第4話 俺、ずっと莉子が好きだった
「……よし!」
土曜日の朝。私は姿見の前で、ぐっと拳を握った。
今日着ているのは、先週買ったばかりのラベンダー色のワンピース。小さな花柄に、ふんわりした袖。ウエストのリボンを少し緩めに結んで、髪は毛先だけゆるく巻いてみた。鏡の中の私は、いつもより少しだけ大人っぽく見える。
……気がする。
「うう……緊張する」
今日は、朔也と水族館へ行く日だ。しかも、ただのお出かけじゃない。
『そういうつもりで誘ってる』
先週、朔也は確かにそう言った。
つまり、今日は。
「……デート、なんだよね」
口に出した途端、頬が熱くなる。
朔也とは、小さい頃から何度も二人で出かけている。映画も買い物も、一緒に行ったことがある。なのに、今日は髪を整えるだけでもずいぶん時間がかかってしまった。いつもなら迷わず選ぶバッグだって、何度も持ち替えてしまったくらいだ。
バッグを持ち、もう一度鏡を見る。胸元が少し気になった。いつものゆったりしたブラウスとは違って、身体のラインがわかる。思わずクローゼットに目を向けたけれど、すぐに首を振った。
「……今日は、これを着たい」
私が可愛いと思って選んだワンピース。美月も褒めてくれたし、朔也だって。
『可愛いよ、莉子』
「…………っ!」
だめだ。思い出すだけで、心臓がうるさい。
「もう! 朔也のばか!」
本人がいないところで文句を言ってから、私は部屋を飛び出した。
◇
待ち合わせ場所は、駅の改札前。
約束の十分前に着いたのに、朔也はもう来ていた。黒の細身のパンツに、白いシャツ。上から薄手のダークグレーのジャケットを羽織っている。いつもより少しだけきれいめな格好で、無造作な黒髪も今日はきちんと整えられていた。
……あれ? なんか、いつもより格好よくない?
そう思った瞬間、なぜか足が止まってしまった。
「……莉子?」
先に気づいたのは朔也だった。
「あっ! お、おはよう!」
「おはよ」
朔也がこちらへ歩いてくる。そして、私の目の前で足を止めた。
「…………」
「……朔也?」
返事がない。朔也は私を見つめたまま、ほんの少し目を見開いていた。
……え? な、なに? もしかして、変?
「あ、あの……」
「似合ってる」
「……え?」
「そのワンピース」
朔也は少しだけ視線を逸らした。
「やっぱり、可愛い」
「…………っ!」
かああっ、と顔が熱くなる。
「そ、そんな……!」
「本当のことだし」
「だ、だから! そういうの、そんな簡単に言わないでよ!」
「……簡単じゃないけど」
「え?」
「なんでもない」
朔也は小さく咳払いをした。
……今、なんて言った?
簡単じゃないって、どういう意味?
聞き返そうとしたけれど、彼はもう改札の方を向いていた。
「行こ」
「……う、うん!」
私は慌てて、その隣に並んだ。
……もう。
デートが始まって、まだ五分も経ってないのに。
私の心臓、今日一日もつのかな。
◇
「わぁ……!」
水族館に入った瞬間、思わず声が漏れた。
青く照らされた大きな水槽の中を、色とりどりの魚たちが泳いでいる。頭上にはゆらゆらと光が揺れていて、まるで海の中にいるみたいだった。水槽の向こうを大きな魚がゆったりと横切るたびに、周囲から歓声が上がっている。私もすっかり夢中になって、ガラスに顔を近づけた。
「朔也、見て! あの魚、すっごく綺麗!」
「うん」
「あっ、こっちの子、ちっちゃい!」
「ほんとだ」
「わっ! あの魚、顔が面白い!」
「……莉子」
「なに?」
「さっきから魚の感想、全部その場で言ってる」
「だ、だって可愛いんだもん!」
思わず頬を膨らませると、朔也が小さく笑った。
「楽しそうでよかった」
「うん! すっごく楽しい!」
そう答えると、朔也の目元がふっと柔らかくなる。
……あ。また、その顔。
最近、気づいてしまったことがある。朔也は誰にでも無愛想というわけじゃないけれど、あまり表情を変えない。でも、私が笑うと、ほんの少しだけ嬉しそうな顔をするのだ。以前なら気にも留めなかった小さな変化が、今は不思議なくらい気になってしまう。
……なんでだろう。
そう思った途端、胸がきゅっとした。
「あっ、朔也! クラゲ!」
考え込む前に、私は彼の袖を引いた。
「こっち! 早く!」
「はいはい」
「もう! おじいちゃんみたいな返事!」
「莉子が元気すぎるんだよ」
「まだ十九歳だもん!」
「知ってる」
朔也が、また少しだけ笑う。その横顔を見ながら、私はなんだか嬉しくなった。
◇
クラゲの展示室は、薄暗くて幻想的な空間だった。
大きな円柱形の水槽には、半透明のクラゲが何匹も漂っている。青や紫の光に照らされて、ゆっくりと傘を開いたり閉じたりする姿は、まるで水の中に浮かぶ花みたいだった。館内には静かな音楽が流れていて、さっきまでの賑やかさが嘘のようだ。私は水槽の前で足を止め、しばらく見入ってしまった。
「……綺麗」
思わず、息を呑む。朔也も隣で、水槽を見つめていた。
「来てよかった?」
「うん! すっごく!」
「そっか」
「朔也、覚えててくれたんだね。私がここに来たいって言ってたの」
「うん」
「ありがとう」
顔を上げると、朔也が私を見下ろした。
「莉子が喜ぶと思ったから」
「…………」
……もう。
そういうこと、さらっと言うんだから。
私は慌てて水槽へ視線を戻した。
そのとき、後ろから見学客の一団が近づいてきた。
「わっ!」
小さな子どもが水槽へ駆け寄ろうとして、私は思わず一歩下がった。けれど、足元がふらついてしまう。
次の瞬間。
「莉子」
ぐい、と手を引かれた。
気づけば、朔也のすぐ隣にいた。
「大丈夫?」
「う、うん……!」
朔也の手が、私の手を包んでいる。
大きくて、温かい手。
……え?
ちょっと待って。
手。
手、繋いでる!?
「あ、あの、朔也……!」
「ん?」
「て、手……!」
朔也は一瞬だけ自分の手元を見た。
そして。
「……嫌?」
「…………」
私は、ぶんぶんと首を振った。
「い、嫌じゃない!」
「そっか」
朔也の指が、私の手をそっと握り直す。今度は、人混みから守るためだけじゃなくて、ちゃんと手を繋ぐみたいに。
「じゃあ、このままでいい?」
「…………うん」
声が、ものすごく小さくなってしまった。
朔也はそれ以上何も言わず、私の歩幅に合わせて歩き始める。私は、繋がれた手を見つめた。
……あったかい。
昔だって、手を繋いだことはある。小さい頃、道路を渡るときとか、人混みではぐれそうになったときとか。でも、今は全然違う。手のひらから伝わる温もりを、こんなにも意識したことはなかった。
……これが、デートってことなのかな。
◇
お昼は、水族館の中にあるカフェで食べることにした。
「……見て、朔也!」
「ん?」
「このオムライス、イルカの形してる!」
「ほんとだ」
「可愛い! これにする!」
「即決だな」
「だって、イルカだよ!?」
「うん。イルカだね」
「その言い方!」
私は思わず笑ってしまった。朔也も小さく笑いながら、メニューを閉じる。
料理が運ばれてくると、私はさっそくスマートフォンで写真を撮った。ケチャップで目が描かれたイルカのオムライスは、食べるのがもったいないくらい可愛い。周りには星形のにんじんまで添えられていて、見ているだけで楽しくなってくる。
「……朔也も撮る?」
「俺はいい」
「えー、記念なのに!」
「……じゃあ」
朔也はスマートフォンを取り出した。
そして、カメラを向けた先は。
……私?
「えっ!?」
「撮っていい?」
「わ、私!?」
「うん」
「な、なんで!?」
「今日の莉子、残しときたいから」
「…………っ!」
……っ、もう!
今日の朔也、なんなの!?
そんなこと言われたら、断れないじゃない!
「……い、いいけど」
「ありがと」
「でも、変な顔だったら消してね!」
「大丈夫だと思う」
「思うって何!?」
朔也が小さく笑った。私は慌てて背筋を伸ばし、オムライスの皿を持つ。
「……こ、こんな感じ?」
「うん。いいよ」
カシャッ、と小さな音がした。
「見せて!」
朔也が画面をこちらへ向ける。そこには、イルカのオムライスを持って笑っている私が映っていた。
……あれ?
なんだか、すごく楽しそう。
いつものように胸元を気にして背中を丸めることもなく、自然に笑っている。ワンピースだって、ちゃんと可愛く写っていた。
「……いい写真」
思わず呟くと、朔也が頷いた。
「うん。俺も好き」
その声が、いつもより少しだけ優しく聞こえた。
……もう。
今日は、何回ドキドキさせられるんだろう。
◇
水族館を出た頃には、夕方になっていた。
帰り道、私たちは駅へ向かってゆっくり歩いていた。空は淡いオレンジ色に染まり、吹き抜ける風が少しだけ涼しい。水族館で買った小さなイルカのキーホルダーが、バッグの持ち手で揺れている。
手は、まだ繋いだままだった。
……結局、ずっと繋いでた。
水族館の中でも、お土産を選ぶときも、帰り道でも。途中で何度か離したけれど、そのたびに朔也が自然に手を差し出してくれた。
……なんだろう。
最初はあんなに緊張したのに、今はこの手を離すのが少し寂しい。
「莉子」
「ん?」
「今日、楽しかった?」
「うん! すっごく楽しかった!」
「そっか」
「朔也は?」
「楽しかった」
「ほんと?」
「うん。莉子がずっと笑ってたから」
「…………」
私は思わず足を止めた。
「……朔也」
「ん?」
「今日、なんか変だよ」
「そう?」
「うん。いつもより、優しいっていうか……」
そこまで言って、私は口を閉じた。
だって、朔也は昔から優しい。いつだって、私のことを気にかけてくれる。だけど、今日はそれとは少し違う気がしていた。
繋いだ手を見つめる。
この手の温かさも、優しい眼差しも、今まで知らなかったものみたいに感じる。
朔也はしばらく黙っていた。そして、繋いだ手をそっと緩める。
「莉子」
「……うん?」
「ちょっと、話していい?」
いつもより真剣な声だった。私は、小さく頷いた。
◇
駅へ続く道の途中に、小さな公園があった。
夕方の公園は静かで、ベンチには誰も座っていなかった。朔也は私をベンチへ促すと、少しだけ距離を空けて隣に座った。木々の間から差し込む夕日が、足元に長い影を落としている。
……なんだろう。
さっきまで、あんなに近かったのに。
急に距離を置かれると、なんだか寂しい。
「……莉子」
「うん」
朔也は一度、ゆっくり息を吐いた。それから、私の方を向く。
「俺、ずっと莉子が好きだった」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
好き。
朔也が、私を?
「……え、えっと……」
頭が真っ白になる。朔也は私を急かさず、静かに続けた。
「中学の頃から。幼馴染としてじゃなくて」
「…………」
「ずっと、一人の女の子として好きだった」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
……本当に?
朔也が、私を?
だって、私たちはずっと一緒にいて、小さい頃から当たり前みたいに隣にいて。私はずっと、朔也にとって家族みたいな存在なんだと思っていた。
「……なんで」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「なんで、今まで言わなかったの?」
朔也は少しだけ目を伏せた。
「関係、壊したくなかったから」
「……え?」
「莉子にとって、俺は幼馴染だろ」
「……うん」
「告白して、今までみたいに会えなくなるのが怖かった」
朔也は落ち着いた声で話している。だけど、その表情はいつもより少しだけ硬かった。
……朔也も、怖かったんだ。
なんだか不思議だった。昔から何でも知っているつもりだったのに、私は朔也のこんな気持ちを少しも知らなかった。
「でも、最近」
「うん」
「莉子が、俺のこと意識してくれてる気がして」
「…………っ!」
図星だった。思わず視線を逸らしてしまう。
「だから、ちゃんと言おうと思った」
朔也が、私を見つめる。
「莉子が好き」
その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちてきた。
……嬉しい。
そう思った。驚いているのに、頭の中はぐちゃぐちゃなのに。朔也に好きだと言われて、私は確かに嬉しかった。
でも。
「……朔也」
「うん」
「私ね」
膝の上で、ぎゅっと手を握る。
「自分の身体、あんまり好きじゃないんだ」
朔也は何も言わなかった。ただ、私の言葉を待ってくれている。
「胸が大きいの、ずっと気になってて……。可愛い服を着たくても、つい隠しちゃうし。人の視線が怖くなることもあるし……」
「うん」
「だから、なんていうか……」
言葉がうまく出てこない。私は俯いたまま、小さく続けた。
「朔也に、どう見られるのかも、ちょっと怖い」
言ってから、胸がぎゅっと苦しくなった。
……こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
でも、朔也だからこそ、ちゃんと伝えておきたかった。
幼馴染として何でも話せることと、恋人として見られることは、きっと違う。今日、朔也に手を繋いでもらって嬉しかった。でも同時に、今まで気にしていた自分の身体を、もっと意識してしまったのも本当だった。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、朔也が静かに口を開く。
「莉子」
「……うん」
「俺は、莉子のことが好きだよ」
「…………」
「でも、莉子が自分の身体を好きになれないからって、気持ちが変わるわけじゃない」
「……え?」
「無理に自信持たなくてもいいし、嫌な日は隠したっていいと思う」
私は、ゆっくり顔を上げた。
「……朔也」
「莉子が何を着るかも、自分の身体をどう思うかも、莉子が決めていい」
朔也の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。
「俺は、莉子が好き。それだけ」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
……ああ。
やっぱり、この人は、ずっと私の知っている朔也なんだ。
無理に励ましたりしない。気にするなとも言わない。ただ、私が感じていることを、そのまま受け止めてくれる。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとう」
声が、少しだけ震えた。朔也は小さく頷いた。
「うん」
夕方の風が、二人の間を通り抜ける。
しばらく、私たちは黙っていた。でも、不思議と気まずくはなかった。
「……あのね、朔也」
「うん」
「私、今日すっごく楽しかった」
「うん」
「朔也と手を繋いだのも、嬉しかった」
言葉にすると、また頬が熱くなる。
「可愛いって言ってくれたのも」
「……うん」
「だから、その……」
私は膝の上で、ぎゅっと指を握った。
「もう少しだけ、考える時間をもらってもいい?」
朔也は、すぐには答えなかった。ほんの少しだけ目を細めて、それから静かに頷いた。
「もちろん」
「……いいの?」
「うん。急がなくていい」
「……ありがとう」
「ただ」
「え?」
朔也は少しだけ困ったように笑った。
「返事待ってる間も、普通に会いたいんだけど」
「…………っ!」
思わず顔が熱くなる。
「そ、それはもちろん!」
「よかった」
「だって、朔也だもん!」
「……うん」
朔也の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「それ、今は結構嬉しい」
「……え?」
「なんでもない」
もう! 朔也ってば!
最後まで、私をドキドキさせるんだから。
◇
その日の夜。
私はベッドの上に座って、今日撮った写真を見返していた。
イルカのオムライスを持って笑っている私。クラゲの水槽。お土産に買った、小さな青いイルカのキーホルダー。そして、朔也と一緒に撮った写真。
帰り際、私からお願いして撮ってもらったものだ。
画面の中の朔也は、いつもどおり少し眠たそうな顔をしている。でも、よく見ると。
……笑ってる。
ほんの少しだけ、私の隣で。
「……朔也」
小さく名前を呼んでみる。
今日、朔也は私に好きだと言ってくれた。しかも、中学生の頃からずっと。
……何年も?
そんなに長い間?
私は何も知らずに、隣で笑っていた。幼馴染だから優しいんだと思っていた。
でも、本当は。
「……ずっと、好きだったんだ」
そう呟いた瞬間、胸がきゅっとした。そして、不思議なことに、嬉しくて少しだけ泣きそうになった。
……でも。
私の気持ちは、まだちゃんと言葉にできない。
朔也が好き。それは、きっと間違いない。だけど、それが幼馴染としてなのか、それとも男の子としてなのか。
……もう少しだけ、考えたい。
スマートフォンが震えた。画面には、朔也からのメッセージ。
『今日はありがとう。楽しかった』
私は小さく笑って、返事を打つ。
『私も! すっごく楽しかった!』
少し間が空いてから。
『ワンピース、ほんとに似合ってた』
「…………っ!」
……もう!
なんで最後にそれ言うの!?
枕に顔を埋めたくなるのを、ぐっとこらえる。そして、少し迷ってから。
『ありがとう。また着るね』
そう送った。すぐに既読がつく。
『うん。楽しみにしてる』
たった、それだけ。だけど、胸の奥がじんわり温かい。
私はスマートフォンを置いて、ベッドにごろんと寝転がった。
……朔也。
今まで、当たり前だと思っていた幼馴染。いつも隣にいて、優しくて、私の好きなものを覚えてくれて。私が嫌だと思うことを、ちゃんと嫌だと受け止めてくれる人。
そんな朔也が、私を好きだと言ってくれた。
「……どうしよう」
ぽつりと呟く。
でも、不思議と嫌な気持ちは少しもなかった。
むしろ。
……明日も、会いたい。
そう思っている自分に気づいて、私はそっと目を閉じた。
もしかしたら、私の中ではもう答えが出ているのかもしれない。ただ、まだそれを口にする勇気がないだけで。
……ねえ、朔也。
もし、私が「好き」って言ったら。
あなたは、どんな顔をするのかな。
そんなことを考えながら、私はもう一度、今日の写真を開いた。
画面の中の朔也は、私の隣で優しく笑っていた。




