第7話 隣に座るだけで、心臓がもちません!
「……お邪魔します」
「どうぞ」
日曜日の午後一時。私は、彼氏の部屋に遊びに来ていた。
……彼氏。
そう、彼氏である。
幼馴染の柊朔也が、私の彼氏になってから六日。今日は付き合って初めてのおうちデートだ。今までだって、朔也の部屋には何度か来たことがある。航平くんや美月と一緒に集まったこともあるし、引っ越したばかりの頃には荷物の片づけを手伝ったことだってある。
でも、今日は二人きり。
しかも、恋人として。
「……うう」
「莉子?」
「な、なんでもない!」
玄関で靴を脱ぎながら、私は慌てて首を振った。朔也は不思議そうに私を見ていたけれど、すぐに小さく頷いた。
「入って」
「う、うん!」
部屋に入った瞬間、ふわりといい香りがした。コーヒーの香りだ。
八畳ほどの部屋には、グレーのソファと木製のローテーブル。壁際にはテレビと本棚があり、窓際には小さな観葉植物が置かれている。キッチンの横にはコーヒーミルやドリッパー、いくつかの保存容器がきれいに並んでいた。男の子の一人暮らしとは思えないくらい、すっきりした部屋だ。
「……相変わらず綺麗だね」
「そう?」
「うん! 私の部屋なんて、昨日洋服選んでたら大変なことになっちゃった」
「何着てくるか迷った?」
「……っ!」
ぎくり。私は思わず朔也を見上げた。
「な、なんでわかるの!?」
「なんとなく」
「もう! そういうところ!」
朔也が小さく笑う。
ちなみに今日の私は、淡いクリーム色のニットに花柄のロングスカート。胸元が目立ちすぎないように、薄手のカーディガンも羽織っている。可愛く見られたいけれど、頑張りすぎていると思われるのも恥ずかしい。そんなことを考えて、結局三回も着替えてしまった。
「莉子」
「ん?」
「今日の服も似合ってる」
「…………っ!」
……もう!
来て早々、それ!?
「……あ、ありがとう」
「うん」
朔也は何事もなかったように微笑むと、私の鞄を置く場所を空けてくれた。
……本当に。
付き合ってからの朔也、甘すぎると思う。
◇
「莉子、飲み物どうする?」
「えっと……」
「カフェラテ、作ろうと思ってたけど」
「飲みたい!」
思わず即答すると、朔也が少しだけ笑った。
「じゃあ、作る」
朔也はキッチン横のコーヒーコーナーへ向かった。棚から取り出したのは、小さなガラス瓶に入ったコーヒー豆。蓋を開けた途端、ふわっと香ばしい匂いが広がる。
「……いい匂い!」
「今日のは、少し浅めの焙煎」
「へえ!」
「苦味が少なくて、甘い香りがするやつ」
「……それって」
「うん。莉子、苦いの苦手だから」
「…………」
私は思わず、朔也の横顔を見つめた。
……まただ。
私が好きなものを、ちゃんと覚えてくれている。
「……朔也」
「ん?」
「私のために買ってくれたの?」
「まあ」
朔也は少しだけ視線を逸らした。
「前に、飲みたいって言ってたし」
「……そっか」
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「ありがとう」
「うん」
朔也はコーヒー豆を手挽きのミルに入れ、ゆっくりハンドルを回し始めた。
カリカリ、カリカリ。
小気味よい音が部屋に響く。
「……わぁ」
私は思わず身を乗り出した。
「これ、楽しそう!」
「やってみる?」
「いいの!?」
「うん」
朔也がミルを私に差し出す。
「ここ押さえて、こっち回して」
「……こう?」
「うん。ゆっくりでいい」
私は言われたとおり、ハンドルを回してみた。
カリ、カリ。
思ったより少し重い。
「……あれ?」
「最初はそんな感じ」
「朔也、これ毎日やってるの?」
「ほぼ毎日」
「すごい! 私だったら三日で面倒になりそう!」
「莉子は三日もつ?」
「ひどい!」
思わず頬を膨らませると、朔也が小さく笑った。
……くっ。否定できないのが悔しい。
「もう! ちゃんと回すもん!」
「うん。頑張って」
私は再びハンドルを回した。
カリカリ、カリカリ。
少しずつ慣れてくると、なんだか楽しくなってくる。
「……あっ、いい感じ!」
「うん。上手」
「えへへ」
褒められて嬉しくなり、少しだけ勢いよく回す。すると、ミルがぐらりと傾いた。
「わっ!」
「莉子」
朔也がすぐに手を伸ばし、ミルを支えてくれた。私の手の上から、大きな手がそっと重なる。
「こう。下を押さえて」
「…………っ!」
……近い。
朔也が、すぐ後ろにいる。肩越しに聞こえる低い声。私の手を包む温かい指。
……待って。
コーヒー豆を挽くだけで、なんでこんなにドキドキするの!?
「莉子?」
「ひゃいっ!」
「……またそれ?」
「だ、だって!」
朔也が少しだけ首を傾げる。
「やりにくい?」
「……ううん」
「そっか」
そう言って、手を離してくれた。
……あ。
離れちゃった。
って、何を残念がってるの、私!
もう、自分でもよくわからない。
◇
豆を挽き終えると、朔也は小さな直火式のエスプレッソメーカーを取り出した。
「莉子のは、これで作る」
「……なにそれ?」
「エスプレッソメーカー」
「エスプレッソ!」
「うん。濃いコーヒーを淹れるやつ」
「へえ。いつものドリップとは違うんだ?」
「うん。今日はカフェラテにするから」
朔也は慣れた手つきでメーカーに水とコーヒーの粉をセットし、コンロにかけた。私はその隣で、興味津々に眺める。しばらくすると、香ばしい匂いとともに濃いコーヒーが抽出されてきた。
「わぁ……!」
「次、ミルク」
朔也は小鍋で牛乳を温め、ミルクフォーマーでふわふわに泡立てた。そして、カップにゆっくり注いでいく。白いミルクがコーヒーと混ざり合い、柔らかな茶色に変わっていった。
「できた」
「すごい!」
目の前に差し出されたカップを、両手で受け取る。
ふんわりしたミルクの泡。香ばしいコーヒーの匂い。まるで、おしゃれなカフェに来たみたい。
「いただきます!」
そっと一口飲む。
「……おいしい!」
思わず目を輝かせた。
「朔也! これ、すっごくおいしい!」
「よかった」
「苦くないし、ミルクがふわふわ!」
「うん」
「お店みたい!」
私が興奮していると、朔也が小さく笑った。
「莉子、口」
「……え?」
「泡ついてる」
「ええっ!?」
慌てて口元を拭こうとした、そのとき。
「こっち」
朔也がティッシュを一枚取って、私に差し出した。
「あ、ありがとう……」
「うん」
……よかった。
もし指で拭われたりしたら、私、心臓が止まってたかもしれない。
そう思いながら口元を拭くと、朔也がこちらをじっと見ていた。
「……な、なに?」
「いや」
少しだけ目を細める。
「嬉しそうだなと思って」
「……そりゃ、嬉しいよ」
私はカップを両手で包んだ。
「朔也が、私のために作ってくれたんだもん」
「…………」
朔也が黙った。
「……朔也?」
「そういうこと、普通に言うんだ」
「……え?」
「なんでもない」
そう言って、少しだけ顔を逸らす。
……あ。
耳、赤い。
私は思わず、にやりとしてしまった。
「……朔也」
「何」
「照れてる?」
「別に」
「ふふっ。ほんとに?」
「莉子」
低い声で名前を呼ばれる。
「あんまりからかわないで」
その言い方が少しだけ甘くて、今度は私の方が照れてしまった。
……結局、朔也にはかなわない。
◇
カフェラテを飲み終えたあと、私たちは映画を観ることにした。
朔也が選んでくれたのは、私が前から気になっていたファンタジー映画。魔法が使える女の子と、彼女を守る騎士の物語だ。
「これ、観たかったやつ!」
「うん。前に言ってたから」
「本当に何でも覚えてるね!」
「莉子のことは、わりと」
「…………っ!」
……ちょっと待って。
今、さらっとすごいこと言わなかった!?
「……朔也」
「ん?」
「私の心臓、今日も危ない」
「なんで?」
「朔也のせい!」
朔也は不思議そうに首を傾げた。
……絶対、わかってるくせに!
私は頬を膨らませながら、ソファに腰を下ろした。すると、朔也も隣に座る。
……近い。
いや、二人掛けのソファなんだから、当然なんだけど。でも、肩が触れそうだし、膝もちょっと近い。手を伸ばしたら、すぐに届く距離だった。
「莉子」
「ひゃいっ!」
「緊張してる?」
「……してる」
正直に答えると、朔也が少しだけ笑った。
「俺も」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「朔也も?」
「うん」
「……嘘」
「なんで」
「だって、全然そんなふうに見えないもん!」
「顔に出ないだけ」
朔也はそう言って、私を見つめた。
「好きな子と二人きりだし」
「…………っ!」
だめだ。
本当にだめ。
今日の朔也、破壊力が高すぎる。
「……さ、朔也」
「ん?」
「映画、観よう?」
「うん」
朔也が小さく笑いながら、リモコンを手に取った。
◇
映画が始まって三十分。
私は画面を見つめながら、膝の上で手をぎゅっと握っていた。
物語は面白い。すごく面白い。……なのに、隣の朔也が気になって仕方がない。少し身体を動かすだけで肩が触れそうになるし、ポップコーンを取ろうとしたら、朔也の手とぶつかりそうになった。そのたびに、心臓が跳ねる。
……もう!
映画に集中したいのに!
「莉子」
「ん?」
「こっち」
「……え?」
朔也が、そっと手を差し出してきた。
「手」
「…………っ!」
私は真っ赤になりながら、その手を取った。すると朔也は、私の指を優しく包み込む。
「これで落ち着く?」
「……逆に落ち着かない」
思わず本音が出てしまった。朔也が小さく笑う。
「そっか」
「……でも」
「ん?」
「離さないで」
言ってから、顔が熱くなった。
……何言ってるの、私!?
朔也は一瞬だけ黙った。
それから。
「うん」
手を、少しだけ強く握り直してくれた。
「離さない」
……ああ、もう。
私の彼氏、本当に甘い。
映画の後半になる頃には、少しずつ緊張が解けてきた。繋いだ手が温かくて、隣に朔也がいて、コーヒーのいい香りがまだ部屋に残っている。なんだか、とても安心する。
……眠い。
昨日、楽しみすぎてあまり眠れなかったせいかもしれない。私は小さく欠伸をした。
「莉子」
「ん……?」
「眠い?」
「……ちょっとだけ」
朔也が私を見た。それから、自分の肩を軽く叩く。
「寄りかかっていいよ」
「……え?」
「無理して起きてなくてもいいし」
「……でも、映画」
「あとで続き観ればいい」
朔也はそう言って、小さく笑った。
「おいで」
「…………」
……おいで。
その一言が、胸の奥にじんわり染み込んでくる。私は少し迷ってから、そっと朔也の肩に頭を預けた。
「……重くない?」
「全然」
「……ほんと?」
「うん。楽にしてて」
朔也の腕が、私の肩にそっと回る。私は小さく息を呑んだ。
「嫌?」
「……ううん」
「そっか」
朔也が、私を優しく抱き寄せた。
肩から伝わる体温。耳の近くで聞こえる、落ち着いた呼吸。
……あったかい。
さっきまであんなに緊張していたのに、今は不思議なくらい安心する。
「……朔也」
「ん?」
「……好き」
眠気に負けそうになりながら、小さく呟いた。
すると、頭の上から低い声が降ってきた。
「俺も」
その声があまりにも優しくて、私はゆっくり目を閉じた。
◇
目が覚めたとき、テレビの画面には映画のエンドロールが流れていた。
「……あれ?」
私はゆっくり顔を上げた。すぐ近くに、朔也の横顔がある。
……え?
待って。
私、寝ちゃった!?
「起きた?」
朔也がこちらを見る。
「……う、うん!」
「よく寝てた」
「ご、ごめん!」
慌てて身体を起こす。
「映画、最後まで観られなかった!」
「いいよ」
「でも、朔也、ずっとこのままだったの?」
「うん」
「肩、痛くない?」
「平気」
朔也は小さく首を振った。
「莉子、気持ちよさそうに寝てたから」
「…………っ!」
……恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい!
「……変な顔してなかった?」
「してない」
「ほんと?」
「うん」
朔也は少しだけ笑った。
「可愛かった」
「…………っ!」
「……あ」
朔也が珍しく、しまったという顔をした。
「ごめん。今の、忘れて」
「む、無理だよ!」
思わず叫んでしまう。朔也は少しだけ顔を逸らした。
……あ。
耳、赤い。
なんだか、嬉しい。朔也も、私の前では時々余裕がなくなるんだ。
私はそっと、朔也の肩に触れた。
「……ありがとう」
「ん?」
「ずっと、そばにいてくれて」
朔也が、私を見つめる。そして、少しだけ微笑んだ。
「うん」
◇
映画を観終えたあと、私はキッチンで使ったカップを洗っていた。
「莉子、置いといていいよ」
「だめ! 今日はいっぱい甘やかしてもらったから、これくらいさせて!」
「そっか」
朔也は小さく笑うと、隣で布巾を持った。
「じゃあ、俺が拭く」
「うん!」
二人で並んで、洗い物を片づける。
……なんだか、こういうのもいいな。
恋人って、もっと特別なことをするものだと思っていた。デートに出かけたり、手を繋いだり、キスをしたり。もちろん、それも嬉しい。
でも、こうして一緒にカップを洗うだけでも、すごく幸せなんだ。
「朔也」
「ん?」
「また、遊びに来てもいい?」
「もちろん」
「ほんと?」
「うん」
朔也は洗ったカップを棚に戻した。
そして、少しだけ間を置いて。
「むしろ、来てほしい」
「…………っ!」
……もう。
また、そういうこと言う!
「……朔也」
「ん?」
「甘すぎる」
思わず呟くと、朔也が小さく笑った。
「そう?」
「そうだよ!」
「莉子だから」
「…………」
私はもう、何も言えなくなってしまった。
最後のカップを拭き終え、私が手を洗っていると、背後から朔也の声がした。
「……莉子」
「ん?」
振り返ろうとした、そのとき。
「ちょっと、抱きしめていい?」
私は一瞬だけ目を丸くした。
「……うん」
答えると、朔也の腕がそっと背後から回ってきた。大きな腕が、私のお腹のあたりに優しく回る。背中に、朔也の体温が伝わってきた。
「……さ、朔也!?」
「……嫌?」
「い、嫌じゃないけど!」
思わず声が裏返る。朔也は少しだけ笑って、私の肩に額を寄せた。
「もう少し、このまま」
「…………」
……ずるい。
そんな甘え方、反則だよ。
私はそっと、朔也の腕に自分の手を重ねた。
「……うん」
朔也の腕が、ほんの少しだけ強くなる。包み込まれるみたいな温かさに、私はゆっくり息を吐いた。
「……朔也」
「ん?」
「私、幸せかも」
そう言うと、朔也は一瞬だけ黙った。
それから。
「俺も」
耳元で、小さく囁いた。
……っ!
もう、本当に、この人は。
どうして、こんなに甘いんだろう。
◇
夕方になり、私は帰る準備を始めた。鞄を持ち、玄関で靴を履く。
「今日はありがとう!」
「うん」
「カフェラテ、すっごくおいしかった!」
「また作る」
「ほんと?」
「うん。今度は違う豆にする?」
「する!」
朔也が小さく笑う。そして、私の頭にそっと手を置いた。
「気をつけて帰って」
「うん!」
私は笑顔で頷いた。
……でも、なんだか少しだけ寂しい。まだ帰りたくない。もうちょっと、一緒にいたい。そんな気持ちが、胸の奥で膨らんでくる。
「莉子?」
「……ん?」
「どうした?」
朔也が少しだけ首を傾げた。
私は迷った末に、そっと彼の袖を掴んだ。
「……あのね」
「うん」
「もう一回、ぎゅってしてほしい」
言った瞬間、顔が熱くなる。
……っ!
私、何言ってるの!?
こんなこと、自分からお願いするなんて!
ところが、朔也は一瞬だけ目を見開いた。そして、少しだけ困ったように笑った。
「……莉子ちゃん」
「…………っ!」
……え?
莉子ちゃん!?
普段は絶対にそんな呼び方しないのに!
「それ、反則」
朔也が、そっと私を抱き寄せた。
大きな腕に包まれる。胸元に頬を寄せると、朔也の心臓の音が聞こえた。
……あ。
どきどきしてる。
朔也も。
「……朔也」
「ん?」
「心臓、速い」
「……言わないで」
「ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。
……そっか。
私ばっかりじゃないんだ。
朔也も、同じくらいどきどきしてくれてる。
そう思ったら、嬉しくなった。
「……大好き」
小さく呟く。すると、朔也の腕が少しだけ強くなった。
「俺も」
しばらく、そのまま抱きしめ合っていた。やがて、朔也がゆっくり腕を緩める。
「送ってく」
「……え? いいの?」
「うん。駅まで」
「ありがとう!」
私は笑顔で頷いた。そして、差し出された手を握る。
……ああ。
本当に、幸せ。
朔也の部屋で過ごした、初めてのおうちデート。
特別なことなんて、ほとんどしていない。コーヒーを淹れて、映画を観て、少しだけお昼寝して。それから、一緒に洗い物をしただけ。
でも、どんなデートよりも、心が温かくなった気がする。
……そして、私は今日、ひとつ学んだ。
普段はクールで、あまり喋らない私の彼氏。そんな朔也と二人きりになると。
隣に座るだけで、心臓がもちません!
……次のおうちデートまでに、もう少し慣れておこう。
そう決意した私だったけれど、隣を歩く朔也が繋いだ手をそっと握り直しただけで、また顔が熱くなってしまった。
……うん。
慣れるのは、まだまだ先になりそうです。




