雪の中の口づけ
「エリオット! 目が覚めたんだね!
良かった……本当に良かった」
「この馬っ鹿野郎、心配かけやがって」
私とベレトお兄さんは私達の前まで息を切らして走って来たエリオットを見て、心から安心した。
エリオットは目覚めてすぐここに向かって来たようで、衣服が乱れていた。
慌てて着替えてきたのだろう。
黒いコートのボタンはほとんど閉まっていない。
髪も少しボサボサとしている。
顔色もまだ良くはなかったが、しかしそれでも、エリオットがひとまず悪夢から目覚めることが出来て本当に良かった。
もしこのままエリオットが目覚めなかったらと思うと、本当はずっと怖くて怖くてたまらなかった。
私はエリオットの頬に手を当てた。
エリオットの頬は冷たく、まるで氷に触れるようだった。
いつもは色彩に溢れて見えるエリオットが、今はなぜだかモノクロに見えた。
「リシュリー……髪が……リシュリーの髪が……」
悪夢にうなされ続けたせいで掠れてしまった低い声で、エリオットが言った。
エリオットは、信じられないものを見るような目で私を見ていた。
紺碧の瞳は小刻みに揺れ、その強い動揺が手に取るように分かった。
「これね、アビエラお婆さんからエリオットを目覚めさせる薬を作るためには私の髪が必要だって聞いて。
どう? すごくすっきりしたでしょ」
「……そんな……そんな!!」
エリオットは叫ぶようにそう言うと、私とベレトお兄さんの後ろにいるシルビアちゃんの方を凄まじく恐ろしい目で睨み付けた。
瞳の中には激しい憎悪の炎が燃え盛っていた。
「お前が……お前がリシュリーの髪を切ったのか!?」
「え、だってリシュリーちゃんが私に切って欲しいって言ったから……」
「そうだよ、エリオット。
私がシルビアちゃんに切ってって頼んだの。
銀のハサミを使って、シルビアちゃんに切ってもらいたいって頼んだんだよ。
だから、シルビアちゃんは何も悪くないよ。
ただ自分の仕事をしただけだよ」
「おい、エリオットどうしたんだよ。
多分お前、まだ完全に正気に戻ってないんだよ。
ほら、家に帰ろうぜ。そんでゆっくり休もうぜ」
ベレトお兄さんが、エリオットの肩に自分の腕を回し、アルコの丘の方へ連れて行こうとした。
それは大切な兄弟に対する親しみを込めたものであったが、エリオットの動きをいつでも抑えられるようにするためでもあるということが私には分かった。
ベレトお兄さんは、今のエリオットの精神的な危うさを、他の誰より察知しているようだった。
「……してやる」
「え、なに? エリオット?」
シルビアちゃんがきょとんとエリオットに聞いた。
「殺してやる! 殺してやる!
お前がどうしても僕達二人の前から消えないっていうのなら、僕達二人の仲を引き裂こうっていうのなら、僕がお前を殺してやる!!
あの時だって、お前が死ねば良かったんだ!
お前があんなことさえしなければ!
そうすれば……そうすれば……」
歪んだエリオットの両目から涙がこぼれ落ちていた。
こぼれ落ちた大粒の涙は、地面に積もった白い雪に次々と穴を開けていった。
エリオットは怒りを抑え切れない様子で、その口からは白い吐息がフーッフーッと漏れていた。
「ちょっと、エリオット!
やめてよ! なんでそんな酷いこと言うの!?」
私は今にもシルビアちゃんに掴みかかりそうなエリオットからシルビアちゃんを守ろうと、シルビアちゃんの前に立って言った。
ベレトお兄さんも、エリオットを後ろから羽交い締めにして、なんとかエリオットを止めようとしていた。
「おいエリオット!
いくら正気じゃなくても言って良いことと悪いことがあるぞ!
シルビアちゃん、早く店の中に戻れ!
今のエリオットは危険だ!」
ベレトお兄さんがエリオットを押さえつけながら、そう大声で言った。
しかし、シルビアちゃんはシルビアちゃんの前に立つ私の横を通り過ぎ、エリオットへと近付いていった。
「エリオット、私は分かってる。
そんな言葉、本心じゃないよね……?
私だけはエリオットの本心を分かってるから。
そして、私達は必ず結ばれるって知ってるの」
シルビアちゃんはうっとりとそう言い、私が先程手を当てたエリオットの左頬に手を伸ばし、愛おしさが溢れる手つきで何度も撫でた。
その姿は猛獣を飼い慣らそうとする調教師のように見えた。
「僕に触るな! やめろ!!
お前を必ず殺してやる!」
「やめて、シルビアちゃん!
今のエリオットにそれ以上近付いちゃダメだよ!」
「シルビアちゃん、やめろ!
俺もいつまでエリオットを抑えられるか分からない!」
シルビアちゃんには私とベレトお兄さんの言葉は聞こえていないようで、エリオットへと更に近付いていった。
二人の距離はゼロになった。
そして、シルビアちゃんはエリオットの頬を自分の両手ではさむと、エリオットに深く口づけた。
それはとても美しく、濃厚な口づけだった。
シルビアちゃんは何度も何度も角度を変え、エリオットの口と自分の口を交わらせていた。
美しい二人を更に美しく輝かせるかのように、純白の雪がその上へ舞い降りていた。
まるで時間が止まっているかのように、シルビアちゃんは長い間エリオットに口づけていた。
シルビアちゃんの後頭部でエリオットの表情は見えなかったが、先程まであれだけ暴れていたのが嘘のように大人しくなっていた。
両腕がぶらりと下に垂れ下がり、力が抜けきっているようだった。
そして、私の肉体に変化が起きた。
先程シルビアちゃんに銀のハサミで髪を切ってもらった時のように、いや、それ以上に体が軽くなったのだ。
体がとても軽く、力が満ち溢れてくる。
足には力が入り、自分だけの力でこの場に立てていることを感じる。
肉体中を強く脈打ちながら流れる、自分自身の血の奔流を感じる。
心臓の強い鼓動が耳に聞こえてくるようだ。
今、体中のそこかしこから、生命エネルギーが泉のように湧き出している。
そんな私から溢れ出るエネルギーに感応するかのように、白く輝く雪の結晶が、きらめきながら私の周りで渦を巻いた。
キラキラ、キラキラという音が聞こえそうなほど、それらはきめ細やかに美しく輝いていた。
まるで雪の結晶達が互いに手を繋ぎ、私を囲み歌い踊っているようだった。
雪の精霊が私を祝福してくれている気がした。
もしかすると全くの偶然で、ヌッちゃんと探し続けていた生命エネルギーを補給する方法、もしくは生命エネルギーを枯渇させない方法を、発見したのかもしれない。
もしかすると、今なら、この状態ならば、巡礼の旅に出られるかもしれない。
今のこの状態さえ、なんとか持続することさえ出来れば。
巡礼の旅に出て、この世界に本当に生まれることが出来るのだ。
そして、血楔病を治すことが出来る。
どうしよう。今、一刻も早くこの状態を持続する方法を見つけないと。
なんとなくだが、あの私の体に絡みついて私の力を奪っていた目に見えない何かは、しばらく経てばまたどこからかやって来てしまう気がした。
あれに絡みつかれれば、また生命力は奪われ枯渇してしまう。
時間が無い。
早くしないと。
でも、誰に助けを求めれば……
そうだ。アビエラお婆さんなら、この良い状態を持続させる薬を作れるかもしれない。
切った髪を持って行く約束もしているのだ。
今行くべきは、アビエラお婆さんの元の他無い。
本能でそう感じた。
「アダン! ベレトお兄さんの力になってあげて。
私には今すぐに行かなくちゃならないところがあるの。お願い」
「え? お、おう。了解!」
ポカンと口を開けてエリオットとシルビアちゃんの口づけを見ていたアダンにそう言い、私は薬種屋・アビエラの大窯へ向かって走った。
今までよりずっと速く走れる。
息もそんなに切れない。
これが本当に走るってことだったんだ。
なんて気持ちが良いんだろう。
少し走ると、後ろからエリオットの声が聞こえてきた。
「っはぁ、リシュリー!! 違うんだ!!
違うっ! 違うっ! 違うっっ!!
待って!! 行かないで!!
嫌だ、嫌だ! 行かないでリシュリー!!」
すごく傷付いている声だった。
きっとエリオットは涙を流している。
とてもたくさん流している。
そう分かる声だった。
でも、今は急がなければいけない。
今を逃したら、きっともうチャンスは無い。
エリオット。大丈夫だよ。これが終わったらちゃんと牧場に帰るから。
そうしたら一緒に暖炉の前で、いつものように並んでお揃いの色違いのマグカップで、温かいお茶を飲もうね。
私はエリオットに対して感じる申し訳ない気持ちを掻き消したくて、エリオットにそう心で語りかけるふりをした。
私は全速力で走り、薬種屋・アビエラの大窯に辿り着いた。
アビエラお婆さんは私を店の中に入れると、扉を閉めて鍵をかけた。
ステンドグラスの窓にも黒いカーテンを引き、外から店の中が見えないようにした。
そして何かお札のようなものを扉に貼り付けた。
「リシュリー、こちらへおいで。
きっとすぐにここまで追って来る。
リシュリーのその願いを叶えるためには、今は一人でいなければいけないよ」
「……?
よく分からないけど、分かった」
私はアビエラお婆さんに連れられ、カウンターの奥の、これまで一度も入ったことのない店の奥へと進んだ。




