第2話 幼馴染の距離感が、おかしい
「……うーん」
大学の講義室で、私はスマートフォンの画面を見つめながら首を傾げていた。
画面に映っているのは、昨日着るのを諦めたピンクのTシャツ。今朝、家を出る前に撮っておいた写真だ。やっぱり可愛い。淡い色も、小さな花の刺繍も、すごく気に入っている。だけど、問題は着たときのシルエット。……どうして私の胸って、こんなに自己主張が激しいんだろう。
「莉子、おはよー! ……って、何見てるの?」
「あ、美月。おはよう!」
隣の席に鞄を置いた美月が、私のスマートフォンを覗き込んだ。
「あれ? これ、昨日言ってたTシャツ?」
「うん。やっぱり可愛いなぁって」
「ほんとだ。色も刺繍も莉子っぽいじゃん」
「でしょ? でも、着るとちょっと……」
「あー、なるほどね」
美月は事情を察したように頷いた。
「だったら、上に薄手のカーディガン羽織ってみたら?」
「カーディガン?」
「そう。前を開けてもいいし、気になるなら閉じてもいいし。着方を変えるだけで印象も変わるよ」
「……なるほど!」
思わず身を乗り出す。
「美月、天才!」
「いや、普通のことしか言ってないけど」
「私、隠すことばっかり考えてた!」
「莉子が着たい服なんだから、莉子が落ち着く着方を探せばいいんじゃない?」
美月はそう言って、にっこり笑った。
……持つべきものは、おしゃれな親友である。
今までは、胸が目立たない服を選ぶことばかり考えていた。でも、好きな服を諦める以外にも方法はあるのかもしれない。もちろん、カーディガンを羽織ったからといって、すぐに自信が持てるわけじゃない。それでも、少しだけ楽しみになってきた。
「よし! 今度、カーディガンと合わせてみる!」
「うん。写真送ってよ。一緒に考えよ」
「ありがとう、美月!」
そんな話をしているうちに、講義が始まった。
◇
午前の講義が終わり、私たちは学生ラウンジへ向かった。
お昼休みには少し早い時間だけれど、ラウンジにはすでに何人かの学生が集まっている。窓際の席には柔らかな日差しが差し込んでいて、なかなか気持ちがよさそうだ。空いているソファ席を見つけた美月が、私の袖を軽く引いた。
「莉子、あそこ空いてる」
「あ、ほんとだ」
美月と並んで腰を下ろし、私は鞄からノートを取り出した。次の講義まで少し時間があるので、さっきの授業でわからなかったところを確認しておこうと思ったのだ。
「……うーん。この部分、どういう意味なんだろ」
「どれ?」
「ここ。先生、さらっと説明してたけど、よくわかんなくて」
「あー、私もそこ怪しいかも」
二人でノートを覗き込んでいると、頭の上から聞き慣れた声が降ってきた。
「莉子」
「あ、朔也!」
顔を上げると、そこには柊朔也が立っていた。
白いシャツに黒のカーディガン。無造作な黒髪の前髪が少し目元にかかっていて、今日も相変わらず涼しげな顔をしている。ちなみに朔也は、私より一つ年上の大学二年生。そして、小さい頃からずっと一緒にいる幼馴染だ。
「隣、いい?」
「うん!」
私が頷くと、朔也はごく自然に隣へ腰を下ろした。
……近い。
いや、昔からこうなんだけど。でも、よく考えたら、この距離って普通なのかな? 肩が触れそうなくらい近くに座られることなんて、今まで何度もあったはずなのに。昨日から、なぜか妙に気になってしまう。
「はい」
「……え?」
突然、目の前に差し出されたのは、小さなペットボトルだった。
「ミルクティー?」
「うん。新しいやつ」
「あっ! これ、コンビニで見た!」
「飲みたいって言ってたから」
「……私、言ったっけ?」
「昨日」
昨日。えーっと、昨日は朔也と一緒に駅まで歩いて、それから……。
「あっ! 帰りにコンビニのポスター見たとき!」
「うん」
「覚えてたの!?」
「昨日のことだし」
朔也は当たり前のように答える。私はペットボトルを受け取りながら、思わず笑ってしまった。
「ありがとう! 朔也って、本当に記憶力いいよね」
「そう?」
「うん! 私なんか昨日のお昼ご飯、何食べたか忘れちゃうもん」
「パスタ」
「……え?」
「昨日の昼。学食でパスタ食べたって、帰りに言ってた」
「…………」
私は固まった。
なんで覚えてるの!?
「朔也、すごい!」
「別に」
そう言いながら、朔也の口元がほんの少しだけ緩む。
……うん。いつもの朔也だ。
昔から、私の話をよく覚えていてくれる。何気なく口にした好きなものも、ちょっとした出来事も、なぜか忘れない。私なんて、自分が話したことすら忘れてしまうのに。
ところが。
「……ねえ、莉子」
隣に座っていた美月が、妙に低い声で囁いてきた。
「な、なに?」
「柊先輩って、いつもこうなの?」
「こうって?」
「こういうこと、普通にするの?」
「え? うん。昔からだよ?」
「……へえ」
美月はなぜか、ものすごく意味ありげな顔をした。
「……な、なに?」
「いや、別に?」
絶対、別にじゃない。
美月のこういう顔、最近よく見る気がする。
◇
「おーい! 朔也!」
突然、ラウンジの向こうから元気な声が響いた。振り返ると、三浦航平くんが片手を上げながら歩いてくる。
「いたいた。お前、昼どうすんの? って、また莉子ちゃんと一緒かよ!」
「またって何」
「いや、昨日も一緒だっただろ!」
「大学同じなんだから、会うだろ」
「そういう問題じゃねえ!」
航平くんは大げさに両手を広げた。
「なあ、莉子ちゃん。こいつ、昔からこんな感じ?」
「こんな感じって?」
「莉子ちゃん見つけると、すぐそっち行く感じ」
「えっ?」
私は朔也を見る。朔也は相変わらず涼しい顔をしていて、航平くんの方を見ようともしない。
「……そうかな?」
「そうだよ! 俺と歩いてたのに、莉子ちゃん見つけた瞬間、普通に方向変えたからな!」
「たまたま」
「絶対違うだろ!」
思わず笑ってしまった。
「あははっ! 朔也、航平くん置いてきちゃったの?」
「……あとで合流すると思って」
「俺には一言もなかったけどな!」
「三浦先輩、扱いが雑ですね」
美月が容赦なく突っ込む。
「高梨ちゃん! もっと俺に優しくして!」
「優しくしたら調子に乗りそうなので嫌です」
「ひどい!」
航平くんが胸を押さえて倒れ込むふりをする。
……本当に、この二人の掛け合いは面白い。
そんな様子を笑って見ていると、朔也がふいに私の顔を覗き込んだ。
「莉子」
「ん?」
「髪」
「……髪?」
「動かないで」
「え?」
次の瞬間、朔也の手が私の顔のすぐ横に伸びてきた。さらり、と髪が揺れる。耳の近くに、朔也の指先が触れそうになった。
「……っ!」
思わず息を止める。
近い。近い近い近い!
朔也の顔が、すぐそこにある。切れ長の黒い瞳も、長い睫毛も、思っていたよりずっと近い。いつも見上げている顔なのに、こんな距離で見つめることなんて滅多にない。
……あれ? 朔也って、こんなに睫毛長かったっけ?
「……取れた」
「へっ?」
「糸くず」
朔也が指先につまんで見せたのは、小さな白い糸くずだった。
「あ、ありがとう……」
「ん」
何事もなかったかのように、朔也は背もたれに寄りかかる。
……いやいやいや。
なんでそんなに普通なの!?
私だけ? 今、変にドキドキしたの、私だけ!?
向かい側では、美月が口元を押さえていた。その隣で、航平くんが肩を震わせている。
「……な、なに?」
「いやぁ?」
航平くんがにやにや笑った。
「朔也、お前ってほんと……」
「何」
「いや、なんでもねえ」
「なら黙って」
「はいはい」
絶対、何かある。
なんだろう。私だけ、話についていけてない気がする。
◇
その後、朔也と航平くんは午後の講義があるため、先にラウンジを出ていった。私と美月は、そのまま席に残っていた。
「……ねえ、莉子」
「ん?」
美月が私の方へ身体を向ける。そして、真剣な顔で聞いてきた。
「柊先輩って、ほかの女子にもあんな感じ?」
「……あんな感じ?」
「そう。飲み物買ってきたり、髪についてる糸くず取ったり、あんなに近くに座ったり」
「えーっと……」
私は少し考えた。
朔也がほかの女の子と話しているところ。……うーん。あんまり見たことがない。
「普通に話してるとは思うけど……」
「具体的には?」
「この前、女の先輩に何か聞かれてたよ」
「それで?」
「『はい』『そうです』『わかりました』って」
「……それだけ?」
「うん」
美月は深々とため息をついた。
「……莉子」
「な、なに?」
「それ、全然違うじゃん」
「そうかなぁ?」
「そうだよ!」
美月は身を乗り出す。
「柊先輩、莉子にだけめちゃくちゃ甘いよ?」
「……甘い?」
「甘い。というか、特別扱い」
「ええっ!?」
思わず声が大きくなった。慌てて周囲を見回す。幸い、誰もこちらを気にしていなかった。
「ちょ、美月! そんなことないよ!」
「なんで?」
「だって、朔也とは小さい頃からずっと一緒だし!」
「うん」
「家も近所だったし、小学校も中学校も一緒だったし!」
「うんうん」
「高校は別々だったけど、ずっと仲良しだったし……だから、家族みたいなものっていうか……」
そこまで言ったところで、美月がじっと私を見つめた。
「……莉子」
「ん?」
「柊先輩が莉子のこと、家族みたいに思ってるとは限らないよ?」
「……え?」
胸の奥が、こつんと鳴った気がした。
……どういう意味?
聞き返そうとしたけれど、美月はそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ楽しそうに笑っている。
「まあ、そのうちわかるんじゃない?」
「……なにが?」
「さあ?」
「美月ぃ!」
もう!
最近の美月、こういうことばっかり!
でも、家族みたいに思っているとは限らないって、どういうことなんだろう。幼馴染じゃなかったら、朔也と私はどんな関係なんだろう。
……だめだ。考えれば考えるほど、わからなくなってきた。
◇
午後の講義を終えたあと、私は大学の正門近くで美月と別れた。
「じゃあ莉子、また明日ね!」
「うん! バイト頑張ってね!」
「ありがとー!」
手を振って、美月の後ろ姿を見送る。さて、私も帰ろう。そう思って歩き出したところで、少し離れたベンチに見覚えのある黒髪を見つけた。
「あれ? 朔也?」
スマートフォンを見ていた朔也が、顔を上げる。
「莉子」
「どうしたの? もう講義終わったの?」
「うん」
「帰らないの?」
「待ってた」
「え?」
「莉子が終わるの」
……え?
私を?
「な、なんで?」
「駅まで一緒に行こうと思って」
「……そ、そっか」
心臓が、また変な音を立てた。
朔也は大学の近くで一人暮らしをしている。だから、私と帰る方向が同じなのは途中までだ。それでも、時間が合えば一緒に帰ることは珍しくない。いつものこと。そう、いつものことなのだ。
……珍しくない、はずなのに。
どうして今日は、こんなに意識してしまうんだろう。
「……莉子?」
「ひゃいっ!」
「……またそれ?」
「う、うるさい!」
朔也が小さく笑う。私は頬を膨らませながら、隣に並んだ。
歩き出してすぐ、大学の門の前で女子学生二人とすれ違った。
「あ、柊先輩!」
そのうちの一人が声をかけてきた。
「こんにちは!」
「こんにちは」
朔也は軽く会釈する。
「先輩、今日ってもう帰りですか?」
「うん」
「よかったら今度、みんなでご飯でも――」
「ごめん。予定あるから」
「あ、そうなんですね!」
「うん。じゃあ」
朔也はそれだけ言うと、再び歩き始めた。
……相変わらず、あっさりしてるなぁ。
別に冷たいわけじゃないんだけど、朔也は昔から、必要以上に会話を広げるタイプではない。特に、あまり親しくない相手にはこんな感じだ。
ところが。
「莉子」
「ん?」
「今日、ミルクティーどうだった?」
「あっ! おいしかった!」
「そ」
「昨日のいちごミルクも好きだけど、今日のも好き! でもね、ちょっと甘めだったから、今度はもう少しさっぱりしたのも飲んでみたいな」
「じゃあ、今度探しとく」
「ほんと? ありがとう!」
「ん」
そんなやり取りをしていた、そのとき。
ふと、美月の言葉が頭をよぎった。
『柊先輩、莉子にだけめちゃくちゃ甘いよ?』
……え?
今のも?
これも、特別扱いなの?
ちらりと朔也を見上げる。朔也は前を向いて歩いている。いつもの、ちょっと眠たそうな横顔。
「……朔也」
「ん?」
「朔也ってさ」
「うん」
「……私に、優しいよね」
言ってから、何を当たり前のことを聞いているんだろうと思った。朔也は少しだけ首を傾げる。
「そう?」
「うん。飲み物買ってくれたり、いろいろ覚えててくれたり」
「……嫌?」
「えっ!? 全然!」
慌てて首を振る。
「むしろ嬉しいよ! すっごく!」
「……そ」
朔也の目元が、ふっと柔らかくなった。
「なら、いい」
……あ。
まただ。その顔。
いつもは少し気だるそうなのに、私を見るときだけ、ほんの少し優しくなる。今日の私には、それがやけにはっきり見えた。今までも、ずっとこんな顔をしてくれていたんだろうか。それとも、私が気づいていなかっただけ?
「……莉子」
「な、なに?」
「顔、赤い」
「えっ!?」
思わず両手で頬を押さえる。
「う、嘘!」
「ほんと」
「き、気のせいだよ!」
「……そう?」
朔也が、ほんの少しだけ笑った。
……ずるい。
なんなの、その顔。
そんなふうに笑われたら、余計に赤くなるじゃない!
◇
駅へ向かう途中、朔也と別れた。
大学近くのアパートへ帰る朔也を見送ってから、私は一人で駅へ向かう。
スマートフォンが震えたのは、そのときだった。画面には、美月からのメッセージ。
『ねえ莉子、今ちょっといい?』
『うん! どうしたの?』
返事を送ると、すぐに返信が来た。
『さっき三浦先輩から聞いたんだけどさ』
『うん?』
『柊先輩って、女子から結構人気あるんだって』
『知ってるよ?』
『でも、誰かを自分から誘ったり、わざわざ探して話しかけたりすることって、ほとんどないらしいよ』
「……え?」
思わず声が漏れた。続けて、美月からメッセージが届く。
『なのに莉子のことは、大学で見つけるとすぐそっち行くんだって』
『三浦先輩が言ってた』
『あの人、わかりやすすぎるって笑ってたよ』
私は画面を見つめたまま、立ち止まった。
……朔也が?
私を見つけると、すぐに?
今日だって、ベンチで待っていてくれた。昨日も、帰り道で一緒になった。それに、飲み物だって。私が欲しいと言ったものを、いつも覚えていてくれる。
……でも、それって。
『莉子?』
美月から、もう一通。
『もしかして、今さらドキドキしてる?』
「……っ!」
思わずスマートフォンを胸に抱きしめた。
「し、してないもん……!」
誰も聞いていないのに、小さく反論する。
けれど、心臓はさっきからずっと落ち着かない。
朔也は幼馴染。昔から一緒にいて、誰よりも気楽に話せる男の子。何でもないことで笑い合って、くだらない話をして、一緒にいるのが当たり前の存在。……そのはずなのに。
今日は、隣に座られただけで。
髪についた糸くずを取ってもらっただけで。
優しく笑いかけられただけで。
なんだか、いつもと違って見えた。
「……もう」
私は赤くなった頬を押さえながら、空を見上げた。
幼馴染って、もっと気楽なものじゃなかったっけ? どうして急に、こんなに距離が近く感じるんだろう。
……いや。
もしかしたら、距離が変わったんじゃない。
私が、今まで気づいていなかっただけなのかもしれない。
スマートフォンが、もう一度震えた。
今度は、朔也からだった。
『無事に駅着いた?』
たった一行のメッセージ。いつもなら、何も考えずに返している。
なのに今日は。
「……朔也のばか」
思わず、そんな言葉がこぼれた。
もちろん、嫌いだからじゃない。
むしろ、その逆で。
……って、逆ってなに!?
私は慌てて首を振った。そして、いつもどおりの返事を打つ。
『もうすぐ着くよ! ありがとう!』
すぐに既読がついた。
『よかった』
それから、少し間を置いて。
『また明日、莉子』
……たった、それだけ。
それだけなのに。
「……もう、本当にずるい」
私はスマートフォンを胸元に抱えたまま、小さく呟いた。
幼馴染の距離感が、おかしい。
……いや。
おかしくなっているのは、もしかしたら私の方なのかもしれない。
だって、今まで何とも思わなかった朔也の「また明日」が。
今日は、こんなにも嬉しいんだから。




