第5話 幼馴染、恋人になりました
「……好き、なのかなぁ」
月曜日の朝。私は大学へ向かう電車の中で、スマートフォンの画面を見つめていた。
そこに映っているのは、土曜日に朔也と撮った水族館の写真。青い水槽を背景に、二人で並んで写っている。私が笑っている隣で、朔也もほんの少しだけ口元を緩めていた。何度見ても、なんだか胸が温かくなる。
……というか、土曜日からずっと、この写真ばっかり見てるんだけど。
「……重症かも」
小さく呟いて、スマートフォンを鞄にしまった。
土曜日、朔也に告白された。
『俺、ずっと莉子が好きだった』
あの言葉を思い出すたびに、顔が熱くなる。しかも、中学生の頃からずっと好きだったなんて、全然知らなかった。
朔也は昔から優しかった。私が困っていると、いつも真っ先に気づいてくれたし、好きなものだってよく覚えていてくれた。でも、それは幼馴染だからだと思っていた。
……違ったんだ。
あの優しさの中には、私の知らなかった気持ちが、ずっと隠れていたんだ。
「……朔也」
名前を小さく口にする。それだけで、胸がきゅっとした。
……これって、やっぱり。
そういうこと、なのかな。
◇
「莉子! おはよー!」
「美月、おはよう!」
大学の正門で、美月が手を振っていた。
今日もアッシュブラウンの髪をさらりと揺らしながら、颯爽と歩いてくる。いつ見ても大人っぽくて、格好いい。そんな美月は、私の顔を見るなり目を細めた。
「……で?」
「……え?」
「どうだったの?」
「な、なにが?」
「土曜日のデートに決まってるでしょ!」
「…………っ!」
思わず頬が熱くなった。
「み、美月! 声大きい!」
「はいはい。じゃあ、場所変えよっか」
美月は楽しそうに笑いながら、私の手を引いた。私たちは人通りの少ない中庭へ移動し、ベンチに腰を下ろした。
「さあ、莉子ちゃん」
「……はい」
「お姉さんに全部話してごらんなさい」
「美月、同い年だよね?」
「細かいことは気にしない」
私は思わず笑ってしまった。でも、次の瞬間には、また緊張してくる。
「……あのね」
「うん」
「朔也に……告白、された」
「…………」
美月が固まった。
そして。
「……やっぱりぃぃぃ!」
「きゃっ!?」
突然、両肩を掴まれた。
「ちょっと待って! ついに!? ついに柊先輩が!?」
「う、うん!」
「うわぁ……! あの人、とうとう言ったんだ!」
「……とうとう?」
私は首を傾げた。
「美月、何か知ってたの?」
「いや、あれだけわかりやすかったらねぇ……」
「……わかりやすかった?」
「莉子以外にはね」
「ええっ!?」
美月は呆れたように笑った。
「で? 返事は?」
「……それが」
私は膝の上で指を組んだ。
「ちょっとだけ、待ってもらってる」
「そっか」
美月は意外にも、すぐに頷いた。
「急に言われたらびっくりするよね」
「うん……」
「それで? 莉子はどう思ってるの?」
「……わかんない」
正直に答える。
「朔也のことは、もちろん好きだよ。ずっと一緒にいたし、一番落ち着くし……」
「うん」
「でも、幼馴染として好きなのか、男の子として好きなのか……」
そこで言葉が止まった。美月はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく笑った。
「じゃあさ、ひとつ聞いていい?」
「うん?」
「もし柊先輩が、ほかの女の子と付き合ったら?」
「…………え?」
想像してみる。
朔也が、知らない女の子と並んで歩いているところ。その子に飲み物を買ってあげて、好きなものを覚えていて。そして、私に向けてくれるあの優しい笑顔を。
……ほかの女の子に?
「…………」
胸が、きゅうっと苦しくなった。
「……やだ」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。美月が優しく微笑む。
「うん」
「……なんか、すごく嫌」
「そっか」
「でも……これって、ただの独占欲なのかな。ずっと幼馴染だったから、取られたくないだけかも……」
「それは莉子にしかわからないけどさ」
美月は私の肩に、ぽんと手を置いた。
「じゃあ、逆に聞くね」
「……うん」
「柊先輩と手を繋いだとき、どうだった?」
「…………っ!」
水族館でのことが、頭に浮かんだ。
大きくて、温かい手。そっと握り直してくれた指。そして。
『じゃあ、このままでいい?』
「……どきどき、した」
「うん」
「すごく、嬉しかった」
「じゃあ、もうひとつ」
「……なに?」
「また手、繋ぎたい?」
「…………」
答えは、すぐに出た。
「……うん」
美月がにっこり笑った。
「それが答えなんじゃない?」
私は俯いた。頬が熱い。でも、胸の奥がじんわり温かかった。
……そっか。
私、朔也と、また手を繋ぎたいんだ。
◇
午前の講義が終わり、私は一人で図書館へ向かった。美月は次の講義の準備があるらしく、先に別れている。
図書館の窓際に座って、借りた本を開く。
……けれど。
「……全然、頭に入らない」
同じページを三回も読んでしまった。ため息をついて、本を閉じる。
頭の中に浮かぶのは、やっぱり朔也のことだった。
小さい頃から、ずっと一緒にいた。転んで泣いたとき、手を引いてくれたのも朔也。中学生の頃、数学のテストでひどい点数を取って落ち込んでいたとき、放課後に勉強に付き合ってくれたのも朔也。高校の帰り道、私が好きだと言った期間限定のお菓子を、さりげなく買ってきてくれたこともあった。
……そういえば。
高校二年生のとき、クラスの男子に体型のことをからかわれて、私が落ち込んでいた日があった。帰り道で朔也と会ったけれど、私は何も話さなかった。でも、朔也は気づいていたらしい。
『莉子』
『ん?』
『帰り、寄り道する?』
『……どこに?』
『好きなケーキ屋』
そう言って、私を駅前のケーキ屋さんへ連れていってくれた。
あの日、私はいちごのショートケーキを食べながら、ようやく笑うことができた。朔也は何も聞かなかった。ただ、向かい側でブラックコーヒーを飲んでいた。
……ああ。そうだった。
私は、そんな朔也が好きだった。
無理に話を聞き出さないところ。私が笑うと、少し嬉しそうにするところ。口数は少ないのに、ちゃんと見てくれているところ。
それから、最近になって気づいてしまったこと。
朔也の手が触れると、どきどきする。優しく笑いかけられると、胸がいっぱいになる。そして、あの日、水族館で手を繋いだとき。
……離したくないって、思った。
「…………」
私はそっと、自分の右手を見つめた。あの温かさを、まだ覚えている。
……そっか。
私、ずっと勘違いしてたんだ。
幼馴染だから、好きなんじゃない。
朔也だから、好きなんだ。
今までの思い出も、今、隣にいてほしいと思う気持ちも、全部同じ人に向いている。
それに、もし朔也と恋人になれたら。
きっと私は、今まで以上に彼のことを知りたくなる。どんなことを考えているのか、何をすると嬉しいのか。いつも私を喜ばせてくれる朔也を、今度は私が笑顔にしたい。
「……好き、なんだ」
小さく呟いた瞬間、胸の奥がふわっと温かくなった。
……うん。
もう、迷わない。
◇
午後三時。
私は大学の中庭で、スマートフォンを握りしめていた。
画面には、朔也とのメッセージ画面。
『今日、少し会える?』
そう送ったのは、十分ほど前。返事はすぐに来た。
『うん。四限終わったら行く』
そして今。
「莉子」
顔を上げると、朔也がこちらへ歩いてきた。
黒のカーディガンに、白いシャツ。少し長めの前髪が、風に揺れている。
……いつもの朔也。
なのに、今日は顔を見るだけで心臓がうるさくなる。
「待った?」
「う、ううん!」
「そっか」
朔也は私の隣に立った。
「何かあった?」
「……うん」
私はぎゅっと鞄の持ち手を握った。
「……あのね、朔也」
「うん」
「土曜日の返事、したくて」
その瞬間、朔也の表情がほんの少しだけ変わった。
「……うん」
声はいつもどおり落ち着いている。でも、私を見つめる黒い瞳は、どこか真剣だった。
私は一度、深呼吸をした。
「……私ね、ずっと考えてた」
「うん」
「朔也のこと、幼馴染として好きなのか、それとも……って」
声が少し震える。でも、今度は逃げたくなかった。
「小さい頃からずっと一緒にいて、朔也が隣にいるのが当たり前で……」
「うん」
「でも、最近は違うの」
私はゆっくり顔を上げた。
「朔也に可愛いって言われると、すごく嬉しくて。手を繋いだときも、どきどきして……」
朔也は何も言わずに聞いてくれている。
「それで、気づいたの」
私は胸元に手を当てた。心臓が、どくどくと鳴っている。
「私、朔也とまた手を繋ぎたい」
「…………」
「もっと一緒にいたいし、もっといろんなところに行きたい。それに、朔也のこと、もっと知りたい」
息を吸う。
そして。
「……私も、朔也が好き」
言えた。
ちゃんと、言えた。
「幼馴染としてじゃなくて……男の子として、好き」
朔也が、目を見開いた。
……あ。
こんな顔、初めて見たかもしれない。普段はあんなに落ち着いているのに、今はまるで時間が止まったみたいに、私を見つめている。
「……朔也?」
「…………」
「……聞こえた?」
「……うん」
朔也はゆっくり息を吐いた。それから、片手で口元を覆う。
「……ちょっと待って」
「えっ!?」
「今、すごい嬉しい」
「…………っ!」
今度は私が固まる番だった。朔也が、こんなに素直に気持ちを口にするなんて。
「……ほんと?」
「うん」
朔也は私を見つめた。その目元が、いつもよりずっと柔らかい。
「もう一回、言って」
「ええっ!?」
「……だめ?」
「だ、だめじゃないけど……!」
私は真っ赤になりながら俯いた。
でも、もう一度、ちゃんと伝えたかった。
「……好きだよ、朔也」
すると、朔也がふっと笑った。今まで見たことがないくらい、優しい笑顔だった。
「俺も」
短い言葉。でも、その声があまりにも嬉しそうで、胸がいっぱいになった。
◇
「……じゃあ」
少しして、朔也が口を開いた。
「俺たち、付き合うってことでいい?」
「…………っ!」
改めて言われると、ものすごく恥ずかしい!
「……う、うん!」
「そっか」
朔也は一度、目を伏せた。
そして。
「莉子」
「ん?」
「手、繋いでいい?」
「…………」
私はそっと、右手を差し出した。
「……うん」
朔也の大きな手が、私の手を包む。
水族館のときと同じ。温かくて、安心する手。でも、今日は少しだけ違う。
だって、今は。
……恋人、なんだ。
「……朔也」
「ん?」
「なんか、不思議だね」
「何が?」
「今までずっと幼馴染だったのに、急に彼氏と彼女になっちゃった」
「急じゃないけど」
「え?」
朔也は小さく笑った。
「俺は、ずっと好きだったし」
「…………っ!」
また!
またそういうこと言う!
「さ、朔也!」
「ん?」
「……心臓に悪い」
「ごめん」
全然悪いと思ってなさそうな顔で言うから、私は思わず頬を膨らませた。
「もう!」
朔也はそんな私を見て、ほんの少しだけ笑った。
「莉子」
「なに?」
「嬉しい」
その一言に、怒っていた気持ちが一瞬で消えてしまう。
……ずるいなぁ。本当に。
でも、そんな朔也が、私は好きなんだ。
◇
大学を出た頃には、空が少しだけ茜色に染まっていた。
朔也と手を繋いで、いつもの道を歩く。ただ、それだけ。いつもと同じ帰り道なのに、景色が少し違って見える。
「莉子」
「ん?」
「今日、時間ある?」
「うん。夕方までなら」
「じゃあ、少し寄り道しない?」
「どこに?」
「公園」
朔也が指さしたのは、大学から少し離れたところにある小さな公園だった。水族館の帰りに告白してくれた公園とは別の、住宅街の中にある静かな場所だ。
「うん!」
私は笑顔で頷いた。
公園に着くと、私たちは並んでベンチに座った。周囲にはほとんど人がいない。風が木々を揺らし、葉っぱの擦れる音が聞こえる。さっきまで繋いでいた手は、まだ離していなかった。
「莉子」
「なぁに?」
「こっち、向いて」
私は首を傾げながら、朔也を見る。すると、彼は少しだけ身体をこちらへ向けた。
「……あのさ」
「うん」
「キス、していい?」
「…………え?」
一瞬、頭が真っ白になった。
……キス?
えっ。
キスって、あのキス!?
「……い、今!?」
「うん」
「こ、ここで!?」
「嫌なら、しない」
朔也は静かに言った。その目は、いつもと同じように優しい。私が嫌だと言えば、きっとすぐにやめてくれる。
……でも。
嫌じゃ、なかった。
むしろ、ちょっとしてみたい。
そんな自分に気づいて、ますます顔が熱くなる。
「……い、嫌じゃない」
小さな声で答えた。朔也は、ほんの少しだけ目を細める。
「そっか」
「……でも」
「ん?」
「初めて、だから」
声が震えてしまう。朔也は私の手を、そっと握り直した。
「うん。ゆっくりでいい」
その言葉に、少しだけ安心する。私は小さく頷いて、目を閉じた。
すると、朔也の手がそっと私の頬に触れた。
温かい指先。すぐ近くに感じる、彼の気配。
……どきどきする。
心臓の音が、聞こえてしまいそう。
そして。
唇に、柔らかな感触が触れた。
ほんの一瞬。
優しく、確かめるようなキスだった。
「…………」
ゆっくり目を開けると、朔也がすぐ近くにいた。黒い瞳が、私を見つめている。
「莉子」
「……うん」
「大丈夫?」
私はこくこくと頷いた。
「……うん」
声が、ちゃんと出ているか自信がない。
朔也は小さく息を吐いた。それから、少しだけ照れたように笑う。
「ずっと、こうしたかった」
「…………っ!」
私は思わず、両手で顔を覆った。
「さ、朔也!」
「ん?」
「そういうこと、キスした直後に言わないで!」
「なんで?」
「恥ずかしいから!」
朔也が、珍しく声を立てて笑った。
「ごめん」
「絶対、思ってない!」
「……うん。ちょっと」
「もうっ!」
私は頬を膨らませた。でも、次の瞬間には、つられて笑ってしまった。
……ああ。
なんだろう。
すっごく、幸せ。
◇
その日の夜。
私はベッドの上で、スマートフォンを握りしめていた。画面には、美月とのメッセージ画面。
『美月!』
『どうしたの?』
『朔也と、付き合うことになった!』
送信した瞬間、すぐに既読がついた。
『!!!!!!!!』
「……あははっ!」
思わず笑ってしまう。続けて、メッセージが飛んできた。
『おめでとう!!!!』
『やっと!!!!』
『で!? どっちから!?』
『キスした!?』
「……っ!」
最後の一文を見た瞬間、私はスマートフォンを落としそうになった。
「み、美月ぃ……!」
なんでそこ聞くの!?
私は真っ赤になりながら、返信を打った。
『……した』
すぐに返事が来る。
『きゃあああああ!!!!』
……文字なのに、叫び声が聞こえる気がする。
『明日、全部聞かせてね♡』
「……こ、怖い」
でも、嬉しい。
美月がこんなに喜んでくれることも、朔也と恋人になれたことも、全部すごく嬉しい。
そのとき、別の通知が届いた。朔也からだった。
『今日はありがとう』
私は小さく笑って、返事を打つ。
『こちらこそ! すごく嬉しかったよ』
少し間が空いてから。
『莉子』
『なに?』
『もう一回言っていい?』
……え?
何を?
そう思った直後、メッセージが届いた。
『好きだよ』
「…………っ!」
私はスマートフォンを胸に抱きしめた。
……もう。
本当に、もう!
今日だけで、何回どきどきさせるつもりなの!?
私は真っ赤になりながら、ゆっくり文字を打った。
『私も大好きだよ、朔也』
送信。すぐに既読がつく。
けれど、返事が来ない。
……あれ?
どうしたんだろう。
少しして、ようやくメッセージが届いた。
『……反則』
「……え?」
思わず首を傾げる。
『反則ってなに?』
しばらくして。
『莉子から言われると、思ってたより嬉しい』
「…………」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
……そっか。
朔也も、同じなんだ。
私が好きって言うと、嬉しいんだ。
そう思うと、なんだかもっと伝えたくなってしまう。
私はベッドにごろんと寝転がった。そして、天井を見上げながら、小さく笑う。
「……幼馴染、卒業しちゃった」
ううん。違う。
幼馴染じゃなくなったわけじゃない。小さい頃からの思い出も、今までの関係も、全部そのまま。ただ、そこに新しい名前が、ひとつ増えたのだ。
――恋人。
そう考えるだけで、胸がいっぱいになる。
明日も、大学で朔也に会える。いつもと同じように隣に座って、笑って。
でも、今度は。
……彼氏として。
「……ふふっ」
思わず笑みがこぼれた。
胸が大きいことは、今でもコンプレックスだ。可愛い服を着るのに勇気がいるし、人の視線が怖くなることもある。
だけど、そんな私の気持ちをちゃんと受け止めてくれる人がいる。嫌いなところまで、無理に好きにならなくていいと言ってくれる人がいる。
そして、その人が今日から私の彼氏になった。
「……朔也、大好き」
誰もいない部屋で、もう一度呟く。
すると、スマートフォンが震えた。
『おやすみ、莉子』
私は笑顔で返信した。
『おやすみ、朔也!』
少し迷ってから、もう一言。
『明日、会えるの楽しみ!』
返事は、すぐに来た。
『俺も。早く会いたい』
「…………っ!」
……もう!
付き合った途端、甘すぎませんか!?
私は枕に顔を埋めながら、足をばたばたさせた。
明日から、いったいどうなっちゃうんだろう。そんな期待で胸をいっぱいにしながら、私はそっと目を閉じた。
幼馴染だった朔也が、私の彼氏になった。
そして、どうやら。
――私の知らない朔也は、まだまだたくさんいるらしい。




