始まりの日
今日からついに神官養成学校で特別講義が始まる。
早引きしたあの日から、エリオットはまた特別講義に出るのを嫌がり、エリオットの家族と一悶着起こしてしまった。
特に、エリオットのすぐ上の、歳が一番近いベレトお兄さんとは取っ組み合いの大喧嘩になり、翌日エリオットの頬には、ベレトお兄さんに殴られた跡と思われるものがあった。
エリオットが学び舎でシルビア・ティヘラにひどい態度を取ったことは、エリオットのお兄さん達の耳にも入ってしまったらしかった。
理髪店・銀のハサミは、今後鍛冶屋フェレールの重要な取引先になると考えられていたため、一番家族思いで正義感が強いベレトお兄さんは相当怒っているみたいだった。
それでもエリオットはどうしても、絶対行かないと言い張ったらしい。
しかし、もう出席すると正式な返事を出してしまっている以上行くしかないことになったみたいだった。
そして、最初はエリオットが特別講義に行く前日にやる予定だったベモット拘禁の儀式だったが、当日にやることになった。
特別講義が正午近くから始まるため、午前中に出来そうだからだ。
特別講義は正午近くから始まり夜までやっているので、朝に血を貰わないとそれ以降エリオットから血を貰える機会は無い。
もしものことを考えると、準備は万端にして大図書館に行きたかったので、エリオットのこの提案はありがたかった。
「おはよう、リシュリー。入っても良い?」
エリオットがやって来た。声にあまり元気が無い。
「おはよう、エリオット。どうぞ」
エリオットと目が合うと、いつものように嬉しそうにニッコリ笑った。
「あれ、なんかリシュリー今日顔色良いね」
実は、昨日から興奮していた。
今日という日は、ついに例の作戦の始まりの日なのだ。
なんとか血楔病を治す手がかりを見つけるという意気込みの他にも、単純に大図書館に行くのが楽しみになっていた。
ただ一人、自分だけで街に降り、大図書館へ行く。
考えてみれば、私の隣にはいつもエリオットが居てくれた。牧場でも、ヴェネラの街でも。
一人だけでどこかへ出かけるなんてことはこれまで、ただの一度も無かった。
きっと無いとは思うが、途中でエネルギーが不足することもあるかもしれないというのに、不謹慎にも私はなんだかとてもワクワクしていた。
一人で丘を降りて、一人で街を歩く。
自分のペースで、自分だけの歩幅で。
フワフワと、どこまでも高く、どこまでも遠く飛んでいけそうなこの気持ちの名前はきっと……
だめだ。その気持ちについて深く考えてはいけない。
エリオットのことを血楔病で縛り続けている私が、こんな気持ちを抱くなんて、あってはならないことだ。
「さっき温かいスープを飲んだからだよ。
それより、早くあの儀式しちゃおうよ」
「うん。リシュリー」
エリオットはうっとりと笑い、私達はいつものように手を繋いで屋根裏部屋へと続く、絶望の階段を登っていった。
「リシュリー、こっちに来て」
エリオットは最近、この儀式の時に上の服を全部脱ぐようになった。
冬で厚着をしているため、全部脱いでしまった方が早いからということだった。
でもそれは、血を飲んでいる時の、私の血への欲望を強めた。
エリオットの胡座の上に腹部を合わせて座り、エリオットの両肩に手を置くと、エリオットがじっと私の目を見つめていた。
「リシュリー。
僕の血は全部、リシュリーだけのものだよ」
私の瞳の虹彩の、そのずっと奥の奥まで見ようとするような目で、誰もが見惚れる美しく妖艶な表情をして、エリオットはそう言った。
「あ、ありがとう」
なんだかどぎまぎしてしまった。
あ、ありがとうじゃないよ。本当はいくら感謝してもし足りないのに。
エリオットへの感謝の気持ちは、なかなかエリオットにちゃんと伝えきれていない気がする。
でも、エリオットへの感謝は伝えれば伝えるほど苦しくなる。
血楔病という現実を、エリオットの優しさにつけこんで血を奪っている現実を、突きつけられるから。
でも、ちゃんと伝えないと。
今度ちゃんとエリオットに感謝の手紙を書こう。
丁寧に、一言一言よく考えながら。
そして、いつものようにエリオットの首元に顔を埋めて血を飲んだ。エリオットの金色のサラサラの髪の毛が私の頬に触れる。
エリオットは、私を強く抱きしめ、苦しそうな声と呼吸で、ガクガクと震えている。
腕の力がとても強くて、どんどんエリオットの方へと、痛いくらいに引き寄せられている。
体中の至る所に、エリオットの腕や脚が巻きついているのを感じる。
血を飲んでいる私の頭に、エリオットの頬が強く押し付けられて、苦しそうに吸っては吐く息や声が私の耳や首筋に当たっていた。
血を飲み終わると、エリオットが大きくのけぞり、いつものように倒れ込んだ。
エリオットの血を飲み満たされると、いつものように、ものすごい罪悪感と自己嫌悪が襲ってきた。
やっぱり、血を奪い終わったらすぐに離れたい。
怪物である私が、エリオットにずっとくっつき続けてはいけない気がする。
シルビア・ティヘラというエリオットの運命の人の出現もあって、これまでのようにエリオットと近すぎる距離には居ない方が良い気がしていたし、居られなくなる気もしていた。
エリオットが床へと倒れ込むとき、さりげなく聖なる六芒星の外へ出ようとした。
しかしすぐに、エリオットに腕を掴まれて引き寄せられて腕の中に閉じ込められ、腹部を固定された。
意識が朦朧としているみたいなのに、腕を伸ばしながらじっと私を見る切れ長の瞳には、強い光が浮かんでいた。
その光は、明るくも見えるし、とても暗くも見える。
まるでその光の中から、もう一本腕が伸びてきそうと思った。
「……リシュリー、ううっ……っ、行かないで。こっちへ、来て……っっ」
息も絶え絶えにそう言われては、断ることなんて出来ない。
私はエリオットの腕の中でじっとしていた。確かにこうしていると、とても安心する。
エリオットはまだ震えている手で、私の髪をずっと撫でてくれた。
しばらくそうしていた後、私の部屋へと戻りエリオットを私のベッドへと寝かせてあげた。
エリオットはこの前のフレサの実のジャム入り紅茶がとても気に入ったようなので、それをまたふたり分作って、部屋で一緒に飲んだ。
しばらくゆっくり過ごしているうちに、そろそろエリオットが特別講義のため神官養成学校へと出発しなければいけない時間になった。
でも、エリオットは私のベッドの上で俯いて動かなくなってしまった。
「リシュリー、やっぱりどうしても特別講義に行きたくない」
「え、そんな……
でもどうしても行かなきゃいけないって言ってたよね?」
「ああ。それでも行きたくない」
どうしよう。エリオットがゴネ始めてしまった。
「またベレトお兄さんに殴られるかもよ?」
「いくら殴られても構わない」
エリオットはじっと下を向いている。
「でもベレトお兄さんが、もしエリオットが特別講義に行かなかったら、神殿から睨まれて注文が来なくなるかもって言ってたって、エリオット言ってたよね。
きっとそうなると、ベレトお兄さんだけじゃなく、カルボおじさんも、カルデロお兄さんも、オルノお兄さんも悲しむよ。
それは良くないよ、エリオット」
「…………」
ジャイム様の話に聞く神殿という組織や神官達は、そんな小さなことをするような感じではなかったが、大きな組織には色々な人がいるので、そんなことも起こらないとは限らないのかも。
エリオットは長いこと黙ったまま下を向いていたが、しばらくして顔を上げた。
「そうだね。僕も家族が悲しむのは嫌だ。
やっぱり特別講義に行くよ」
良かった。
「でもリシュリー、絶対大丈夫だからね」
エリオットは私の手を握りそう言った。
何が大丈夫なのかは言わなかった。
そして、エリオットは準備を整えて特別講義へと向かった。
牧場を出る時、まるでこれから戦地へ赴くかのように手をギュッと握り、私の目をじっと見つめていた。
「また、明日ね。エリオット」
「……うん、また明日。リシュリー」




