海の絵
「ううん。知らないや」
私はなんとなく、その金色の羊の毛のお守り、というものの存在をどこかで聞いたことがある気がした。
しかし、いつ誰から聞いたかをはっきりと思い出すことは出来なかった。
だから私は、知らないと答えた。
「言い伝えではな、金色の羊の毛で作ったお守りにはあらゆる魔を退ける力があるという。
知っておる者はわずかばかりの、古臭い言い伝えじゃがな。
じゃがもしそれを手に入れることが出来れば、お前さんが感じたという体中に絡まりついていた何かを、退けられるやもしれん」
「アビアラお婆さんありがとう。
私ね、ずっとそういう力を持つ何かを探してたんだと思う。
でも、どこに金色の羊がいるんだろう。
これまでそんな羊見たことないや」
「ああ。
わしも、そのお守りを手に入れられた者にはまだ出会ったことがない。
手に入れられたという者の話すら聞いたことがない」
「そんな。
じゃあ、私がそのお守りを手に入れられる可能性もかなり低いんじゃ」
「低いだろうな。
じゃが、これはただの迷信でもない。
今の、ツキが回ってきているお前さんであれば、手に入れることが出来るかもしれない。
少なくとも、今お前さんは金色の羊の毛のお守りについて知った。
その存在を認識することによって、金色の羊の毛のお守りとの繋がりを作ったのだ。
繋がりとは道じゃ。
その道を歩いていけば必ず辿り着ける。
そう信じるのじゃよ」
「うん、ありがとう。
なんとかして探し出したい。
私ね、なぜだか、見つけられる気がする。
アビエラお婆さんのおかげだね」
私は、アビエラお婆さんのシワのたくさんある慈愛に満ちた顔を見た。
その顔は優しくて、そしてとても頼もしくて、大好きという気持ちが溢れて顔が自然と笑顔になった。
アビエラお婆さんも微笑みを返してくれた。
その笑顔は美しく、もしかしたらアビエラお婆さんは若い頃はものすごい美人だったのかもしれないと思った。
その時、先程も聞こえた気がした、あの何かを叩くような音が聞こえてきた。
微かだが、叫び声のようなものも聞こえる気がする。
それは複数人が言い争そうような、そんな風にも聞こえた。
「アビエラお婆さん、何か聞こえない?
何かが叩かれているような、人の声のような。
とても微かだけれど」
「あー、これかい。
この建物は頑丈だが、頻繁に軋む音がするんじゃよ。
ネズミが走ったり、煙突から風が入り込んだりしてな。その音じゃな。
ワシはもう慣れっこじゃい」
「そっか。それならいいんだ」
私は音の正体が分かってホッとした。
「さあ、リシュリー。
次第に夜が近付いてくる。
これから冷え込むから。あちらの部屋に居なさい。
毛布をかけて、ソファーで本でも読んどれ。
夕飯はトマトと豆の煮込みにするぞい」
「ありがとう、アビエラお婆さん。
そういえばもう随分長い付き合いだけれど、アビエラお婆さんの手料理食べるのって初めてだね。楽しみだなあ」
「ワシの料理は死ぬほど美味いぞい。
ほっぺたが落ちないように要注意じゃ」
「楽しみ!」
私はソファーが置いてある部屋に行った。
そこも、モザイクタイルの壁だった。赤青白の三色がバランス良く散りばめられており、あちらこちらに置かれている観葉植物の緑色とも良く合っていた。
東側の壁には大きな絵が飾ってあった。
銀色の額縁に入れられた、イハの海が描かれた美しい絵画だった。
それは水彩画のようにも見えたし、油画のようにも見えた。
これまでに見た絵画には使われていない絵具を使っているのかもしれないと思った。
その絵は、イハの海のエメラルドグリーンが繊細に、とても写実的に再現されているのに、どこか夢の世界の中のように幻想的だった。
その幻想的なイハの海を包み込む空は、いつか見たような黄や緑や青が混ざり合ったような真新しい朝の空として描かれていた。
そして白い海霧が、うねるように、天に届きそうなほど高くまで立ち昇っている。
不思議だったのは、立ち昇る白い海霧の先の、空の向こうに、太陽より強く輝く水色の星が描かれていることだった。
幻想的ながらも写実的に描かれたその絵の中で、その水色の星だけが現実には存在しないものだったから。
その水色の星は、まるで星中が水で満ちているようだった。
星の潤いを実際に感じられる程の描写だった。
この絵を描いた人は、きっとずば抜けた画力を持つ画家なのだろう。
この絵を見つめていると、実際には見たことが無いこの星が、宇宙のどこかで必ず存在しているという気がするのだ。
私はトマトと豆煮込みが出来上がるまでその絵をただじっと眺めていた。
アビエラお婆さんのトマトと豆煮込みは、本当にほっぺたが落ちそうになるくらい美味しかった。
これは母さんには言えないが、母さんの豆煮込みよりも断然美味しかった。
なんらかのハーブが入っていて、それが豆の美味しさを引き立てていた。
私は三皿もおかわりしてしまった。
夕食を食べている途中でカラスのカラメルちゃんも無事に帰ってきて、カラメルちゃんも一緒にご飯を食べた。
カラメルちゃんは私達の中で一番豪華なお食事を食べていた。
そして、私達の中で一番お上品にお食事を食べていた。
ダイニングテーブルには蝋燭が何本も灯され、それが部屋をより暖かく照らした。
言葉は少ないが、楽しい夕食だった。
「じゃあおやすみ、アビエラお婆さん。
夕ご飯、とっても美味しかった。
今日は何から何までありがとう」
「ヒョッヒョッヒョッ。良いんじゃよ。
よーくお眠り。リシュリー。
きっと今日は疲れたはずだ。よく眠れるよ」
「うん。ぐっすり眠るね」
私は皮のソファの上で、アビエラお婆さんが持ってきてくれた暖かい毛布にくるまり、蕎麦殻の枕に頭を沈めて眠りについた。
今日はエリオットが目覚めなくなったり、髪をバッサリ切ったり、地震があったり、エリオットが暴れたり、シルビアちゃんとエリオットが濃厚なキスをしたり、私の体の調子がものすごく良くなったり、アビエラお婆さんの家に急にお泊まりすることになったり……
こうして思い出すと、かなり色々なことがあった一日だった。
とても疲れたが、なにか物事が大きく動いた一日だった気がする。
金色の羊の毛のお守りのことも知ることが出来たし、ヌッちゃんには次会った時色々と良い報告が出来るだろう。
あ、アダンに手紙書くことも忘れないようにしなきゃ。
そして、明日エリオットに会ったらごめんねって言わなきゃ。
あの時、エリオットは待ってって言ってたのに走っていってしまってごめんねってって伝えなきゃ。
思いを巡らせているうちに、私は眠りの世界へと誘われていった。
そして、とてつもなく悪い夢を見た。
それは、これまで見たどんな悪夢とも、シエラの夢とも違っていた。
ただただ、とてもとても悪い夢だった。
これまでの人生の中で見た夢の中で、圧倒的に悪い夢だった。
その夢の中。
海のそばの家の中で私はベッドに縛り付けられていた。
そして、ベッドの隣には正気を失ったエリオットがいた。




