リシュリーの心の扉
目眩がおさまり目を開けると、そこは馬車の中ではなかった。
上を見ても下を見ても、右を見て左を見ても、どこを見てもただただ白い、真っ白い世界にいた。
目の前に、とてつもなく巨大な扉があった。
その扉はアーチを描くような半円形で、とても古そうな木材で出来ていたが、その表面は黒鉄による繊細な装飾に覆われていた。
私は扉の近くに寄り、眼を凝らしてその装飾を見た。
その装飾は、扉の装飾としてよく見かけるような幾何学的なものではなく、絵画と言った方が近いものだった。
明確な意図を持って、黒鉄の装飾によって何かが描かれている。
しかしそれは、それを見る者が集中して見ないと何が描かれているか分からないような仕掛けになっているのか、パッと見ただけでは描かれているものが何だか全く分からなかった。
じっと集中して精神を研ぎ澄ませながら見た先に描かれていたのは、何人もの女性達だった。
いや、何百人、何千人、もはや何万人という数に達するかもしれないほどの数の女性達だった。
奇妙なことに、目を凝らせば凝らすほど描かれている女性の数は増えていく気がした。
女性達は皆一様に悲しげな顔をしていた。
しかも、皆どことなく似ている。
顔の造作というよりも、雰囲気というか気配というか、瞳の奥の感じが似ている。いや、似ているというよりも、全く同じように見える。
私は女性達一人一人をよく見た。
その一人一人について、詳しく知りたいと念じながら見た。
すると不思議なことに、黒鉄そのままの黒鉄色だった女性達に、色がつき始めた。
扉の上部から下部へと流れるように色がついていく。
扉の一番上の部分については、そこがあまりに高すぎて、首を真上に向けて見上げてもそこに何が描かれているか見ることは出来なかった。
しかもこの場所の上の方にはうっすらと白いモヤのようなものがかかっており、扉の上の方がどうなっているかその様子をうかがうことも出来ない。
だが、遙か上から下へ向かって柔らかな滝のように色彩が降りてくる様は、純粋に綺麗だと思った。
しかし、色彩の滝に触れることによって色がついた女性達を見て、ゾッとした。
色がつくことによって、どの女性からも血が流れ出ていることが分かってしまったからだ。
どの女性からも真っ赤な、赤い血が流れ出ていた。
どの女性からも、その腹部から、おびただしい量の血が流れ出ていた。
そしてどの女性の、どの腹部にも、銀の何かが刺さっていた。
私はとても恐ろしくなって、後ろへ飛び退くようにして扉から離れた。
なぜか自分の腹部を手で押さえながら。
その時、扉が大きく揺れた。
向こう側から突かれるように、揺らされている。
扉の向こう側にエリオットの存在を感じた。
今、この扉の向こう側に、エリオットがいる。
そう思うと、なぜか腹部を押さえる手の力が自然と強くなった。
そしてエリオットの声がした。
「リシュリー、扉を開けて。
僕を入れて。中に入れて」
それはいつも私の部屋の扉の向こうでエリオットが出すのと同じ、とても悲しそうな声だった。
「リシュリー、頼むから扉を開けて。
その為だったら僕は、なんだってする。
どんなことだってする。
どんな罪を犯したって構わない。
頼むから、この扉を開けて。
愛してる、愛してるよ、リシュリー」
扉を開けることは出来ない。
エリオットに何を言われても、この扉を開けてはならない。
この扉を開けてしまえば、エリオットは私の中に侵入してくる。
私の心の最も深い、奥底の場所へと入ってきてしまう。
私が今立っている、真っ白いこの場所へと。
この場所にエリオットに入ってこられたら、自分がどうなってしまうか、自分でも分からない。
今この時に至るまで、エリオットがこの場所へ入って来たことは、あるいは、私がエリオットをこの場所へ入れたことは、一度たりとも無いのだ。
おそらくそれは、私達がカインとシエラだった時からそうだ。
カインがティハナ様に心を奪われるよりも、ずっと前から。
どんなにカインを愛していても、そうだったのだ。
もしこの扉を開いてしまったら……
もちろん、血楔病は再発するだろう。
呪縛蔓はまた私に絡みついてきて、私の生命エネルギーを吸い取り始めるだろう。
そしてその枯渇した生命エネルギーを補う為に、エリオットの血を飲まなければいけなくなるのだろう。
エリオットの血を飲む以外に、新たな生命エネルギーを補填する方法は私には無いからだ。
この世界との繋がりが不完全な私には。
エリオットによって吸い取られている生命エネルギーを、エリオットの血を飲むことによって補填する。
考えてみれば、なんと滑稽な話なのだろう。
しかし……
それ以上に、血楔病が再発する以上に、とても恐ろしいことが起きる気がする。
この世に無数存在する、ありとあらゆる恐ろしいことの中で最も恐ろしいことが起きてしまう気がする。
「リシュリー、扉を開けて。
頼むから、僕を中に入れて」
だけど、それでもなお、エリオットの声を聞くと胸が張り裂けそうになる。
出来ることなら、その願いを叶えてあげたくなる。
ここまで来て、これである。
扉を開けたらどうなるのか分かっていて、これだ。
本当に、心の底から、甘ちゃんのアホちんだ、アンポンタンだ。私は。
だが、なぜこうなのだろう。
なぜ私はエリオットにこんなにも甘いのだろう。
どんなことをされてもエリオットを嫌いになれないのはなぜなのだろう。
この気持ちの正体は、一体何なのだろう。
私は自分の手で耳を塞ぎ、エリオットの声が聞こえないようにしながらこの気持ちについて考えた。
思い浮かんだのは、罪悪感だった。
そうだ、この気持ちは罪悪感だ。
近いなんてものではない。
これは、罪悪感そのものだ。
でも、私はなぜエリオットに罪悪感なんて持ってるのだ?
血楔病の呪いの根本がおそらくエリオットにあるということが分かってからは、それまでずっと感じていた、エリオットの血を求めることに対しての罪悪感は消えた。
エリオット自身がそう仕向けていたことだからだ。
では、この罪悪感はなんなのだろう。
何に基づいての罪悪感なのだろう。
「リシュリー、扉を開けて。
扉を開けて、リシュリーの顔を見せて。
会いたいよ、リシュリー」
耳を塞いでいても、次第にエリオットの声が聞こえるようになってきた。
エリオットがシルビアちゃんに口付けをしてその力を取り込んでいることが関係しているのか、はたまたそんなことは全く関係ないのか、今エリオットの声が持つ力が強くなっている気がする。
その懇願を拒むのが、とても辛く、とても難しい。
痛いほどの罪悪感を感じる。
私の心がエリオットの声により、強く揺さぶられている。
いけないと分かっているのに、エリオットの声に誘われるように扉の方へ、扉の方へと近付いていってしまう。足が勝手に動いてしまう。
「リシュリー、あの日のようにまた僕にキスして欲しいんだ。
リシュリーと一緒にいるためとはいえ僕は、あの女と……
僕はまた、汚れてしまった。
リシュリー、僕にキスして。
そして、僕を清めて」
扉はいよいよ、目前に迫っていた。
開けてはいけないのに、そう分かっているのに、私は扉を開けてしまいそうだ。
それは決して、エリオットへの愛に基づく行動ではないのに。
それをしても決して、私とエリオットの間にある問題を本当に解決することは出来ないのに。
そう思った途端、誰かに見られている感覚がした。
目の前の、扉の黒鉄の装飾を見た。
そして気が付いた。
装飾によって描かれている女性達の中に、シエラがいた。




