第9話 クールな彼氏は、意外と嫉妬深い
「……えっと、ここは二人一組で?」
「そうです。来週までに資料をまとめて、簡単な発表をしてもらいます」
月曜日の午前。私は講義室で、教授の説明を聞きながらノートを開いていた。
今日の課題は、二人一組で行うグループワーク。指定されたテーマについて調べ、来週の講義で五分ほど発表するらしい。こういう課題は嫌いじゃないけれど、問題は誰と組むかだ。美月は別の講義を取っているので、今日は一緒じゃない。
……どうしよう。
周囲を見回していると、隣から声をかけられた。
「桃瀬さん」
「……はい?」
振り返ると、同じ講義を受けている男子学生が微笑んでいた。
柔らかなダークブラウンの髪に、穏やかな茶色の瞳。清潔感のある爽やかな男の子で、何度か講義で顔を合わせたことがある。
「まだペア決まってない?」
「あ、うん。まだだよ」
「よかったら、一緒にどうかな」
「……いいの?」
「もちろん。僕もまだ決まってなくて」
彼はにこりと笑った。
「有坂悠です。何度か話したことあるけど、ちゃんと自己紹介してなかったよね」
「あっ、桃瀬莉子です。よろしくお願いします!」
「うん。よろしく、桃瀬さん」
……よかった!
知らない人ばかりの中でペアを探すのって、ちょっと緊張するから。私はほっと胸を撫で下ろした。
◇
「じゃあ、テーマはこれにしようか」
「うん! 私もそれがいいと思う」
講義が終わったあと、私たちは学生ラウンジで課題の打ち合わせをしていた。
今回のテーマは、身近な広告と消費行動について。普段何気なく見ている広告が、どうやって人の購買意欲に影響を与えているのかを調べるらしい。有坂くんは説明がわかりやすく、話しやすい人だった。私の意見もきちんと聞いてくれるし、資料をまとめるのも上手だ。
「桃瀬さんって、こういう課題得意?」
「うーん、調べるのは好きだけど、発表はちょっと苦手かな」
「そうなんだ?」
「うん。人前に立つと緊張しちゃって」
「意外だな。いつも楽しそうに話してるから」
「えへへ。友達と話すのは好きなんだけどね」
私は照れくさくなって笑った。
「でも、発表になると急に頭が真っ白になっちゃうの」
「じゃあ、練習しようか」
「……え?」
「本番までに何回か通してみれば、少し落ち着くと思う。僕も付き合うよ」
「ほんと? ありがとう!」
「どういたしまして」
有坂くんが柔らかく笑う。
……いい人だなぁ。
同じ学年に、こんなに話しやすい男の子がいたんだ。
「じゃあ、資料集めは半分ずつにしようか」
「うん!」
「桃瀬さん、どっちがいい?」
「あ、私こっち調べたい!」
「了解。じゃあ僕はもう片方を担当するね」
そんなふうに話していると、思った以上に打ち合わせが進んだ。
「……あっ!」
私は思わず声を上げた。
「どうしたの?」
「この広告、見たことある!」
有坂くんが見せてくれた資料には、私が好きなお菓子の広告が載っていた。
「これ、前に買ったことあるんだけど、パッケージがすごく可愛くて!」
「へえ。味は?」
「おいしかったよ! でも、完全に見た目で買っちゃった」
「それ、今回の課題にぴったりだね」
「ほんとだ!」
二人で顔を見合わせて笑う。
そのときだった。
「莉子」
聞き慣れた声が、頭の上から降ってきた。
「あっ、朔也!」
振り返ると、そこには柊朔也が立っていた。
黒のカーディガンに白いシャツ。少し長めの前髪が目元にかかっていて、今日も相変わらず落ち着いた雰囲気だ。
……私の、大好きな彼氏。
「講義終わった?」
「うん! 今、課題の打ち合わせしてたの」
「そっか」
朔也の視線が、私の隣に座る有坂くんへ向いた。
「こんにちは」
有坂くんが先に挨拶する。
「一年の有坂悠です。桃瀬さんと同じ講義を取っていて」
「二年の柊です」
朔也は軽く会釈した。
「よろしくお願いします」
「うん。よろしく」
……あれ?
なんだか、いつもより口数が少ない?
いや、朔也はもともと無口なんだけど。
「朔也、どうしたの?」
「別に」
「ん?」
「打ち合わせ中なら、あとでいい」
「あ、もうほとんど終わったよ!」
私は有坂くんを見た。
「ね?」
「うん。あとは各自で調べて、次の講義で合わせれば大丈夫そう」
「よかった!」
私はノートを閉じた。
「じゃあ、有坂くん。また来週よろしくね!」
「うん。桃瀬さん、よろしく」
有坂くんが微笑む。
「資料、わからないところがあったら聞いてね」
「ありがとう!」
私は笑顔で手を振った。そして、朔也の隣に並ぶ。
「お待たせ!」
「ん」
朔也は短く頷いた。
……あれ?
やっぱり、なんか変。
◇
「……朔也?」
「ん?」
「怒ってる?」
ラウンジを出て、廊下を歩きながら尋ねた。すると朔也が、少しだけ目を丸くした。
「なんで?」
「だって、なんか静かだから」
「いつも静かだろ」
「……それはそうなんだけど!」
思わず笑ってしまう。
でも、なんとなく、いつもの静かさとは少し違う気がした。
「ねえ、朔也」
「うん」
「有坂くん、すごくいい人だったよ!」
「そっか」
「説明もわかりやすいし、発表の練習も付き合ってくれるんだって!」
「……へえ」
「私、人前で話すの苦手だから助かるなぁって」
「うん」
……ん?
返事が、短い。
いや、もともと短いんだけど!
私はちらりと朔也を見上げた。いつもの少し眠たそうな横顔。でも、口元がほんの少しだけ引き結ばれている。
「……朔也」
「何?」
「もしかして、何か気になる?」
朔也は少しだけ黙った。それから、ぽつりと言った。
「仲いいんだな」
「え? 有坂くん?」
「うん」
「同じ講義だからね! 今日初めてちゃんと話したんだけど、すごく話しやすくて」
「……そっか」
……あ。
私は、ようやく気づいた。
もしかして、これって。
「……朔也」
「ん?」
「嫉妬、してる?」
言った瞬間、朔也の足がぴたりと止まった。
「…………」
「…………」
沈黙。
……え?
当たり?
「……朔也?」
「……少し」
小さな声だった。
「……え?」
「ちょっと、妬いた」
そう言って、朔也は少しだけ顔を逸らした。
「でも、課題だろ」
「う、うん」
「なら、別にいい」
そう言って歩き出す。
……嫉妬してる!
私は思わず口元を押さえた。
……え? ちょっと待って。
朔也が?
あの、いつもクールな朔也が?
私に、嫉妬?
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
「……何」
「ううん。なんでもない!」
朔也が不思議そうにこちらを見る。
……どうしよう。
ちょっと、嬉しいかも。
◇
「おーい! 朔也! 莉子ちゃん!」
学食へ向かう途中、航平くんが大きく手を振っていた。隣には美月もいる。
「航平くん! 美月!」
「莉子、お疲れー!」
美月が笑顔で迎えてくれた。
「課題どうだった?」
「うん! 有坂くんっていう人とペアになったよ!」
「へえ。男の子?」
「うん!」
その瞬間、航平くんの目がきらりと光った。
「……ほう?」
「何ですか、その顔」
美月が呆れたように尋ねる。
「いやいや、高梨ちゃん。これはなかなか興味深い話だぞ」
「何がですか」
「莉子ちゃんが、男とペアになった」
「課題ですからね」
「そして、朔也が……」
航平くんが、ちらりと朔也を見る。
「……不機嫌そう!」
「別に」
朔也が即答した。
「おっ! 否定が早い!」
「航平」
「何だよ!」
「うるさい」
「出た! 嫉妬してるときの朔也!」
「…………っ!」
私は思わず、朔也を見上げた。
……やっぱり!
航平くんにもわかるんだ!
「……へえ」
美月がにやりと笑った。
「柊先輩、嫉妬するんですね」
「しないわけじゃないけど」
「……え?」
今度は私が固まった。
……え?
認めた?
朔也が?
「おいおいおい!」
航平くんが大騒ぎする。
「お前、付き合ってから素直すぎねえ!?」
「そう?」
「昔なら絶対認めなかっただろ!」
「莉子には隠す必要ないし」
「…………っ!」
……っ!
な、なにそれ!
私は一瞬で顔が熱くなった。
「朔也!」
「ん?」
「そういうこと、みんなの前で言わないで!」
「なんで?」
「恥ずかしいから!」
朔也が少しだけ笑った。航平くんは天井を仰いだ。
「あー、もう! 俺も彼女欲しい!」
「三浦先輩、まずは相手を探しましょう」
「高梨ちゃん、正論が痛い!」
私たちは笑いながら、学食へ向かった。
◇
お昼を食べ終えたあと、私は美月と二人で売店へ向かった。
「……ねえ、莉子」
「ん?」
「柊先輩、ちょっと妬いてたね」
「……うん」
私は思わず頬を緩めた。
「なんか、意外だった」
「そう?」
「だって、朔也ってあんまり感情を表に出さないから」
「まあ、そうだね」
美月は飲み物の棚を眺めながら、頷いた。
「でも、好きな人がほかの男の子と楽しそうにしてたら、気になることくらいあるんじゃない?」
「……そっか」
「それに、柊先輩って結構一途そうだし」
「……うん」
中学生の頃から、ずっと。
何年も私のことを好きでいてくれた人。
そう考えると、また胸が温かくなる。
「……ねえ、美月」
「なに?」
「嫉妬されて、ちょっと嬉しいって思うの、変かな?」
美月は少しだけ笑った。
「変じゃないよ」
「……ほんと?」
「うん。でも、嫉妬してくれるから愛されてるってわけじゃないからね」
「……え?」
「柊先輩は、普段から十分愛情伝えてくれてるでしょ?」
「……うん」
「だったら、そこを忘れない方がいいと思う」
私は、ゆっくり頷いた。
……そっか。
そうだよね。
朔也はいつも優しい。私の気持ちを大事にしてくれて、嫌なことは無理にさせない。嫉妬してくれたのは少し嬉しいけれど、それ以上に普段の朔也が好きなんだ。
「ありがとう、美月」
「どういたしまして」
美月はにっこり笑った。
「まあ、ちょっと拗ねてる柊先輩は可愛かったけどね」
「……うん!」
「即答じゃん!」
二人で顔を見合わせて笑った。
◇
午後の講義が終わる頃には、大学の正門付近が学生たちで賑わっていた。
私は朔也と待ち合わせをしていたので、スマートフォンを確認しながら歩いていた。
『正門のところにいる』
朔也からのメッセージ。
『今行く!』
返信して顔を上げると、少し離れたところに見慣れた黒髪を見つけた。
「朔也!」
手を振ると、朔也がこちらを向いた。そして、ほんの少しだけ目元を緩める。
「莉子」
……あ。
やっぱり、この顔が好き。
私は小走りで近づいた。
「お待たせ!」
「ん。帰ろ」
「うん!」
二人で並んで歩き始める。けれど、駅へ向かう道はいつもより混雑していた。
「わっ、人多いね」
「うん」
すれ違う学生たちを避けながら歩いていると、後ろから誰かが急いで通り抜けようとした。
「莉子、こっち」
「えっ?」
朔也の手が、私の腰のあたりにそっと添えられた。そのまま、自然に彼の隣へ引き寄せられる。
「……っ!」
思わず息を呑んだ。
近い。
ものすごく、近い!
朔也の腕が、私の身体をさりげなく守るように添えられている。
「大丈夫?」
「う、うん……!」
「そっか」
朔也はすぐに手を離した。でも、私の心臓は全然落ち着かない。
……もう。
人混みでちょっと支えてもらっただけなのに、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
「莉子」
「ん?」
「手、繋ぐ?」
「…………」
私は迷わず、右手を差し出した。
「……うん!」
朔也の大きな手が、私の手を包む。指が自然に絡み合う。
……あったかい。
私はそっと、朔也の隣に寄った。
「……朔也」
「ん?」
「今日のことなんだけど」
「うん」
「有坂くんとペアになったこと、気になる?」
朔也は少しだけ黙った。それから、静かに答えた。
「まあ、少し」
「……そっか」
「でも、課題だし。莉子が誰と組むかは、莉子の自由だろ」
その言葉に、胸が温かくなった。
……やっぱり、朔也だ。
嫉妬していても、私の行動を制限しようとはしない。
「……ありがとう」
「何が?」
「そういうところ、好き」
言った瞬間、朔也の足がぴたりと止まった。
「…………」
「……朔也?」
見上げると、彼は少しだけ顔を逸らしていた。
「……今の、ずるい」
「……え?」
「急に好きとか言うから」
「…………っ!」
……あ。
照れてる。
私は思わず笑ってしまった。
「ふふっ。だって本当だもん」
「そっか」
朔也は小さく息を吐いた。そして、繋いだ手をそっと握り直す。
「俺も好き」
「…………っ!」
……っ!
もう!
結局、最後に照れるのは私なんだから!
◇
駅へ向かう途中、私たちは少しだけ遠回りをすることにした。
大学の近くにある、小さな公園。夕方の柔らかな日差しが、木々の間から差し込んでいる。
「莉子」
「ん?」
「ちょっと、座る?」
「うん!」
私たちはベンチに並んで腰を下ろした。繋いでいた手は、そのままだった。
しばらく、二人で何でもない話をした。今日の講義のこと。航平くんがまた変なことを言っていたこと。美月が新しいアルバイト先で褒められたこと。
そして。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「さっきの話、もう一個聞いてもいい?」
「いいよ」
私は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「朔也って、私がほかの男の子と話してると、いつも気になるの?」
朔也は少し考えるように黙った。
「いつもじゃない」
「……そっか」
「でも、今日は」
「……うん?」
「楽しそうだったから」
朔也は少しだけ視線を落とした。
「……ちょっと、羨ましかった」
「…………え?」
私は目を丸くした。
「羨ましい?」
「うん」
「……なんで?」
朔也は、私を見た。その目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「莉子の笑顔、好きだから」
「…………っ!」
……っ!
そんなの。
そんなこと言われたら。
「……朔也」
「ん?」
「私、朔也といるときが一番楽しいよ」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。朔也が、少しだけ目を見開く。
「……ほんと?」
「うん!」
私は笑顔で頷いた。
「もちろん、美月や航平くんといるのも楽しいし、有坂くんとの課題も楽しかったけど」
「うん」
「でも、朔也といると、なんか安心するの」
私は繋いだ手を、そっと握り直した。
「それに、今は」
「ん?」
「朔也に、ぎゅってしてもらうのも好き」
「…………」
朔也が固まった。
……あ。
また、やっちゃった。
でも、今日は逃げない。
私は少しだけ勇気を出して、朔也の方へ身体を寄せた。
「……だから」
「うん」
「ぎゅってして?」
朔也は一瞬だけ目を伏せた。それから、困ったように笑った。
「……莉子ちゃん」
「…………っ!」
……また、その呼び方。
私が甘えたときや、朔也がちょっと照れたときにだけ出てくる、特別な呼び方。
「それ、反則」
「……えへへ」
朔也が、そっと腕を広げる。私はその胸元に、遠慮なく飛び込んだ。
大きな腕が、私を優しく包む。
……あったかい。
朔也の匂いがする。いつもの、落ち着く匂い。
「……朔也」
「ん?」
「大好き」
小さく呟くと、朔也の腕に少しだけ力がこもった。
「俺も」
低い声が、頭の上から降ってくる。
私はそっと顔を上げた。朔也が、私を見つめている。その瞳は、いつもより少しだけ甘い。
「莉子」
「……うん?」
「キスしていい?」
「…………っ!」
私は真っ赤になりながら、小さく頷いた。
「……うん」
朔也が、ゆっくり顔を近づける。私はそっと目を閉じた。
唇に、柔らかな感触が触れる。
短くて、優しいキス。
それだけなのに、胸がいっぱいになる。
顔を離すと、朔也が少しだけ笑った。
「ありがと」
「……え?」
「安心した」
私は思わず、朔也を見つめた。
……そっか。
朔也だって、不安になることがあるんだ。
ずっと私を好きでいてくれた人。いつも落ち着いていて、何でもわかっているように見える人。でも、恋人になったからって、急に全部が平気になるわけじゃない。
……私と同じなんだ。
「……朔也」
「ん?」
「これからは、ちゃんと言うね」
「何を?」
「好きって」
朔也が、少しだけ目を丸くした。そして、ふっと笑った。
「うん」
私は彼の手を、もう一度ぎゅっと握る。
嫉妬する朔也は、ちょっと意外だった。でも、嫌じゃなかった。むしろ、普段は見せない気持ちを、私にだけ見せてくれたことが嬉しかった。
……ただ、ひとつだけ困ったことがある。
クールな彼氏が、嫉妬すると。
いつもより少しだけ甘くなるのだ。
そして、その甘さに、私は今日も簡単に負けてしまう。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「今度、私も嫉妬するかもしれないよ?」
冗談めかして言うと、朔也が少しだけ目を細めた。
「そっか」
「……え?」
「そのときは、ちゃんと言って」
朔也は私の手を、優しく握り直した。
「不安にさせたくないから」
「…………」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
……ああ。
やっぱり、この人が好き。
私は笑顔で頷いた。
「……うん!」
朔也も、ほんの少しだけ笑った。
夕方の公園で、私たちはもう一度、そっと手を繋ぎ直した。
クールで、無口で、少しだけ嫉妬深い私の彼氏。でも、その嫉妬は、私を縛るためのものじゃない。ただ、私のことが好きだからこそ生まれた、素直な気持ちなんだと思う。
……そんな朔也の隣で。
私は今日も、幸せです。




