進歩 その1
「君たちはまだ、一人前ではない」
ある日のこと、堀田先輩が神妙な顔で切り出した。
「なんですか、いきなり親分みたいに……」
「えへ☆ もうそろそろ《リード・クライミング》を教えてもいいころかと思って!」
ほう、クライミングを始めてからもう一か月以上、新しい段階に入るってわけらしい。
「今までのトップロープだと、ほら、あらかじめ壁の中間に支点があるから、降りるときや落ちたときに、常に体の上からロープが支えていたわけでしょ? だから、壁のてっぺんまで登れなかったんだけど、リードだと自分で支点を上へ伸ばしていくから、ついに壁のてっぺんに登れるようになるんだよ!」
「なるほど、わからん」
とりあえず、いよいよ壁の一番上まで登れるようになることだけはわかった。
今までの壁の半分の高さしか登れない、トップロープの童貞生活からおさらばできるわけだね。
「で、どうすれば俺は大人になれるんですか?」
「大人になるかはわからないけど……、壁にカラビナが上下についた、ヌンチャクみたいなものがぶら下がっているでしょ? クイックドローって言うんだけど、そのカラビナに下から登っていくクライマーが、自分でロープをかけていくの。あらかじめ支点にロープがかけられていないから、トップロープのときみたいに、どこでも落ちていいわけじゃないのは、わかるよね?」
つまり、釣瓶で言うと《滑車》にあたるカラビナに、自分でロープをかければいいのか。
でも滑車が桶の上にあるからこそ、桶を引き上げられるわけだよな?
「じゃあ、その支点より体が上にあるときに、落ちたらどうなるんですか?」
「最後にロープをかけたヌンチャクの位置より、下に落ちないと確保できないよ。あんまり落ち過ぎると、なんと! 壁にぶつかるか地面に激突でーす!」
それはそうだ。桶が滑車の上にあったなら、釣瓶は機能しようがないから、桶が落っこちてくるのを待つだけだよな。
それと、話の内容と堀田先輩のテンションが合ってないね。
「トップロープみたいに絶対安全じゃない、だから安全を自分の責任で確保していくんだよ。みんな、ある程度登れるようになったし、若いからすぐ覚えられるよ!」
たぶん「先輩も若いですよ!」という、ツッコミ兼お世辞を期待していたんだろうけど、これから俺らがやることへの恐怖のほうが先行して、スルーしてしまった。
「初登頂の山登りだって、誰も登っていないわけだから、自分で安全確保をしなくちゃいけないわけでしょ? あらかじめ用意されてないもん。だから、自分で確保の支点を伸ばしていくリード・クライミングはクライミングの基本だから、覚えないと一人前になれないのだ!」
俺らの不安を察したのか、堀田先輩は明るい調子で発破をかけた。
つまり、親に頼ったヒッキー生活から、自立した社会人にならなきゃいけないわけですね。
「じゃあ、まずは《クリップ》の方法から……」
さすがに、いきなり親のスネを離れるのは危険なようで、まずは登らないで《クリップ》なるものを地上で練習した。
これは例のヌンチャクの(クイックドローのあだ名らしい)、カラビナにロープをかけるという地味な、チンパンジーの知能テストみたいな練習なんだけど、見た目とは裏腹に難しい。
カラビナなら、鍵を束ねたり、ベルト通しにかけた経験はあるんだけど、それは両手が使える状態だった。
クライミングだと当然、体を支えるために片手は常にホールドを握っているから、もう一方の手だけで、ロープをカラビナに通さなくちゃならない。
その片手でのクリップのやり方を教わったんだけど、ロープを持つ手に対した、カラビナのゲートの向きによって持ち方を変えるとか、聞いただけでも面倒くさいんだよね。
でもそれは、卓球でバックやフォアハンドで打ったりするように、感覚で使い分けられるようになる
らしい。
「いきなりリードで登るのは危ないから、トップロープで確保しながら、クリップを試してみよっか」
最初は経験者の加藤先輩が見本を見せてくれた。ハーネスからは、トップロープでの確保用のロープが上へと伸び、加えてクリップ練習用に短く切ったロープも結ばれていて、そのロープを信楽焼のたぬきの金袋のように、加藤先輩はズルズルと引きずっていた。
「あ、あんまりジロジロ見ないで」
「見るでしょ、見本なんだから」
早川のツッコミを背に登り始めた加藤先輩は、壁に一定間隔でぶらさがっているヌンチャクの一つ一つに、カラビナのゲートが閉じる小気味よい金属音を響かせながら、練習用のロープを通していった。
そのロープは短く切ってあるので、クリップしても登るにつれてカラビナから抜けていく。
加藤先輩は右手でクリップするとき、同じ右側をゲートが向くなら、人差し指と中指の指先の間でロープを挟んで、その二本の指ごとゲートに入れる具合でロープを通した。
また、クリップする手とは逆側にゲートが向いているときは、中指をカラビナにかけて、人差し指と親指でつまんだロープを、親指で押し込むようにしてロープをかけていた。
「ほら、あんな風に自然と使い分けられるようになるから。クリップのタイミングをよく見ててごらん」
加藤先輩は登るペースに合わせてクリップしたり、手をブラブラと下げて、休憩するタイミングを使って器用にクリップしていた。
「テテ、テンション!」
「はーい! ね、要領はわかったでしょ? あとは訓練あるのみ!」
堀田先輩は「新人にはまだ早い、雑用をやれ」的なことは一切ないんだけど、そのかわり新人の下積みがないから、自分にも本当にできるのか、不安になっちゃうんだよね。
「川内、行けよ」
「なっ、俺が登るの?」
「お二人さんは、もしや怖いの? いい年して?」
男子二人がグズグズしていると、いつの間にか背後に回った堀田先輩が煽ってきた。
「クライミングは登ること自体が、何よりトレーニングになるんだよー?」
「トレーニング……!」
と、横にいた筋肉バカが《トレーニング》という言葉を聞いた途端、ピクリと胸筋を揺らして反応し、目を輝かせて壁の前に出てきた。
面白いから、あとでまた三島さんに《トレーニング》とささやいてみよう。
「じゃ、私が登る」
「よいよー。クリップの練習だし、好きなホールドつかんでいいから」
スイッチの入った三島さんは、クリップ練習用のロープをハーネスに結ぶと、俺と早川を置いて壁に取りついてしまった。
ちなみに、俺と早川は練習用のロープすらハーネスに結べていない。
《エイト・ノット》って言う結び方なんだけど、手先が不器用すぎてさっぱりわからない。
三島さんは呑み込みが早いのか、それとも、ロープの扱いがお上手なのか?
……後者は言ったら殺されそうだから、黙っておこう。
登り始めた三島さんは、加藤先輩のように素早くはなかったけど、まごつくこともなくクリップをしていた。
トップロープでの補助がなければ、もう一丁前のクライマーって感じだ。
「……よし、俺も登ってみるか。加藤先輩、ビレイお願いします」
「りょ、了解!」
俺もたぬきの金袋のように、股からズルズルとロープを引きずって壁に取りついた。
クライマーはみんな、この金袋引きずり状態になるみたいだね。
いざ登ってみると、地上で散々練習しただけあって、少し手こずりながらも、クリップをしながら登っていくことは大して難しくもなかった。
堀田先輩の言うように、何回も登っているうちに、自然と身につきそうだとすぐにわかった。
トップロープで補助をしながらのクリップ練習は、この日だけで十分だった。




