番外編 好きだなんて、言えるわけがない ―朔也視点
俺が桃瀬莉子を好きになったのは、いつだったんだろう。
小学生の頃から、莉子はいつも俺の隣にいた。家が近くて、親同士も仲がよくて、気づけば一緒に遊ぶのが当たり前になっていた。朝は待ち合わせて学校へ行き、放課後は公園で遊ぶ。休日だって、どちらかの家に入り浸っていた。
あの頃の俺にとって、莉子は一番近くにいる女の子だった。
それが、いつから特別になったのか。
今となっては、はっきり思い出せない。
◇
「朔也ー! 早く早く!」
小学校五年生の秋。
放課後の校庭で、莉子が大きく手を振っていた。
当時の莉子は、クラスの女子の中でも背が高いほうだった。少しふっくらした頬に、笑うと細くなる目。走ることが大好きで、休み時間になると、いつも真っ先に校庭へ飛び出していた。
「また競走?」
「うん! 今日は絶対、朔也に勝つから!」
「昨日もそう言ってなかった?」
「今日は勝つの!」
莉子は両手を腰に当て、得意げに胸を張った。
俺は思わず笑った。
「じゃあ、あの木まで」
「よーい、どん!」
「……って、おい! まだ!」
最後まで言う前に、莉子が走り出した。
慌てて追いかける。
秋の風に、肩より少し短いダークブラウンの髪をふわふわと揺らしながら、莉子は楽しそうに笑っていた。運動靴が土を蹴るたび、小さな砂埃が舞う。少し前まで俺のほうが速かったのに、最近は油断すると本当に負けそうになる。
「朔也、遅いよー!」
「そっちが先に走ったんだろ!」
結局、莉子が先に木へたどり着いた。
「やったあ! 勝った!」
両手を上げて喜ぶ莉子を見て、俺は息を整えながら肩をすくめた。
「……ずるい」
「えへへ。でも、勝ちは勝ちだもん!」
その笑顔があまりに嬉しそうで、文句を言う気もなくなった。
莉子は昔から、こういうやつだった。
嬉しいときは全身で喜ぶ。楽しいときは遠慮なく笑う。誰かが落ち込んでいたら、放っておけない。
そして、俺に対しては少しも遠慮がなかった。
「ねえ、朔也! 帰りにアイス食べよう!」
「また?」
「だって、今日は勝った記念日だもん!」
「毎日何かの記念日じゃん」
「いいの!」
そう言って、莉子が俺の手を掴んだ。
「早く行こ!」
引っ張られるまま歩き出す。
小学生の頃は、それが普通だった。
莉子が手を繋いできても、何も考えなかった。隣にいるのが当たり前で、笑っているのが当たり前で。
この先も、ずっとそうなんだと思っていた。
◇
中学生になってから、少しずつ何かが変わり始めた。
莉子は小学校の高学年頃から背があまり伸びなくなり、いつの間にか俺のほうがずっと高くなっていた。以前は並んで歩けば目線が近かったのに、気づけば莉子を見下ろすことが増えた。
それだけじゃない。
莉子は昔より、周りの目を気にするようになった。
「……朔也、私って太ってる?」
ある日の帰り道。
突然そう聞かれて、俺は足を止めた。
「……何で?」
「この前ね、親戚の集まりで、いとこに言われたの」
莉子は足元を見つめた。
「もっと痩せたほうがいいって。そしたら可愛くなるって」
いつもなら、どうでもいいことまで楽しそうに話す莉子が、その日は珍しく元気がなかった。
俺は少し考えてから答えた。
「別に、そんなことないだろ」
「……ほんと?」
「うん」
「でも、痩せたほうが可愛いって……」
「俺は今の莉子でいいと思うけど」
莉子が顔を上げた。
「……そう?」
「うん。それに、莉子って走るの速いじゃん」
「えっ?」
「今日も体育で一番だっただろ」
「……うん!」
莉子が少しだけ笑った。
その顔を見て、俺もほっとした。
誰かに何を言われたのか、詳しくは知らない。でも、莉子が自分のことを嫌いになるのは嫌だった。
小学生の頃、あんなに楽しそうに走っていたくせに。
誰よりもよく笑っていたくせに。
どうして、他人のひと言でそんな顔をしなきゃいけないんだろう。
そう思った。
ただ、当時の俺は、莉子がそれからどれだけ悩むことになるのか、まだ知らなかった。
◇
恋だと自覚したのは、中学二年生の頃だったと思う。
きっかけは、拍子抜けするほど些細なことだった。
「朔也!」
放課後、教室の前で莉子が俺を呼び止めた。
振り返ると、少し息を切らしながら立っている。
「どうした?」
「これ、忘れてたでしょ?」
差し出されたのは、俺のノートだった。
「あ……」
「机の上に置きっぱなしだったよ。明日提出なんでしょ?」
「……助かった」
「えへへ。よかった!」
莉子は嬉しそうに笑った。
ただ、それだけだった。
昔から何度も見てきた笑顔。何度も聞いてきた声。
なのに、その日は妙に目が離せなかった。
「……朔也?」
「……ん?」
「どうしたの? ぼーっとして」
「いや、別に」
慌てて目を逸らした。
心臓が、やけにうるさかった。
帰り道も、家に帰ってからも、莉子の笑顔が頭から離れなかった。
翌日、学校で顔を合わせたときも同じだった。
「朔也、おはよう!」
「……おはよ」
「ねえ、今日の小テスト、勉強した?」
「まあ」
「私、昨日ちょっとだけ頑張ったんだよ!」
隣で楽しそうに話す莉子を、まともに見られない。
何なんだ、これ。
そう思った。
そして、ようやく気づいた。
……ああ。
俺、莉子が好きなんだ。
気づいてしまえば、もう誤魔化せなかった。
莉子がほかの男子と話していると、なぜか気になる。廊下で笑っている姿を見つけると、無意識に目で追ってしまう。帰り道に一緒になれる日は、それだけで少し機嫌がよくなる。
今まで当たり前だったことが、全部特別になった。
ただ、一つ問題があった。
本人には、絶対に言えない。
◇
「なあ、柊。お前、好きな女子いないの?」
昼休み。
男子数人で弁当を食べていたとき、突然そんな話題になった。
「は?」
「だから、好きな女子」
「……別に。誰も」
考えるより先に、そう答えていた。
「えー? 絶対いるだろ!」
「いないって」
「じゃあ、桃瀬は?」
「……何で莉子?」
思わず反応してしまった。
男子がにやりと笑う。
「だって、お前ら幼馴染なんだろ?」
「そうだけど」
「仲いいじゃん。いつも一緒に帰ってるし」
「家が近いだけ」
「ふーん?」
面白がるような視線が集まる。
俺は弁当の蓋を閉じた。
「……くだらない」
それ以上、何も言わなかった。
本当は、好きだった。
誰よりも。
でも、あの頃の俺は、自分の気持ちを誰かに知られるのが怖かった。
からかわれるのも嫌だったし、何より莉子の耳に入るのが嫌だった。
もし、莉子に知られたら。
気まずくなったら。
今までみたいに笑ってくれなくなったら。
そう考えるだけで、どうしようもなく不安になった。
俺は、幼馴染という立場を失いたくなかった。
だから、好きじゃないふりをした。
……今思えば、ずいぶん臆病だったと思う。
◇
高校は、別々になった。
俺は地元から少し離れた高校へ進学し、莉子は別の学校へ通うことになった。
中学までは当たり前に会えていたのに、高校生になってからはそうもいかなくなった。
朝の時間も違う。
帰る時間も違う。
友達も、学校での出来事も、知らないことが増えていく。
それが、思っていた以上に落ち着かなかった。
『朔也! 今日ね、新しい友達できたよ!』
莉子から届いたメッセージを見て、俺は思わず笑った。
『よかったな』
『うん! すっごくいい子なの! 今度一緒に遊ぶんだ!』
嬉しそうな文面だった。
莉子は昔から、人と仲よくなるのが上手だった。明るくて、優しくて、誰に対しても自然に接する。
だから、きっと新しい学校でもすぐに友達ができるだろうと思っていた。
その予想は当たった。
ただ、俺は一つだけ考えていなかった。
莉子の周りには、俺の知らない男子もいるということを。
◇
「朔也、聞いて!」
高校一年の秋。
久しぶりに一緒に帰ることになった日、莉子は待ち合わせ場所に着くなり、嬉しそうに話し始めた。
「今日ね、クラスの子にノート貸してあげたの!」
「……うん」
「そしたら、字が綺麗って褒めてくれたんだ!」
莉子はにこにこしていた。
俺は何気ないふりをして尋ねた。
「……それって、もしかして男?」
「うん! なんで分かったの?」
当たった。
……当たってほしくなかった。
「すごく喜んでくれたんだよ。今度お礼に何か奢るって!」
「……へえ」
「でも、ノート貸しただけだから、そんなのいいよね?」
莉子は不思議そうに首を傾げた。
俺は少しだけ眉を寄せた。
「……その人、よく話すの?」
「うん。隣の席だから!」
「……そっか」
それ以上、何も聞かなかった。
莉子が悪いことをしたわけじゃない。
クラスメイトにノートを貸した。ただ、それだけだ。
そんなことはわかっていた。
なのに、胸の奥が妙にもやもやする。
莉子の字が綺麗なことくらい、俺だって知っている。
ノートを貸してくれるくらい優しいことも、昔から知っている。
……何で、そいつに褒められてそんなに嬉しそうなんだよ。
口には出さなかった。
出せるわけがなかった。
「……朔也?」
「ん?」
「なんか、怒ってる?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「うん」
莉子は少しだけ俺を見つめたあと、ふっと笑った。
「よかった! 今日ね、ほかにも話したいこといっぱいあるんだ!」
そう言って、また楽しそうに話し始める。
俺は隣を歩きながら、小さく息を吐いた。
……まったく。
こっちの気も知らないで。
でも、そんな莉子が好きだった。
だから余計に、困った。
◇
「お前さ、ほんっとわかりやすいよな」
高校二年の昼休み。
教室の窓際でスマートフォンを見ていた俺に、三浦航平が話しかけてきた。
航平とは高校に入ってから同じクラスになり、いつの間にか一緒にいることが増えた。誰にでも気さくに話しかける、お調子者。俺とは正反対の性格なのに、不思議と気が合った。
「……何が」
「また莉子ちゃん?」
「……別に」
俺はスマートフォンを伏せた。
航平がにやりと笑う。
「今、めっちゃ嬉しそうな顔してたぞ」
「してない」
「してたって。口元、緩んでた」
「……うるさい」
航平は面白そうに俺の隣へ腰を下ろした。
「なあ。いつ告白すんの?」
「……は?」
「だから、莉子ちゃんに」
「……何の話だよ」
「いやいや、もうバレバレだから」
俺は黙った。
航平は少しだけ笑みを弱めた。
「お前、あの子のこと好きなんだろ?」
「…………」
否定しようと思えば、できた。
いつもみたいに「別に」と言えばよかった。
でも、そのときはなぜか、言葉が出なかった。
航平は俺の反応を見て、楽しそうに笑った。
「やっぱりな!」
「……声でかい」
「おっと、悪い悪い」
航平は少し声を落とした。
「で? 何年片思いしてんの?」
「……中学から」
「えっ、マジで!?」
「声」
「あ、ごめん」
航平は口元を押さえた。
それから、俺をじっと見つめる。
「……長いな」
「……うん」
「で、何で告白しないの?」
「……簡単に言うなよ」
俺は窓の外に目を向けた。
「幼馴染なんだよ。ずっと」
「うん」
「もし断られたら、今までみたいに会えなくなるかもしれないだろ」
口にした途端、自分でも情けなくなった。
でも、それが本音だった。
莉子と一緒にいられなくなるくらいなら、幼馴染のままでいい。
ずっとそう思ってきた。
航平はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……でもさ」
「ん?」
「うかうかしてると、莉子ちゃん取られてもしらないよ」
俺は思わず航平を見た。
「……何だよ、それ」
「いや、普通に考えてさ。莉子ちゃん、可愛いじゃん」
「…………」
「明るいし、優しいし。しかも他校なんだろ? お前の知らないところで、誰かに告白されるかもしれないじゃん」
そんなこと、わかってる。
わかっているから、ずっと落ち着かないんだ。
航平は俺の顔を見て、少し笑った。
「……想像しただけで嫌そうな顔してる」
「……うるさい」
「なあ、朔也」
「何」
「好きな子がいるなら、いつかはちゃんと言った方が俺はいいと思うな」
俺は何も答えられなかった。
航平は立ち上がり、俺の肩を軽く叩いた。
「まあ、焦らなくてもいいけどさ。ずっと幼馴染のままでいられる保証もないんだぜ?」
その言葉が、妙に胸に残った。
◇
高校三年の冬。
莉子と久しぶりに会った日、俺は駅前のカフェで彼女を待っていた。
ガラス越しに外を眺めていると、見慣れたダークブラウンの髪が目に入った。
「朔也ー!」
莉子が小走りで近づいてくる。
白いマフラーに、淡い色のコート。中学生の頃より少し大人びた雰囲気になったけれど、笑うと昔と変わらない。
「ごめんね! 待った?」
「いや、今来た」
「ほんと? よかった!」
莉子は向かいの席に座ると、メニューを開いた。
「わあ、ホットチョコレートある!」
「好きだよな、それ」
「うん! 冬って感じするもん!」
嬉しそうに笑う。
その顔を見ているだけで、胸の奥が温かくなった。
でも、同時に思う。
俺が知らない時間の中で、莉子は少しずつ変わっていく。
髪型も、服の好みも、話す内容も。
学校での出来事を楽しそうに話す莉子を見ながら、俺は何度も思った。
……俺は、いつまで幼馴染でいられるんだろう。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「大学生になっても、また一緒に遊ぼうね!」
莉子が突然、そんなことを言った。
俺は思わず顔を上げた。
「……当たり前だろ」
「えへへ。よかった!」
莉子は安心したように笑った。
「だって、朔也とはずっと仲よくしてたいもん!」
その言葉が、嬉しかった。
同時に、少しだけ苦しかった。
莉子にとって、俺はきっと大切な幼馴染なんだろう。
でも。
俺は、もうそれだけじゃ足りなくなっていた。
隣にいたい。
手を繋ぎたい。
誰よりも近くで、その笑顔を見ていたい。
そして、いつか。
莉子にとっての特別な男になりたい。
そんなことを考えている自分に、俺は小さく苦笑した。
「……朔也?」
「ん?」
「どうしたの? 何か考え事?」
「……いや」
俺は莉子を見た。
「大学生になっても、よろしくな」
「うん! もちろん!」
莉子が満面の笑みを浮かべる。
俺も、つられて笑った。
好きだなんて、言えるわけがない。
今の関係が壊れるのが、怖いから。
でも、いつまでも黙っていられるわけじゃないことも、わかっていた。
莉子が誰かの恋人になるところなんて、見たくない。
だから。
いつか、ちゃんと伝えよう。
幼馴染としてじゃなく、一人の男として。
俺は、莉子が好きだ。
ずっと、ずっと前から。
そして、これから先も。
その気持ちだけは、きっと変わらない。




