秘密の花畑
エリオットとの秘密の花畑でのピクニックへは、それからしばらく行けなかった。
雌牛のビィダのお産があったからだ。
妊娠後期のビィダには、もういよいよ赤ちゃんが産まれそうという兆候が体のあちこちに出ていたから、私とエリオットはずっとビィダに付きっきりでいた。
いつ陣痛が始まっても良いように、沢山のタオルや、もし難産だった時のためのロープなども万全に用意して、ビィダの様子を注意深く見守っていた。
そして、いよいよ陣痛が始まって、エリオットは父さんを呼びに行き、私は鳴きながら不安そうに歩き回るビィダに母さんに教わった通り優しく声をかけ続けた。
そして、父さんや母さん、兄弟達も全員慌てて牛舎に駆けつけ、ビィダを刺激しすぎないように気をつけながらも、精一杯励まし続けた。
幸運なことに難産ではなくて、一次破水、二次破水と想定していた時間内に終わり、二次破水してからしばらく経った時、赤ちゃんが出てきた。
ビィダは初めてのお産だったけど、産まれたばかりの赤ちゃんをとても大切そうに舐めていた。
もうすっかりお母さんの顔になっていて、とても優しくて、頼もしい顔だった。
ビィダはしばらく赤ちゃんを舐め続け、一時間くらい経った後、赤ちゃんがビィダのお乳を飲み始め、私達みんな心からホッとした。
赤ちゃん牛は胎内で免疫を獲得出来ないため、この初めてのお乳を飲むことが、赤ちゃん牛が免疫を得る唯一の手段だからだ。
そして、本当はこんなこと思ってはいけないけど、生まれた赤ちゃんが雌だったことにもホッとした。
これでこれからも、この子と一緒に過ごせる。
牧場の生き物のお産には何度も立ち会っているけれど、何度でも心が震えて止まらなくて、その震えが体全体に広がってなかなかおさまらないくらい感動する。
もしも、一番の魔法の力を決めるとしたら、こうして命を世界に生み出す力、はぐくみ育てて増やしていく力こそ最強の魔法だと、いつも思う。
そして、その力は最強であると同時に、時に全てを覆い尽くし呑み込んでいく、最も恐ろしい破壊の力だとも思う。
震えている私の手を、エリオットが握ってくれた。
見上げると、エリオットも感動しているようで、目が潤んでいた。
エリオットが実は泣き虫だということを、私だけは知っているのだ。
そして、バンダーとミグラは嗚咽を漏らして号泣していた。
それを自分も涙目のパロマにからかわれて、顔を赤くして怒っていた。
無事にビィダのお産が終わってホッとしていたのもあって、それを見て全員でクスクスと、しかしかなりしつこく笑ってしまった。
怒り方までピッタリ一緒だったし。
牛舎にみんなのクスクス笑いが響き、新しく生まれてアルコ牧場の一員になったばかりの牛の赤ちゃんは、ビィダに大切にお世話されながら、それを不思議そうに見ていた。
それからしばらく経って、ビィダもビィダの赤ちゃんの状態も安定しており、もう大丈夫だろうとなって私達はやっとピクニックに出かけた。
子供の頃二人で見つけた秘密の花畑へ。
エリオットの血を飲み、私が部屋の外に出られるようになってから、エリオットと二人で牧場のあちこちを探検した。
そして、マリポサ草が群生している、あの端っこ草場から水路を道なりに行った所に花畑があることを発見したのだ。
それは、アルコ牧場からキノル湖畔側に少し丘を降りた先の斜面にある。
花の種が自然と鳥や風に運ばれて育ったようで、色とりどりの様々な種類の花がたくさん咲いていて、綺麗で可愛い場所だった。
イハの海や、キノル湖畔、クララ川も見えて景色も抜群に良い。
私達はこんな素敵な場所を自分達だけで見つけたことに大興奮し、この場所を二人だけの秘密の場所にした。
そして、天気の良い日にたまに散歩やピクニックに来ていた。
「エリオット、やっぱりこの場所は特別だね。
何度見ても抜群の景色だし、とっても良い海風が吹いてくる。
最近イハの海にまた海霧が出ていたけど、今日はあんなに遠くまで見通せるよ。
最高のピクニック日和だね」
「うん。本当に最高のピクニック日和だよ。
それで、最高の一日って感じ」
エリオットはこのピクニックを待ちに待っていたようで、朝からとても嬉しそうで楽しそうだった。
それがエリオットから溢れ出て、私にも伝わって来て幸せだった。
エリオットがピクニックの為いつも使っている敷物を広げて、その上にいつものサンドイッチを入れているカゴを出してくれた。
二人で並んで敷物の上に座る。
そしてカゴを開くと、私の大好物の甘い卵焼きのサンドイッチと、初めて見る果物が入っていた。
赤くてツヤツヤしていて、上と下が少しへこんでいる。
「この前のプラタス果樹園での収穫、リシュリーと僕は途中で帰ることになったでしょ。
リシュリー、果物食べるのすごく楽しみにしてたから」
「え、そんな、気にしなくて良いのに。
だって、あの時私……」
「ううん。僕が食べて欲しいんだ。
どうしても、リシュリーに。
とても美味しいから」
エリオットの気持ちはとても嬉しい。
とてもありがたい。あんな風になった私のことをこれっぽちも責めずに、こんな気遣いまでしてくれるなんて。
でも、またなぜかあの感覚がしてくる。
しかもかなり強く、ザワザワ、ザワザワと。
そして、心の奥底から声が聞こえて来る。
その果実を食べてはダメ。
食べてはいけない。
食べないで、と。
でも、エリオットの方を見ると、その果実を私に差し出しながら、なにかを懇願するような、縋り付くような目をしていて、そんなエリオットを拒絶することは、私にはどうしても出来なかった。
私は果実を受け取った。
そしてかじり、食べた。
その果実はとても良く熟れていて、甘かった。
とても瑞々しくて、さわやかで、それでいてトロリとした蜜が中心に入っていた。
なのに、その果実は、私の血にも、肉にもならない。なんの栄養も養分も、もたらさない。
私の肉体のどことも結びつかない。
そんな気がした。
それは張り裂けそうな悲しみの味だった。
エリオットにお礼を言おうとしたけど、エリオットの方を向けなかった。
エリオットが泣いている気がしたから。
それを決して見てはいけない気がしたから。
私はエリオットの顔を見ずに済むように、エリオットと腕を組んで頭をエリオットの肩にくっつけた。
「ありがとう、エリオット。
とっても美味しかった」
少し間が空いて、エリオットが喉が詰まったような声で答えた。
「良かった」
そして、その一日はとてものんびり、幸せに過ぎていった。
エリオットは私が作っていったクッキーを一つ一つ、食べてしまうのがもったいなさそうな様子で食べていて、あまりにもチョビチョビ食べている姿がお爺さん亀のように見えて、面白くて笑ってしまった。
そしてエリオットの甘い卵焼きのサンドイッチは、相変わらず世界一美味しくて、いかに美味しかったかエリオットに伝えようとしたら、何かが気管に入って盛大にむせた。
今度はそれを見てエリオットが笑っていた。
笑うのは申し訳ないけど、笑わずにはいられないといった様子で。
私の背中をさすりながら、涙を拭いて笑っていた。
花畑には、秋に虫達の出す音や鳥の声が賑やかに響いていて、遠くからは牛達の鳴き声が聞こえてきた。
パロマや、バンダーやミグラ達が駆け回って遊んでいる声も賑やかに聞こえて来る。
イハの海に降り注ぐ秋の黄色いお日様の光で海全体が輝き、波のさざめく音がサンティ=ハイメ神領島中に響いている。
エリオットと腕を組んでそんな音達を聞きながら、まるで天国にいるみたい、と思った。
秋はもう終わりつつあり、空気の中に冷たい風が混じってきていた。
イハの海の遠くの方に、厳冬の兆しである分厚い灰色の雲が現れている。
冬がやって来る。きっと厳しい冬だ。
この冬に私にはやらなくてはならないことがある。
なんとか、血楔病を治す手がかりを見つけて、エリオットを解放して、幸せにしてあげるんだ。
とても大切な、優しい優しいエリオットを。
目をギュッとつぶって、そう決心し直した。
しかし。
リシュリーとエリオットが腕を組み、イハの海を眺めているその後ろの茂みの中では、ドラペトリア蔓がマリポサ草に蔓を這わせ、きつく絡みついていた。
生命の音に溢れた世界の中で、その茂みの中だけは、無音が支配していた。
そこだけ、新しく生まれた小さな真空の宇宙のようだった。
そしてそのドラペトリア蔓は、この世の万物全てを裁断することが出来るハサミを持ってしても、決して切れず、引き離すことが出来ないくらい複雑に、蔓を伸ばし、それを何重にも結びつけながらマリポサ草に絡みついていた。
まるでマリポサ草と一体化することを望んでいるかのように。
そのドラペトリア蔓はとても幸福そうだった。




