不可能への挑戦 その2
少しの間をあけて、今大会最後のクライマーである三島さんが、ロープをたぬきの金袋のように引きずって登場した。
加藤先輩が思った以上にいい登りを見せたからか、観客も三島さんのことをしっかりと見ている。
実際は、単にかわいいから見ているだけかもしれないけど、そんなことはおくびに出さずに、
「なんで、あの子は髪長いのに、束ねてないんだろう?」
などと、自分の下心を隠す常套手段である、どうでもいいツッコミを入れていた。
三島さんは壁の前でルートを確認した後、ビレイヤーに軽く会釈して登り始めた。
いよいよ始まったわけだ。
三島さんが望んでいた、男子の肉体能力との戦いが。
スポーツでは当たり前の〝男女別の枠組み″でさえ、こんな形で乗り越えてきて!
オーバーワークに加えて、二週間以上引きこもって登っていなかったから、体がなまっていないか心配していたけど、むしろ今まで以上に活き活きとした動きをしていた。
「ヒメちゃんはたぶん、こまめに体を休ませて超回復するよりも、限界まで追い込んでたっぷりレストを取ると、調子が上がるクライマーなんだねー」
「たっぷり休養とは言っても、あれだけ休んだら普通、筋肉がなまりませんか?」
「普通はね。でも私がクライマーを何人も見てきた限り、人によって体の疲れ具合や回復のペースに差が出るから、ヒメちゃんみたいな人がいてもおかしくない……はず!」
……まあ、もともと三島さんは規格外だったか。
部屋をトレーニングルームに改装するような女子高生だしね。
超回復の期間と概念が違っていても、今さら驚くことではないか。
少なくとも、目の前にいるのは堕ちてしまったクライマーではなく、絶好調の筋肉バカだ!
三島さんはトラバースをかなり早いペースで済ませると、軽く手を休ませてから、核心へ向かって登りにかかった。
束ねられていない黒髪は、観客の心配通り激しく揺れ始めたけど、あまりにもサラサラなので顔にかかるようなことはない。
三島さんもそれを知っているから、自分の肉体に絶対の自信を持っているから、髪を束ねたりなんかしないんだ!
「ガンバー……」
核心の前、その《不可能》の目の前まで来ると、素直な応援に混じって、二階堂さんへの怨嗟や、どうせ登れないだろうという哀れみや、または自分の越えられなかった核心の突破を期待する懇願など、あらゆる感情を含んだ声援が漏れ始めた。
でも、大部分の観客は加藤先輩に続いて三島さんも、核心の近くまで難なく登るこのレベルの高い女子のタイブレークの様子に、熱が入った声援を送っていた。
俺もその一人。
座ってなんかいられずに立つと、ただただ祈るような気持で、無意識に「ガンバー!」と声をかけていた。
頼む、三島さん。越えろ、俺に見せてくれ。
君が話した《不可能への挑戦》を、《不可能》を乗り越えたその姿を、そして《可能性》を創り出す君の姿を!
三島さんは会場内のすべての視線を、よく鍛えられた肉体でしっかり受け止め、ポケットの手前のホールドを手順通りに右手でつかむと、軽く左手をレストさせた。
さて、ここから君はどうやって、この壁を登っていくんだ?
と、三島さんは誰もが思いもしなかった高さに左足を器用に上げると、一気にその足に全体重をかけて体を持ち上げ、ポケットに手をかけた。
「マジかよ……!」
誰が上げた嘆声かはわからない、わからないけれど、息を呑んだ観客すべての気持ちを代弁していたのは間違いなかった。
三島さんはポケットに指を入れたりなどせず、左手をひねり、そのホールドを下からすくい上げるようにアンダーのホールドとして持ちに行きながら、右足も一気に高い位置に移して体を上げると、勢いそのままに核心にあるクリップを決めた。……
三島さんがクリップを決めた瞬間、会場内の沈黙を燃やすように歓声が上がった。
「ううっ、あ、ああやって、アンダーで持つんだ……!」
アンダー!
ポケットホールドだからって、わざわざ指なんか入れないでも、外側をつかんでしまえばよかったのか!
今登ったばかりの加藤先輩は悔しそうにポケットを見つめ、それ以外の決勝ルートを登った選手たちも、簡単な叙述トリックにまんまと騙されたように、ぽかんと口を開けていた。
核心前のクリップ攻略法はわかってしまえば単純だったとはいえ、それが誰でもできるわけじゃないことは、三島さんが見せた足の柔軟性と、わきを締めてアンダーでポケットをつかんだ腕に走る、筋肉の峰々が雄弁に物語っていた。
クリップを済ませて右手を一振りレストさせると、すぐに三島さんは核心に入った。
つかんでいられたのは、わずか三秒程度。
その三秒がクライマーたちの明暗を分けた。
三島さんの登りを見ていた二階堂さんは、頭を振るのを止めて満足げに笑っている。
クライマーは核心で少し苦戦しながらも、ついに《不可能》を乗り越えてしまった。
そしてその《不可能》を越えた先にいたのは、清姫のように蛇身に化けていない、竜女のように変成男子なんかしていない、ただただ、ありのままの美しい三島さんであった!
「この大会は三島さんが全部持って行っちゃったねー、川内君の期待通り」
「へ? ま、まあ、三島さんはワシが育てたんで!」
堀田先輩はいたずらに笑うと、俺の脇腹にちょっかいを出してきた。
会場は混乱していた。
そりゃそうだ。
ポケットをアンダーで持つことでクライマーの思い込みをぶっ壊し、そのせいで、選手たちが二階堂さんに向けた批判はそっくり自分たちの恥になり、上級生の加藤先輩を破ることでスタッフの鼻柱を折り、男子の誰もが落ちた《不可能》な核心を越えることで、《可能性》を俺に見せてくれたんだから!
俺らの見上げる先には、あらゆる価値観を転倒させた張本人が重力に抗い、バルコニーのようにせり出した壁に、手と足先を器用にかけてぶら下がっている。
どうやら、核心を抜けたルーフ部分の始まりに大きなガバがあるらしく、三島さんはそこで念入りにレストしていた。
そして、レストを終えて三島さんが登りだすと、観客の声援も一段と高くなった。
誰もが三島さんに、何かやってくれそうだと期待をかけていた。
いや、完登を望んでいた!
……が、三島さんだってまだ一年生。
傾斜のきついルーフに入っても足置きが雑で、何度か足を滑らせ、腕の持久力も尽きて、ルーフを五手ほど進んだところでついに落ちてしまった。
会場から「あぁー……」と、気の抜けるようなため息が漏れた後、それでも間違いなく勝利をつかんだ三島さんは、力のこもった拍手で迎えられながら、壁から降ろされた。
さて、降りてきた三島さんの腕は、遠目から見てもパンプしているのがわかるほど、パンパンに張って血管が浮き出ていた。
力も入らないのか、なかなかロープもほどけないようだ。
「おい、川内。体力の有り余ってるお前が傍に行って、ほどいて自由にしてやれよ」
俺と早川の登った本数は同じだし、早川も力が有り余ってるはずだけど、言外に違うことを伝えていることが、口元の笑いからもわかる。
まったく、チキンな俺に対する後押し、痛み入るぜ!
――そうして栄光を手にした三島さんのもとへ駆けて行く俺の後ろで、会場の盛り上がりとは裏腹に、うつむく選手もいた。
それは加藤先輩だ。
前に「もう空気な存在にならない、県大会で優勝する」って宣言していたんだ、あと一歩のところで栄光を逃して、さぞ悔しかったんだろう。
そんな加藤先輩の背後に、ひょろりとした長身の影が近づいて一言、
「もう、空気なんかじゃない。……少なくとも、僕は応援しているから」
「えっ、……え!?」
普段虐げられることしか知らない加藤先輩は、何が何だかわからず泣き出してしまった。
「あっ、こら! なんで、こんな日にもすみちゃんをいじめるの?」
そいつは堀田先輩の叱責も聞かず、二十一番のゼッケンを背に、黙って突っ立っていた。
傍で見ていた、二階堂さんとよっちゃん先生に後々聞いた、意外な小話だ――
そのころ、俺は三島さんの傍に駆け寄ると、ロープをほどこうとしていたスタッフを問答無用で弾き飛ばし、ひざまずいてハーネスに固く結ばれたエイトノットに手をかけた。
そして誰よりも早く、誰よりも近くで、三島さんの勝利を祝した。
「三島さん、……おめでとう!」
「ん」




