渦巻く激情の狂気
あんなに蜜のように甘く感じていたはずのエリオットの血は、今の私には少しも美味しく感じられなかった。
出来れば、ただの一口も飲みたくないくらいだ。
しかし、飲まなければ。
飲まなければ、エリオットを救えないのだ。
だから私は、エリオットの血を飲むことにひたすら集中した。
美味しくない血を飲むことは、とても辛いことだった。
しかしそうしていると、あの意識の底から浮かび上がってくる声は段々と聞こえなくなってきた。
良かった。あんな、自分でも良く分からない自分の声に心をかき乱され続けていたら、頭がおかしくなってしまう。
だが、金色の羊の毛のお守りが発する力がほんの少しずつ小さくなっている気がした。
エリオットは私に一度払いのけられた左手を再びこちらへ伸ばし、私を引き寄せた。
そして両手で抱き締めた。
とても強い力で抱き締められているのを感じる。
今の私達を何も知らない人が見たら、熱い口づけを交わしている恋人のように見えるだろう。
でも違う。
もしどんなにそう見えたとしても、傷を癒す効果があったとしても、これは吸血なのだ。
その事実は決して変えられない。
しかし、エリオットの血を飲んでいるうちに、あることに気が付いた。
エリオットの傷口が癒えていく感じがしない。
いつもエリオットの傷を治す時は、なんとなくだが私が血を飲むほどにエリオットの傷が塞がり、傷口の皮膚が健康な皮膚へと再生していくのを感じることが出来た。
しかし、今はそれをほんの少ししか感じることが出来ない。
大量に流れ出ていた血が止まっていく感じはあったが、傷口が塞がっていない気がするのだ。
ある程度血を飲み、私はエリオットの口から自分の口を離した。
傷口の様子を見るためだ。
私はエリオットの口の端の傷を見た。
血はおおかた止まっている。
しかしやはり、傷口が癒えていない。
深く切った跡がそのまま残っている。
「エリオット、血はもうほぼ止まったみたい。
これで多分大丈夫」
「ありがとう……リシュリー」
エリオットは私を抱き締めたまま、ひどく安らかな声で言った。
「でも、傷口が塞がっていないの。
どうしてだか、私の吸血によるエリオットの傷を治す力が弱まってるみたい。
だから、母さんのところへ行って傷口を縫ってもらおう。
そのままにしてたらまた血が出てくるかもしれないから」
「うん。
一緒に家に帰ろう。
リシュリーは頭が痛いのは治った?
トマおばさんにいつもの薬を貰おう。
リシュリーが頭が痛い時にトマおばさんが作ってくれる、薬草丸。
あれリシュリーは苦手だって言うけど、効果てきめんだから。絶対飲まなくちゃね。
あ、そうだ、その後は温かいお茶を飲もうよ。
僕もリシュリーもすっかり体が冷え切ってるから、体を温めるお茶を暖炉のそばで飲もう」
エリオットがニコニコと、とても嬉しそうな顔をしながら私に話しかける。
牧場や学び舎で、いつも二人で顔を寄せ合って取り止めもないことを話す時と同じ調子で。
ついこの間まで当たりに流れていた、優しい日常に引き戻されそうになる。
しかし、私の脳裏にステラの険しい顔が浮かんできた。
あの時ステラは何かを訴えていた。
きっと、用事が済んだら早く帰って来いと言っていた。
なるべく早くと。
さもなければ、良くないことが起きると。
いや、大変なことが起きるとステラは伝えたがっていた気がするのだ。
でも今のエリオットに、用が済んだからもう帰るなんて言えるだろうか。
笑顔ではいるが、まだどことなく不安定な感じがする。
でも早くジャイム様の家に帰らないと。
何かが起こってしまう。
一体どうすれば。
「エリオット、あのね。
私、今どうしてもやらなきゃいけないことがあるの。
エリオットが嫌いになったわけじゃないよ。
でも、少しの間エリオットと離れなくちゃいけないの。だからね」
私はなるべく正直に伝えることにした。
少しの嘘はあるかもしれないが、やはり出来るだけちゃんとエリオットに伝えたかった。
そして、そうすればエリオットは分かってくれるのでは無いかという淡い期待もあった。
「ダメだ!
僕はもう、片時もリシュリーのそばから離れない。
絶対に離れない。
一緒に家に帰るんだ。
そして、もう二度と離れ離れになんてならない。
もう、あんな思いをするのは、どうしても耐えられないんだ!」
笑顔だったエリオットの顔は私の言葉を聞くや否や恐怖に引き攣り、私の手首を異常に強い力で掴んだ。
そして、母屋の方へと歩き始めた。
少し離れた茂みの中のヌッちゃんが慌てふためく気配を感じた。
出てこようかどうしようか激しく迷っている感じが伝わってくる。
ここでヌッちゃんが出てきたら、多分更にややこしいことになってしまう。
そう思って私はエリオットの手を振りほどこうとした。
「エリオット、離して。
お願いだから、離してよ!」
「嫌だ! 絶対離さない!
死んでも離さない!!」
エリオットの切羽詰まった声を聞いたら、ある記憶が蘇ってきた。
カインの記憶だ。
……そして、その記憶の中で私はシエラだった。
あの時、カインとティハナ様の距離がどんどん近付いているのをシエラは……いや、私は、感じていた。
でも、カインに何を言っても無駄だった。
私は何度もティハナ様と距離が近すぎるんじゃないかと言った。
ティハナ様はカインに対してただの教育係に対する親しみ以上の気持ちを絶対持っていると伝えても、そんなの私の考え過ぎだとカインは言った。
そのくせ、カインとティハナ様の接近に苦しんでいる私の様子を見て、カインはいつもなんとなく嬉しそうだった。
たまにやっと会えた時でも、その日ティハナ様に何を教えたのか、ティハナ様がいかに物覚えが良いかなどを十分すぎるくらいに私に話して聞かせてきた。
なんだか、嬉しそうに。
それが私はとても嫌だった。
そしてそんなことが続いて、私はすっかり疲れ切ってしまった。
だからあの時、私はカインに言ったのだ。
少し遠くに行って療養したいと。
私はどうしてもその時カインとティハナ様から離れたかった。
するとカインは声を荒げて言った。
「駄目だ! 絶対行かせない!
死んでも行かせない!!」
私はエリオットを見た。
あの時のカインと表情がそっくりだ。
顔の筋肉の使い方も、力の入れ方も。
あの時のカインも、瞳の中に狂気が浮かんでいた。
今エリオットが瞳に浮かべているのと同じ狂気だ。
対象をその激情の渦の底へと掴み引きずり込もうとするような狂気だ。
その渦の底へ引きずり込まれた者は、心も体もバラバラになってしまう。
その渦は、そんな激しい渦だ。
この渦のような形の狂気を、全くの別人が持てるはずなんてない。
持てるはずないのだ。
そうか。
……やはりエリオットは…………
「絶対離さない!
絶対もう離れない!
一緒に僕達の家に帰るんだ!」
エリオットは私の手首を掴み、悲しみと焦りが混ざり合った声でわめき続けている。
その様子を、私はどこか冷静に見ていた。
エリオットを見れば見るほど、何もかもが下らなくなってきてしまった。
今更なんだっていうの。
もう全ては終わってしまったのに。
私達の絆は、あの時もう既に断ち切れてしまっているのに。
あなたが自らその手で断ち切ったのに。
だから私達の運命は、もう二度と繋がらないはずだったのに。
一体なんだっていうの。
そして、言ってしまった。
それを言えばどんなにエリオットが傷付くか分かっていたのに、言ってしまった。
「エリオット……エリオットは、カインなの?」
「!!!!
違う! 僕は、僕はカインじゃない!!
僕はカインじゃない!!
僕はもうカインじゃない!!!
違うんだ、リシュリー!!
何も思い出さないでくれ!
頼むから何も思い出さないでくれ!!!」




