第6話 うちの彼氏、私にだけ甘いんです
「……どうしよう」
火曜日の朝。私は大学へ向かう電車の中で、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、昨夜の朔也とのメッセージが表示されている。
『明日、会えるの楽しみ!』
『俺も。早く会いたい』
……早く会いたい。
たった六文字なのに、何度読み返しても顔が熱くなる。昨日まで幼馴染として接していた柊朔也が、今は私の彼氏。正確には昨日からなんだけど、まだ全然実感が湧かない。
だって、あの朔也だよ?
いつも眠たそうな目をしていて、口数が少なくて、女子から話しかけられても必要なことしか答えない、あの朔也。そんな人が、私の彼氏なのだ。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれる。
昨日の公園での出来事を思い出した。
『キス、していい?』
「…………っ!」
だめだ。思い出しただけで、心臓が大変なことになる!
私は慌ててスマートフォンの画面を消した。
……今日、ちゃんと普通に話せるかな。
そんなことを考えていると、再びスマートフォンが震えた。
『もう大学着く?』
朔也からだった。
『あと十分くらい!』
すぐに既読がつく。
『正門で待ってる』
「…………」
私は、そっとスマートフォンを胸に抱きしめた。
……もう。
朝から甘すぎませんか、私の彼氏。
◇
大学の正門に着くと、朔也はすぐに見つかった。
黒のカーディガンに白いシャツ。少し長めの前髪が目元にかかっていて、今日も相変わらず落ち着いた雰囲気だ。隣には航平くんもいる。
「おっ! 莉子ちゃん、おはよー!」
「航平くん、おはようございます!」
「今日もいい天気だな!」
「そうですね!」
いつもどおりの挨拶。いつもどおりの朝。
……の、はずなのに。
「莉子」
朔也が私を見た。
「おはよ」
「……お、おはよう!」
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
……あ。だめ。
顔を見るだけで、昨日のキスを思い出しちゃう。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
「そっか」
朔也は少しだけ首を傾げた。そして、私の隣へ歩いてくる。
「昨日、ちゃんと寝られた?」
「えっ!?」
「夜、遅くまで起きてそうだったから」
「ね、寝たよ! ちゃんと!」
「そっか」
朔也の目元が、ふっと柔らかくなる。
「よかった」
……っ!
もう! なんでそんな優しい顔するの!?
「…………」
隣で航平くんが、じっとこちらを見ていた。
「……なあ」
「何」
「お前ら、なんかあった?」
「…………っ!」
私は思わず固まった。朔也は、いつもと変わらない顔で航平くんを見る。
「なんで?」
「いや、なんか空気が違うっつーか……」
航平くんは私と朔也を交互に見た。
そして。
「……まさか」
目を見開く。
「お前ら、ついに!?」
「うん」
朔也が、あっさり頷いた。
「付き合うことになった」
「…………」
航平くんが固まった。
一秒。二秒。三秒。
「っしゃあああああ!!」
「きゃっ!?」
突然の大声に、私は飛び上がった。
「やっとかよおおお!!」
「航平、うるさい」
「うるさくもなるだろ!? お前が何年片思いしてたと思ってんだ!」
「知ってる」
「そりゃ本人だからな!」
航平くんは両手を広げて、空を仰いだ。
「長かった……! 俺はこの日をどれだけ待ったことか!」
「お前のことじゃないだろ」
「親友の恋が実ったんだぞ!? 喜んで何が悪い!」
朔也は小さくため息をついた。でも、その口元は少しだけ緩んでいる。
「……ありがと」
「…………え?」
航平くんが止まった。
「今、お前、俺に礼言った?」
「言ったけど」
「うわああ! 朔也が素直になった! 恋ってすげえ!」
「……やっぱ取り消す」
「ひどくね!?」
私は思わず吹き出した。
「あははっ! 航平くん、朝から元気ですね!」
「莉子ちゃん! おめでとう! こいつ、愛想悪いけど根はいいやつだから!」
「航平」
「何だよ!」
「余計なこと言うな」
「大丈夫ですよ」
私は笑いながら答えた。
「朔也が優しいの、知ってますから」
「…………」
朔也が黙った。
……あれ?
どうしたんだろう。
見上げると、朔也は少しだけ顔を逸らしていた。
「朔也?」
「……なんでもない」
その耳が、ほんの少し赤い。
……え?
もしかして、照れてる?
「……うわ」
航平くんが、ものすごく呆れた顔をした。
「お前、今の一言で照れた?」
「うるさい」
「俺にはそんな顔、一度も見せたことねえぞ!」
「見せる必要ある?」
「だよな! 知ってた!」
……ふふっ。
なんだか、嬉しい。
朔也が私の言葉で照れてくれるなんて。恋人になるって、こういうことなのかな。
◇
「莉子ー!」
午前の講義室に入ると、美月が手を振っていた。
「美月、おはよう!」
「おはよ。で?」
「……で?」
「昨日の続き!」
「…………っ!」
そうだった。昨日、メッセージで交際報告をしたんだった。
私は慌てて美月の隣に座る。
「み、美月! 声!」
「大丈夫。まだ人少ないから」
「そういう問題じゃないよぉ!」
美月は楽しそうに笑った。
「いやぁ、とうとう付き合ったんだねぇ」
「……うん」
「おめでとう、莉子」
「……ありがとう」
改めて言われると、なんだか照れくさい。でも、すごく嬉しい。
「それで?」
「……なに?」
「柊先輩、彼氏になった途端どう?」
「……どうって」
私は今朝のことを思い出した。
正門で待っていてくれたこと。昨日ちゃんと眠れたか聞いてくれたこと。それから、私の言葉で少し照れていたこと。
「……なんか、前より優しい」
「前から十分甘かったけどね」
「……そうかな?」
「そうだよ。莉子にだけ」
美月は頬杖をついた。
「でもさ、柊先輩って、付き合ってからもあんまり変わらなさそう」
「うん。私もそう思ってた」
「……思ってた?」
「昨日、キスしたあと」
「うんうん」
「……ずっとこうしたかった、って」
「…………」
美月が私の肩を掴んだ。
「莉子」
「……はい」
「それ、もっと詳しく」
「ひゃああ!?」
「どこで!? どんな感じで!? 柊先輩から!?」
「み、美月! 近い近い!」
「いや、これは聞くでしょ!」
私は真っ赤になりながら、両手で顔を覆った。
……もう。
親友への恋愛報告って、こんなに恥ずかしいものなの!?
◇
お昼休み。
学食で美月とランチを食べていると、朔也と航平くんがやってきた。
「おっ、いたいた!」
航平くんが手を振る。
「莉子ちゃん、高梨ちゃん! 一緒にいい?」
「どうぞ」
美月が答えると、航平くんは向かい側の椅子に腰を下ろした。そして朔也は、当然のように私の隣へ座る。
「莉子」
「ん?」
「それ、食べきれる?」
朔也が私のトレーを見た。
今日のランチは、日替わりのハンバーグ定食。思ったよりご飯が多くて、ちょっと困っていたところだった。
「……実は、ちょっと多いかも」
「そっか」
「でも、残すのもったいないし……」
「無理して食べなくていいよ」
「うん……」
すると朔也が、私のトレーを見ながら言った。
「俺、まだ食べられるけど」
「……え?」
「莉子がよければ、ご飯もらう」
「い、いいの?」
「うん」
朔也は私の空いている小鉢を受け取ると、そこへご飯を少し取り分けた。
「これくらい?」
「あっ、うん! ありがとう!」
「ん」
……いつもの朔也だ。
そう思った、そのとき。
「……おい」
航平くんが、箸を止めた。
「何」
「お前さぁ」
「うん」
「もうちょっと隠す努力とかしないの?」
「何を?」
「莉子ちゃんへの溺愛だよ!」
「…………っ!」
私は思わずむせそうになった。
「で、溺愛!?」
「そうだよ! お前、今、ものすごく自然に彼氏してたぞ!」
「彼氏だし」
「開き直った!?」
航平くんがテーブルに突っ伏す。美月は横で肩を震わせていた。
「三浦先輩、もう諦めた方がいいですよ」
「高梨ちゃん、俺はな、こいつが莉子ちゃんに片思いしてる姿を高校の頃から見てきたんだぞ!」
「じゃあ慣れてるじゃないですか」
「慣れるか! 付き合った途端、さらに甘くなってんだぞ!」
「航平」
朔也が静かに呼ぶ。
「何だよ」
「ご飯、冷める」
「お前のせいだよ!」
私はとうとう我慢できずに笑ってしまった。
「あははっ!」
すると朔也が、ちらりと私を見る。そして、ほんの少しだけ目元を緩めた。
……あ。
また、その顔。
航平くんが言っていること、ちょっとわかるかもしれない。朔也は、確かに私にだけ甘い。
そんなことを考えていたら、朔也が食事を終えて箸を置いた。そして、テーブルの下で私の指先にそっと触れてきた。
「……え?」
思わず隣を見る。朔也は何事もなかったかのように、お茶を飲んでいる。
「……朔也?」
小声で呼ぶ。
「ん?」
「……手」
「嫌?」
朔也がちらりと私を見る。私は真っ赤になりながら、首を振った。
「……嫌じゃない、けど」
「そっか」
朔也の指が、私の手をそっと包んだ。
……もう!
そんなことされたら、ご飯の味がわからなくなるんだけど!
「……莉子?」
美月が不思議そうに私を見る。
「顔、赤くない?」
「えっ!? そ、そんなことないよ!」
「……ふーん?」
美月の視線が、私と朔也の間を行ったり来たりする。
そして。
「……あー、なるほど」
「な、何!?」
「別に?」
絶対、気づいてる!
私は慌てて味噌汁を飲んだ。
……熱い!
「あちっ!」
「莉子、大丈夫?」
朔也がすぐにこちらを向く。
「う、うん! 大丈夫!」
「気をつけて」
「……はい」
航平くんが、深いため息をついた。
「……俺、今すっげえ彼女欲しい」
「三浦先輩、毎日言ってません?」
「今日は特にだよ!」
◇
昼休みのあと、午後の講義まで少し時間があったので、私は図書館で課題を進めることにした。すると朔也が、自然についてきた。
「朔也、次の授業は?」
「今日はもうない」
「えっ、そうなの?」
「うん。莉子、課題あるんだろ」
「……うん」
「じゃあ、少し一緒にやろ」
そう言って、私の隣に座る。
……彼氏と一緒に図書館。
それだけで、なんだか特別な気分になる。
私はノートを広げ、午前中に出された課題に取りかかった。
……の、だけど。
「……うーん」
どうしても、ひとつわからないところがある。資料を読み返しても、いまいち意味がつかめない。
すると、隣から朔也が覗き込んできた。
「どこ?」
「えっと、ここなんだけど……」
私はノートの一部分を指さした。
「この説明が、ちょっとわかんなくて」
「ああ、これね」
朔也が椅子を少し寄せる。肩が、触れそうになった。
……近い。
いや、さっきだって隣に座ってたけど。図書館って静かだから、余計に意識しちゃう!
「ここ、先にこっちの資料読むとわかりやすい」
「……う、うん」
「で、この部分が……」
朔也がノートを指さしながら説明してくれる。
低くて落ち着いた声が、すぐ隣から聞こえてくる。
……というか、耳が近い。
近すぎる。
「莉子」
「ひゃいっ!?」
思わず変な声が出た。朔也がぴたりと止まる。
「今の、わかった?」
「……えっ?」
「説明」
「…………」
……全然聞いてなかった。
私は恐る恐る朔也を見る。
「……ごめんなさい」
「ん?」
「もう一回、お願いします」
朔也は一瞬だけ目を丸くした。それから、小さく笑う。
「いいよ」
「……ありがとう」
今度こそちゃんと聞こう。
そう思ったのに、朔也が少しだけ顔を寄せて、私の耳元で囁いた。
「ここ。大事だから」
「…………っ!」
……だめだ。
何も頭に入ってこない!
「莉子?」
「……はい」
「顔、赤い」
「…………っ!」
私は慌ててノートで顔を隠した。
「さ、朔也!」
「ん?」
「ち、近い!」
朔也は少しだけ瞬きをした。そして、自分と私の距離を確認する。
「あ、ごめん」
すっと身体を離してくれた。
……あ。
離れちゃった。
いや、近いって言ったのは私なんだけど!
「これくらいなら平気?」
朔也が、少し離れた位置から尋ねる。
「……うん」
「そっか」
朔也はノートを指さして、もう一度説明を始めた。今度はちゃんと頭に入ってくる。
……のだけど。
私はこっそり、朔也の横顔を盗み見た。
……やっぱり、格好いい。
長い睫毛。少し眠たそうな目元。すっと通った鼻筋。
こんな人が、私の彼氏。
「莉子」
「ひゃっ!」
「……また聞いてない?」
「…………」
私は机に突っ伏した。
「……ごめんなさい」
朔也が、声を立てずに笑った。
「今日は集中できない?」
「……誰のせいだと思ってるの」
小さく呟く。すると朔也が、少しだけ首を傾げた。
「俺?」
「……そうだよ」
「そっか」
なぜか、嬉しそうに笑った。
……もう!
反省して!
◇
午後の講義を終え、再び図書館で朔也と合流した。課題を片づけて図書館を出る頃には、夕方になっていた。大学の中庭には、柔らかな日差しが差し込んでいる。
「朔也」
「ん?」
「今日はありがとう。課題、助かった!」
「うん」
「でも、途中ちょっと意地悪だった」
「そう?」
「そうだよ!」
私が頬を膨らませると、朔也が小さく笑った。
「ごめん」
「絶対、思ってないでしょ」
「……ちょっとだけ」
「もうっ!」
私は思わず笑ってしまった。
すると朔也が、すっと手を差し出してきた。
「帰ろ」
「……うん!」
私は迷わず、その手を取った。
大きくて、温かい手。昨日は、触れるだけで緊張していた。今だって、もちろんどきどきする。でも、それ以上に嬉しかった。
朔也と手を繋いで歩けることが、こんなにも嬉しいなんて。
「莉子」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「……え?」
私は思わず、朔也を見上げた。
「うん! すっごく!」
「そっか」
朔也の目元が、ふっと柔らかくなる。
「俺も」
たった、それだけ。でも、その言葉が胸の奥にじんわり染み込んできた。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「私たち、本当に付き合ってるんだよね?」
言ってから、自分でも変なことを聞いたと思った。でも、まだ少しだけ夢みたいなのだ。
朔也は一瞬だけ私を見た。そして、繋いだ手を少しだけ持ち上げる。
「これ、答えじゃない?」
「…………っ!」
……もう!
どうしてそういうこと、さらっと言えるの!?
「……朔也」
「ん?」
「私、心臓がもたないかもしれない」
「なんで?」
「朔也が甘すぎるから!」
思わず言ってしまった。
すると、朔也が珍しく目を丸くした。そして、少しだけ考えるように黙る。
「……甘い?」
「うん!」
「俺が?」
「そう!」
朔也はしばらく私を見つめていた。それから、ほんの少しだけ口元を緩める。
「莉子限定だから」
「…………っ!」
……っ!
もう、だめ!
私は繋いだ手をぎゅっと握った。
「……ずるい!」
「何が?」
「全部!」
朔也が、小さく笑う。
……本当に、どうしよう。
幼馴染だった頃から優しかったけれど、恋人になった朔也は想像以上に甘かった。しかも、その甘さはどうやら私にだけ向けられているらしい。
……そんなの、嬉しくないわけないじゃない。
私は繋いだ手を見つめながら、小さく笑った。
そして、ほんの少しだけ勇気を出して、朔也の腕に寄り添う。
「……莉子?」
「……えへへ」
「どうした?」
「……彼女だから、いいでしょ?」
朔也が、一瞬だけ黙った。
それから。
「……うん」
いつもより、少しだけ低い声で答えた。
「もちろん」
私の手を包む指に、少しだけ力がこもる。
見上げると、朔也は前を向いていた。でも、その耳がほんの少し赤い。
……あ。
照れてる。
「……朔也」
「何」
「耳、赤いよ?」
「気のせい」
「ふふっ。ほんとに?」
「莉子」
「なぁに?」
「あんまりからかわないで」
その声が、少しだけ照れくさそうで、私はますます嬉しくなってしまった。
……そっか。
朔也だって、照れるんだ。
私ばっかり、どきどきしてるわけじゃないんだ。
そう思ったら、なんだか少しだけ勇気が出てきた。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「……大好き」
小さく、そう言ってみた。
朔也の足が、ぴたりと止まった。
「…………」
「……朔也?」
見上げると、彼は片手で口元を覆っていた。
「……ちょっと待って」
「えっ?」
「今の、不意打ち」
「……ふふっ」
私は思わず笑ってしまった。
……やった。
初めて、私の勝ちかもしれない。
朔也はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。そして、私の手をもう一度握り直す。
「俺も、大好きだよ」
その言葉に、また胸がいっぱいになった。
……結局、最後にどきどきするのは、やっぱり私なんだ。
幼馴染だった朔也が、私の彼氏になった。普段はクールで、無口で、ちょっと眠たそうな顔をしている。でも、私にだけは驚くほど優しくて、甘くて、時々ずるい。
そんな朔也の隣で、私は笑った。
だって。
うちの彼氏、私にだけ甘いんです。




