湖畔へ
しばらくすると、馬車が動き出した。
ジャイム様は先ほどのネックレスを服の下へと戻すと、目を閉じ、聞き取れない言語の言葉を呟いていた。
私も目を閉じて、ジャイム様の家までこの馬車が無事に辿り着けるように無言で祈った。
少しの間祈っていると、ある違和感を感じた。
奇妙な音がするのだ。
それは、虫の羽音のような葉が擦れ合わさって出る音のような、そのような感じの音だった。
しかし、私はそういった音を聞いて気味悪く感じたことはこれまで一度も無かったが、今聞こえているこの音からはとても嫌な感じを受ける。
それはただのざわめきの音ではなく、ネチャネチャというような粘りけを帯びた音なのだ。
馬車に張り付き、その扉をこじ開けようとしている感じがする。
もしかすると……
「ジャイム様、変な音が聞こえない?
虫の羽音みたいな、ざわめきのような感じの音なんだけど」
「私には何も聞こえていないよ。
多分それは、あれの音だ。
きっとリシュリーちゃんはその気配や音を察知出来るのだろう。
その気配をより強く感じた時は、より警戒を強めるのだよ。
良かった。あれの気配を感じることが出来るということは、そうでないよりまだ身を守ることが出来るということだからね」
ジャイム様は目を閉じたまま、私に答えた。
「分かった。でもジャイム様、音からするとあれは馬車の中に入ってこようとしてるみたい。
大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。この馬車は神殿の馬車だ。
元々強力な護りの力を込められて作られている。
その上更に護りの結界を張っているから、あれもそう易々とは内側に入ってくることは出来まい。
しかし、気を緩めてはいけないよ、リシュリーちゃん。
気持ちを強く持つんだ」
「はい、ジャイム様。
キノル湖畔のジャイム様の家に着くまで、私も目を閉じて祈ってるね」
「ああ。それが良い。
必ず辿り着けると信じて、祈るといい」
私は目を閉じて、ジャイム様の家のことを考えた。
キノル湖のすぐ近くにある、大木と同化したような煙突屋根の、質素だが常に完璧な状態に整えられている家のことを。
ジャイム様の家の周りには膝あたりまで届く背の高い草が生えていた。
キノル湖畔は湿原になっており、水分をたっぷり含んだ沢山の植物達がその高い湿度の中で茂り育っていた。
その背の高い草も、よく潤いピカピカしている。
アルコの丘から見る、湖風が吹いて一斉にそれらの湖畔に生える植物達がたなびき揺れる風景は、とても美しいものだった。
その背の高い草は、ジャイム様が飼っている羊のステラの大好物だった。
いつもは家の中でのんびり過ごしている室内飼い羊のステラであるが、ご飯の時は外に飛び出しその草をもの凄い勢いで食べる。
いつもののんびりした性格が嘘のように、食い意地を張り、がめつい感じでムシャムシャと食べるのはいつ見ても面白かった。
去年の再誕日にエリオットとジャイム様の家に遊びに行った時も、そんなステラの食事の様子をエリオットと一緒に毎回見たっけ。
嬉しそうに食事に出かけるステラの後を二人でついていくと、なについてきてるんですか? みたいな感じで二人してステラに見られたけど、構わずについて行った。
背の高い草で草笛を作り、ステラが食事をしてる近くでエリオットと笛を吹いていたら、ステラがあのつぶらで可愛い目を三角形にして私達のことを睨んだんだっけ。
あれは絶対うるさいって言ってた。
あたしの食事の邪魔しないでくださる? って言ってた。
あの時は面白かったな。
エリオットと一緒にいっぱい笑ったんだった。
そういえば、エリオット草笛作るのがとても上手かったな。
まあ、なんでもすごく上手に作れるんだけど、エリオットの草笛と私の草笛では全然音が違った。
エリオットが吹く草笛の音は透明で、しっとりしたキノル湖畔中に軽やかな音が響いていた。
エリオットが自分のを私に貸してくれたけど、私にはあんな音は出せなかった。
逆に、私が作ったのをエリオットが吹いてみたらすごく綺麗な音が出たんだっけ。
そんなことをふと思い出すと、あの粘着質な音が大きくなった。
扉の方から、より強く聞こえる。
それは、無数の触手がネチャネチャという音を出しながら、なんとかして馬車の扉を開けようとしているのだという気がした。
「どうしようジャイム様、あの音が大きくなった。
扉をなんとかして開けようとしている気がするの」
「大丈夫、いくら音が大きくなっても、あれがこちらに入ってくることは出来ない。
しかし、今なぜ音が大きくなったのだろうか。
なにか原因があるのだろうか」
ジャイム様は目を開き、考えこんだ。
「……私、今この前の再誕日の日のことを思い出していたの。
エリオットと一緒にジャイム様の家に遊びに行って、一緒に草笛を吹いてとても楽しかったことを。
そうしたら、あの音が大きくなったの」
「そうか……
多分リシュリーちゃんも、もう薄々感づいているだろうが、あれはエリオットが発しているものなのかもしれない。
エリオットがそれを故意にやっているのか無意識にやっているのかは分からぬが。
きっとずっと昔から、エリオットはあれをリシュリーちゃんに絡みつかせていたのだ。
おそらく初めて会った日からずっと。
しかし、それは銀のハサミによってその殆どを断ち切られた。
そしてシルビア・ティヘラによるエリオットへの口づけでトドメを刺されたのだ。おそらくな。
それによって、リシュリーちゃんは一時的にでもあれから解放され、今本来の姿に戻っているのだ」
「そっか……
私、エリオットに対してずっと奇妙な感覚を感じたいたの。心がザワザワするような、少し気持ち悪い感覚を。
きっとそれは、エリオットがあれを発していることを無意識に感じていたからだったのかもしれない。
自分があれに絡みつかれていて、その感覚をもうとっくの昔から感じていたんだ」
エリオットは得体の知れない何かを私に絡みつかせ、私の力を奪っていた。
力を奪って親切にして、私を一人では立つことが出来ない人間にしようとしていたのかもしれない。
きっとそれはとても卑怯なやり方だ。
しかしそれが分かっても、エリオットのことを嫌いになれなかった。
私はかなりアホなのかもしれない。
「きっとそうだ。
少なくとも今、エリオットのことは考えない方が良いのかもしれない。
リシュリーちゃんがエリオットのことを考えると、あれにはそれが分かるのだと思う。
そして、リシュリーちゃんの内側に入り込もうと精一杯の力で扉をこじ開けようとする。
しばらくエリオットのことは忘れなさい。
難しいかもしれぬがな」
「分かった。やってみる。
でもそう言えば、ジャイム様の家に着くまでにエリオットに見つからないかな。
きっと鍛冶屋フェレールの横を通るでしょ?
アルコの丘を馬車が通るなんてなかなか無いことだし、それにこの馬車はジャイム様がいつも使う馬車とは違うから。
きっと目立ってしまう気がする」
「それについては心配は無いよ。
今日は海の道が現れている。
そこを通れば遠回りではあるが、アルコの道を通らず私の家までゆくことが出来る。
ただ、エリオットはサンティ=ハイメ神領島中、君を探し続けている。
私の家に着くまでに、エリオットがこの馬車に君が乗っていると気が付くこともあるかもしれない。
エリオットに扉を開けて欲しいと言われても、決して扉を開けてはいけないよ」
「もちろん。
ここまで来たからには、絶対巡礼の旅に出たい。
それに、今、初めてエリオットと離れたいと思っているの。自分自身のために。
自分だけの力で旅をしてみたいと思ってる。
それに、長く眠ってしまう前に声が聞こえてきて。
その声は、今こそエリオットと本当に別れる時だって言っていた。
私、巡礼の旅に出ることが出来たら、それはエリオットからの別れの旅にもなる気がするの。
だから、上手く伝えられないのだけれど、だからこそ今エリオットには絶対会ってはいけない気がする」
私がそう言い終わるか終わらないか分からない内に、あの音が物凄く大きくなった。
ダン!ダン!ダン!ダン!というおびただしい無数の音で、馬車を引く馬の走る音さえ聞こえない。
それはおそらく、馬車の扉を何としてでも叩き壊そうとしていた。




