていないのかもしれない。
私達がカインとシエラだった時にした婚約がまだ生きていたとして、そしてその約束がある限りエリオットと魂が繋がったままであるために、別れることが出来ないとするならば。
この約束を殺す方法も、私は探さねばならないのかもしれない。
「いやーん!!
燃えちゃってる! 燃えちゃってるわよ!!
金色の羊の毛のお守りが!
ってか、リッちゃん熱くないの?
それ、リッちゃんは燃えてないの?」
「大丈夫、私は燃えてないよ。
熱くはなくて、ちょっとチリチリするくらい。
だけど金色の羊の毛のお守りが燃え尽きるまでにジャイム様の家に入らないとマズイ。
またあれに絡み付かれちゃう!」
「全速力よ! 命の限り足を動かすの。
ほら、あたしの走り方を真似して!
足が千本になったように見えるくらい、高速で足を動かして走るのよ!」
「分かった!」
私はヌッちゃんの走り方を真似して、全速力でジャイム様の家まで走った。
キノル湖畔に入ったら、キノル湖の清らかな風が私の背中を強く押し続けてくれているのを感じた。
私は更にスピードを上げて走った。
金色の羊の毛のお守りはおおかた燃えてしまっているものの、まだほんの僅かにその形を留めている。
光の膜はとても薄くはなっているが、なんとか私を守り続けてくれていた。
もう十数メートル先にジャイム様の家がある。
あと少し、ほんの少しだ。
ほんの少しだから、もうちょっとだけ頑張って、心優しい金色の羊の毛のお守りよ。
ヌッちゃんが猛スピードでジャイム様の家の玄関扉を開けた。
「早く! 早く!!
早く入って! リッちゃん!
早く〜!!!」
ヌッちゃんは私へと手を伸ばしてくれた。
私は右手でヌッちゃんの手を掴んだ。
ヌッちゃんは渾身の力でジャイム様の家へと私を引っ張り込んだ。
よし! これでもう大丈夫だ!
金色の羊の毛のお守りが燃え尽きる前にジャイム様の家へと入ることが出来た。
これでもう安心だ!
そう、思ってしまった。
まだ玄関の扉は閉めていなかったのに、すっかり安心してしまった。
愚かにも安心してしまったのだ。
不意打ちのように、一回大きな揺れが来た。
その揺れに呼応するかのように金色の羊の毛のお守りを燃やし尽くそうとしている暗い朱色の炎が、その強さを増した。
その炎によって金色の羊の毛のお守りは完全に燃え尽き、私を守っていた光の膜も消滅した。
揺れによろけた私の左腕が、開いたままの玄関から家の外へと出てしまった。
なんの光にも守られていないその左腕を、あの蔓が覆いつくした。




