内なる声
「うわああぁっ!」
目が覚めると、涙がたくさん出ていた。
顔中が濡れている。口の中にも涙が入り込んでいて、しょっぱい味がした。
今の夢は、シエラの夢を見た時とは違った。
その一部始終を鮮明に覚えている。
夢の記憶が頭から消えていく気配も全く無い。
あの部屋に満ちていた波の音も、全ての窓に取り付けられていた細かい目の格子も、手首を縛っていた綿のような紐の感触も、克明に思い出せる。
むしろ忘れようとしても、決して忘れられない気すらする。
早く忘れたいのに。
シエラの夢は忘れてしまうのに、どうして忘れたい夢は忘れられないの。
気付けば、アビエラお婆さんに貸してもらっている蕎麦殻の枕も随分と濡れてしまっていた。
申し訳ないことをしてしまった。朝になったら謝らなくちゃ。
こんなに沢山涙を流すのは随分と久しぶりだ。
今まで眠っていたというのに、泣き疲れている。
大泣きした後のガンガンと頭が痛む感覚がする。
心臓もいまだかつて無いほどバクバクしている。
今のこの体の状態は、当分おさまりそうにない。
大丈夫。今見たものは現実ではない。
ただの夢だ。ただの、とてもとても悪い夢だ。
自分にそう言い聞かせて、心臓を手で押さえた。
なんて酷い最悪な夢だったんだろう。
あんなこと、起こるわけないのに。
エリオットがあんなこと、するわけないのに。
エリオットはあんな酷いこと、絶対しない。
絶対、絶対しない。
あれは、監禁だった。
そして、無理矢理子供を作らされていた。
最悪だ。最悪、最悪、最悪。
最悪以外の何者でもない。
そんな夢を見る私も最悪な人間だ。
どうしてあんな最悪な夢を見てしまったのだろう。
きっと、昨日エリオットが呼び止めるのを無視してアビエラお婆さんの元へ来てしまったからだ。
あの時に強く感じたエリオットへの罪悪感が、きっとあのとんでもない夢を見せたに違いない。
そうでなければあんな夢、見るはずが無いのだ。
エリオットは子供の頃からずっと、優しい優しいエリオットなのだから。
……本当に?
心の奥底から声が聞こえてきた。
聞きたくない。
耳をふさぐけれど、その声は聞こえてきてしまう。
それは、内なる自分の声だから。
本当にエリオットは、ただただ優しいだけのエリオット?
違うでしょ。とっくに分かっていたでしょ。
エリオットが持つ底無しの暗闇を、あなたは本当は何度も見ているじゃない。
エリオットが本当はどんな人間か、あなたを本当はどうしたいのか、とっくに知っていたじゃない。
でもそれを見る度に、あなたは何も見なかった振りをした。
それは、あなたが……
あなたが、それでもエリオットの側に居たかったから。
とっても仲良しの幼馴染みとして、エリオットとずっと一緒に居たかったから。
恋心を持てなくても、エリオットを愛していたから。
本当は、エリオットに運命の人が居ても、血楔病が治ってエリオットの血が必要では無くなっても、本当の本当は、あなたはエリオットと一緒に居たかった。
でも、時が満ちてしまった。
あなたは決定的に理解してしまった。
エリオットがあなたを想う気持ちと、あなたがエリオットを想う気持ちの、その間にあるあまりにも大きな隔たりを。
今の夢を見てしまったことで、分かってしまった。
もうエリオットと一緒には居られない。
エリオットの手を離す時が来てしまった。
あなたは、旅に出なければいけない。
巡礼の旅に。
そして今度こそ、エリオットと永遠に別れなければならない。
今度こそ、必ず。
その内なる声の言葉は、まるで津波のように私の意識をさらっていった。
それは、知りたくなかった自分の本心だった。
これまでずっと見て見ぬふりをしていた。
でもあの夢を見たことによって、もうごまかすことが出来なくなってしまったようだ。
きっと、今が潮時なのだ。
内なる声が言うように、時が満ちてしまったのだ。
それを本当に理解した時、とてつもない悲しみに襲われた。
そのあまりの悲しみは、私の意識を朦朧とさせた。
そして私は気を失った。
目を開けると、見たことの無い天井があった。
白くて清廉な天井だ。
アビエラお婆さんの家の天井は白くなかったはず。
ここはどこだろう。
すると近くから、聞くだけで心から安心する優しいジャイム様の声がした。
「リシュリーちゃん。目を覚ましたかい」
「……ジャイム様。
ここはどこ? 私、アビエラお婆さんの家に泊まらせてもらってたはずなのに」
声が聞こえる方に顔を向けると、やはりジャイム様がいた。
「リシュリーちゃん。君はずっと眠っていたのだ。
随分とよく眠っていた。
もう何日か経てば君は、十六歳になる」
「え……私、そんなに長い間眠っていたの?」
「そうだよ。
一応ここは、神殿附属の病院の中だ。
理由があって君がここにいることは君のお父さんとお母さんしか知らぬ。
リシュリーちゃん。なぜ、君がこんなにも長く眠ってしまったのか、その理由は分かっているね」
「……きっととても悪い夢を見たから。
とても最悪な夢を見たから、そのショックでだと思います」
「ああ。その通りだ。
そしてリシュリーちゃんが見た、その悪い夢がただの悪夢じゃないことも、もう気付いているね」
「……はい」
「リシュリーちゃんが見たのは、もしも今のこの時点まで同じ時系列を辿る千の世界があったとして、その内九百九十九の世界で確実に起こることだ。
もしくは、どこかの世界でもう起こったこととも、言えるかもしれない」
「……はい。そんな気がしていました。
具体的には分からなかったけれど、もしかしたら一種の予知夢かもしれないって」
「そして、あの夢を現実にしないためにはどうすれば良いか分かるかい」
「……巡礼の旅に出る。でも」
「金色の羊の毛のお守りが見つかっていない、だろう」
「どうしてジャイム様はなんでも知っているの?」
「アビエラさんから話を聞いたからだよ。
リシュリーちゃんの悪夢のことも、アビエラさんから聞いたのだ。
アビエラさんとは古い付き合いでな。
アビエラさんは全てお見通しなんだよ」
「やっぱり。そんな気がしてた。
アビエラお婆さんは只者ではないって。
あの、ジャイム様。エリオットはどうしてる?
私、悪夢を見た前の日に、エリオットに酷いことをしてしまったの。
待ってって言われたのに、待たずに走っていってしまった。
エリオットのすごく傷付いた声が聞こえたのに。
もし、九百九十九の世界のエリオットが本当にああなってしまうのなら、その原因はきっと私にもあると思う」
「リシュリーちゃん、自分を責めてはいけないよ。
君とエリオットはあまりにも数奇な星の下に生まれているのだ。
結ばれることも出来なければ、別れることも出来ない。
エリオットはそれが苦し過ぎて、ああなってしまったのだろう。
君へのあまりの愛が、あの世界では彼を壊してしまった。
この世界のエリオットは、今この時も君を探し続けている。血眼になって、幾夜も眠らずに。
しかし、今決してエリオットに会ってはいけない。
きっとリシュリーちゃん自身も分かっているね。
もし、あの世界へと続く道を辿らずに済む方法があるのなら。
たった千分の一の世界へと続く道を進むことが出来るとするなら。
その分岐点は今なのだ」




