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いつかのクライマー  作者: 大田区トロフィーモフ
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進歩 その2

「テンション!」

 六月の日差しが一切入らない、屋内に反り立つ壁。

 その十五メートルの壁の頂点から、さわやかな掛け声とともに、一人の青年クライマーが降りてきた。

 ……そう、俺だ!

「アンタ、チョーク入れすぎ。目に入ったんだけど」

 クリップの練習をした日以来、俺らはトップロープ方式を卒業して、リード・クライミングでしか登っていなかった。

 それはそうだ。この《リード》を覚えたおかげで、初めて壁を見たときには想像もつかなかった、十五メートルの壁のてっぺんまで登れるようになったんだから!

 でも、どんな競技にもあることだけど、俺が初心者のときに感じた困難なんて、クライマーにとっては基本中の基本だったんだけどね。

 逆上がりや、二十五メートルプールを泳ぎ切ることのように、ただ壁を登りきるだけなんて、実は簡単で、そんなことは重要じゃなかった。

 本当に難しいのは、前にも言ったように、使えるホールドが指定されているからなんだ。

 トップロープのときには登れた簡単なルートでも、本来は十五メートルで全行程として作られているから、リードで登ると腕の持久力が続かなくって、落ちることもあった。

 それを《パンプ》って呼んでるんだけど、ずっとホールドをつかんでいると、腕がもうパンパンに張っちゃって、何もつかめなくなるんだよね。

 下ネタを使えば、その腕の張り具合が一発で説明できるんだけど、……俺は紳士だから変なことは言わないぜ?

「ヘンタイ、聞けっ」

「ひゃん!」

 意図的にスルーしていたら、三島さんの蹴りが飛んできた。

 これが普通の蹴りじゃない。クライミングシューズってつま先が細くなっているから、体に刺さるんだよ、痛いんだよ!

「雪みたいに上から降って来るから、次までになんとかしてよ。でないと……」

「わかった、だから蹴らないで! 思ってる以上に痛んだぞ!?」

 三島さんが言っている文句は、俺が腰に巻いたチョークバッグに、滑り止めチョークを入れすぎていることに対して言っているんだ。

高い壁を延々と登るわけだから、ホールドがゲームのコントローラー並みに、手汗でヌルヌルになるんだよね。だから、どうしても滑り止めをたくさん使わなくっちゃならない。

「以後気を付けるから、……準備OK? どこ登る?」

「じゃ、青十字の11a」

 と言うと、三島さんは青いテープを十字に貼って示されているルートに取りついた。

 壁は前にも言った、《着衣でもわかる巨乳》のように反り返った、オーバーハング壁だ。

 クライミングを始めて丸二か月が経とうとしているけど、一年生の中で一番リードを登れるのは三島さんなんだ。

 でも、この上達のペースが早いのかはわからない。

 どうしてかと言うと、グレードは難しさを表しているけど、ルートのグレードを決めるのはルートをセットしたルートセッターの判断によるからね。

 同じグレードでも個人差があるんだ。

 特に堀田先輩は、作ったルートが表示グレードより四割増しで難しいと言われる、悪名高いルートセッターらしい。たぶん、自分の体重を軽く言っちゃう系女子なんだろうね。

 三島さんは、その悪名高い《堀田ルート》を集中的に登っていたから、実際は今登ってるグレードよりも、実力があるんじゃないかな?

 まあ、彼女の成長は俺が誰よりも知っているつもりだ。ビレイはいつも俺がしているから、壁を登る尻……じゃなかった、三島さんを毎日見てるしね。

 スラリと伸びた白い脛に、細いけど力強い腕、束ねる必要のないほどサラサラな黒髪、体重を足にかけて壁に近づけた腰……。素晴らしい、ビレイヤーは肉体鑑賞の最高の特等席だ!

「テ・ン・ショ・ン! 何回言わせるの? 次無視したら、チョークをあんたにぶちまけて、火をつけるから」

「ちょ、粉塵爆発するから、それはやめて!」

 物騒な罵声を放つ三島さんだけど、相変わらず高いところが苦手なようで、ロープを張っても壁からしがみついて離れてくれない。

なので、いつものようにロープで二、三発尻を叩くと、やっとホールドから手を離し、目を手で覆った見ザル状態で降りて来る。……かわいい。

「まだ馴れないの?」

「うるさい、早く登って」

「うっ……」

 あまりからかうと、クライミングシューズが尻に突き刺さるよ。

「……じゃあ、俺はピンク四角の10c行きます」

「ん」

 さて、クライマー交代。今度は俺の番だ。もう、エイト・ノットもマスターしたし、クリップのコツもつかんでいる。

 スタートのホールドを持つと、俺は足を高く上げた。足を高い位置に置くと、手に体重がかからないのさ。何より、見た目も一流っぽくてカッコイイしね!

 そして俺は、一度持ち上げたロープを軽く口で噛むと、ロープをさらに繰り出してクリップした。

 始めたころは、なんでクライマーがロープに噛みつくのかわからなかったけど、理由は簡単で、体に結んだロープが重いからだ。

 クリップするときは、股にたぬきの金袋のようにぶら下げた、直径十ミリ、長さ五十メートルのロープを、片手で引き揚げなくちゃならない。そのロープが結構重いから、重量挙げの選手が、バーベルを一旦肩の高さまで持ち上げて一呼吸するように、ロープを口まで持ち上げて噛みつき、さらにロープを繰り出してクリップすると、手の負担が減るんだ。

この噛みつき行為はクライマーなら誰でもするから、レンタルのロープなんかだと、不特定多数の人間が噛み噛みしているわけだ。俺らは堀田先輩のロープを借りているからまだいいけど、冷静に考えると、かなり変態的なことをしているんだよね、俺ら。

不思議なことに、登っている間はロープを噛むことが不潔だなんて、誰も思いやしない。クライミング界の七不思議の一つだよ。

「クリップ、飛ばしてる」

「あ、忘れてた」

 初めて登ったときは、トップロープの八メートル程度の高さが怖かったけど、今はもう慣れて、クリップして支点を伸ばすことも忘れるくらい、落ちることへの過度な恐怖がなくなってしまった。登ることが楽しい一方で、油断に繋がりやすいから、気をつけなきゃ。

 終了点の手前で手を下げ、レストしながら見下ろしてみると、親指サイズの三島さんが見上げていた。

ちょうど天井のホコリくらいの大きさ。人がごみのようには見えない、人道的な高さだ。

 壁を登りきったら、もっと詩的な感慨が浮かぶものかと思っていたけど、俺の率直な感想はこの程度のものだった。もしや、メダルを取っても悔しがるアスリートの心境に、俺選手はたどり着いてしまったのかもしれない!

「降ろしてー。……はい、ありがとう。次登る?」

「手が真っ赤」

「え、手? うわ、堀田先輩、これってヤバイですか?」

「わ、レッド! やっぱ、初心者はすぐオーバーワークになるねー、明日は休んだら?」

 やっぱり、まだアスリートには程遠いかもしれない……。

「おい川内、僕も明日レストするから、遊びにでも行くか。三島さんは?」

「いい、もっと登らないと」

 早川の誘いを断った三島さんは、淡々と登る用意をしていた。

 残念、久しぶりに一年生だけで会うのもいいかと思ったんだけどなあ。

いよいよ一か月後に迫った大会に向けて、三島さんは俺以上に登っているから疲れているはずなんだけど。……まあ、筋トレバカだから、大丈夫なのかな。


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