一角海蛇
その巨大な一角の海蛇は、目と目の間に皺を深く刻みつけ、恐ろしい怒りの形相でエリオットを睨んだ。
大きく鋭い白銀の牙を口からのぞかせながら、低く重い唸り声を発していた。
それは、怖がりのペロ・アルコが何かを威嚇する時の様子とそっくりだった。
ペロ・アルコの威嚇とは、その恐ろしさは比べものにならなかったが。
一角の海蛇はエリオットを睨みつけながら、その巨大な口を大きく開け、激しく吠え叫んだ。
その鳴き声はサンティ=ハイメ神領島から遥か遠くの場所にまで届くのではないかと思うくらい、大きく神聖な声だった。
そして、その咆哮は突風となりエリオットに襲い掛かった。
「うぅっ!!」
エリオットは両腕で自分の頭を守った。
命の危険を本能的に感じるような風だったので当然だ。
そしてその様子を見る限り、エリオットには一角の海蛇は見えていないようだった。
やはりこの一角の海蛇は、私にしか見えないのだ。
今がチャンスだ!
逃げるなら今しかない。
突風はエリオットに纏わり付くように、吹き荒れ続けている。
あの風に纏わり付かれている限り、エリオットが身動きを取ることは出来ないだろう。
逆に言えば、あの風が止んでしまえばチャンスは無い。
今逃げなければ、もうチャンスは無いのだ。
私は一角の海蛇を見た。
一角の海蛇も私を見ていた。
その顔は、とても美しかった。
プロメナリウム海浜公園でこの子の顔を見た後、なぜだか私はこの顔を思い出すことが出来なかった。
こんなにも美しい顔を。
こんなにも誇り高い顔を。
私は、出来ることならその顔に触れてみたいと思った。
一角の海蛇は私を見つめながら、優しく一度吠えた。
きっと、早く行けと言っていた。
また必ず会えるよ、必ず迎えに行くよ、とも言っていた。
私は一角の海蛇のその言葉に背中を押され、走り出した。
ヌッちゃんが隠れる茂みへと向かう私の頬を優しい風が撫でた。
「リシュリー!!
待って! 行かないで!!
行かせない!!」
私が逃げる気配を察知したエリオットが叫んだ。
その恐ろしく悲しい声を聞いただけで、私は動けなくなりそうだった。
「リシュリー、僕は君を必ず見つけ出す!!
僕達の約束は生きている。
僕達は婚約してるんだ!
この約束は何をしても破れない。
僕達が約束で繋がったままである限り、僕は必ずリシュリーを見つけ出せる!
必ず見つけ出すから!」
エリオットは狂信者のように叫び続けていた。
私は何も聞こえないふりをしながら、もう何も聞こえてこないよう願い、走った。
雪に足を取られて転びそうになりながらも走った。
「ヌッちゃん!
早く行こう! ジャイム様の家に帰らないと!」
ヌッちゃんは茂みの中で固まっていた。
様子がおかしい。
目は開いているが、ピクリとも動かない。
まるで石像のようだ。
まさか…… この寒さのせいで!
「ヌッちゃん!
死んじゃ嫌だ!! 死なないでヌッちゃん!」
ヌッちゃんを揺さぶった。
なんとかして蘇生させようと、ユサユサと物凄く大きく揺さぶった。
すると、私を包む金色の羊の毛のお守りが発する光がヌッちゃんに触れた途端、ヌッちゃんが動き出した。
「っふぁぁー!
ごめんねリッちゃん、助けに行けないで。
途中からめっちゃ、もんのすごーい金縛りにあってたの!
ピクリとも動けなかったわ。
あんな金縛り初めて!
ってか寒っ!! 体中、冷た!!」
「ヌッちゃん、生きてた! 良かったあ……
あ、早く行かないと!
今エリオットがものすごい風に纏わり付かれてて動けないの。
この隙にジャイム様の家に帰ろう。
早くしないと、多分もう帰れなくなる!
ほら、早く起きて」
「了解よん! 急ぎましょう!
よっこいせと」
私はヌッちゃんとジャイム様の家へと帰るため、走った。
牧場の門への最短ルートを走り抜けた。
雪に足を取られるせいで、普通に進むのに比べて何倍もの体力が削られていく。
額からは汗が吹き出て、呼吸は荒くなった。
酸欠状態になっているのか、視界は霞んでいた。
しかし、ジャイム様の家へ辿り着くことだけを考えた。
あの子の頑張りを無駄にしてはいけない。
私を助けるためにここまで来てくれた、あの美しい一角の海蛇の頑張りを決して無駄にしてはいけないと強く思いながら走った。
門の近くまで大量の汗をかきながらなんとか来ると、母屋の方が騒がしかった。
複数人の声と、ピリピリした雰囲気がここまで流れてくる。
ここで誰かに姿を見られてはまずい。
家族はまだ良いとして、もしベレトお兄さん等に見られてそこでもし足止めを食らってしまっては、エリオットに追いつかれてしまうかもしれない。
私とヌッちゃんは目と目で合図をし、暗がりに隠れながら音を出さないようにひっそりと門へと進んだ。
「まだエリオットは見つからないの!?
早く見つけないと!
死んでしまうかもしれないのに!」
シルビアちゃんの声だった。
……ダメだ。
シルビアちゃんがティハナ様だったことを思い出してしまったからか、その声を聞くだけで激しい嫌悪感を感じた。
もうシルビアちゃんの声を聞くのも、顔を見るのも嫌だった。二度と会いたくもなかった。
「くそっ、こんな大雪さえ降ってなけりゃ血痕を辿れるのに!
おまけに地震まで来やがって。
フェルマーさん、すみませんがまだ牧場の中で探せてない場所はありませんか」
「もう大方探し尽くしたが、もう一度探し直してみよう。移動してるって可能性もあるからな。
……あれ? あれはエリオットじゃないか?」
「どこ!?
エリオット! あれはエリオットだよ!」
「本当だ! エリオットだ!
あの馬鹿野郎、やっぱりアルコ牧場の中にいたんだ! 一発殴らないと気が済まねえ」
……大変だ。エリオットがそこまで来ている。
ベレトお兄さん達がエリオットの方へと向かい走っていく音が聞こえる。
怒りと安堵と喜びの声を出しながらエリオットへ近付いていっている。
私とヌッちゃんはその隙をつくように、母屋の横を通って門から牧場の外へと出た。
なんだかホッとしてしまって大きなため息が出た。
ベレトお兄さんとエリオットが言い争う声が遠くに聞こえた。
語気は荒いが宥めるようにエリオットを叱るベレトお兄さんとは対照的に、エリオットは半狂乱になってベレトお兄さんやシルビアちゃんを振り切り、こちらへ来ようとしているようだった。
シルビアちゃんがエリオットに何か訴えかけている。
聞く者の胸を打つような真摯な声だ。
しかし、もうほんの一秒も、その愛と命にあふれた声を聞きたくなかった。
キノル湖へと続く坂道を全速力で駆けた。
もはや足に纏わり付く雪のことは気にならなかった。
一刻も早く、少しでも早く、ジャイム様の家に辿り着かなければ。
エリオットに追いつかれないうちに、ジャイム様の家に入らなければ。
ジャイム様の家にさえ入れれば、とりあえずは大丈夫だ。きっと、大丈夫だ。
丘を駆け下りながら、手首がチリチリと痛んでいることに気が付いた。
先程エリオットに強く掴まれたからだろうか。
私は痛む方の手首を見た。
金色の羊の毛のお守りが燃えていた。
……え? お守りが燃えてる?
燃えて……る?
「嘘でしょ!?
あっつっっ! くはない!?」
驚いて大声を出してしまった。
「どうした!? リッちゃん!
って、金色の羊の毛のお守りが燃えてる!?」




