番外編 紹介するわけないだろ―朔也視点
大学生になれば、何かが変わると思っていた。
高校を卒業して、新しい環境に進んで。少しは大人になって、昔より自分の気持ちを素直に伝えられるようになるんじゃないか。
そんな期待をしていた時期もあった。
けれど、大学二年生になった今でも、俺は相変わらずだった。
桃瀬莉子。
家が近くて、小さい頃から一緒に育った幼馴染。昔は俺より背が高かった時期もあったのに、今では俺の肩にも届かない。明るくて、優しくて、少し天然で。嬉しいことがあると、いつだって全身で喜ぶ。
俺が中学生の頃から、ずっと好きな女の子。
その莉子が、この春、大学生になった。
……正直、困っている。
高校生の頃から可愛かったけれど、最近はますます目が離せない。
本人は、まったく自覚がないみたいだけど。
◇
「朔也ー!」
四月のある日。
講義を終えて大学の正門へ向かっていると、聞き慣れた声がした。
振り返ると、莉子が小走りで近づいてくる。
淡い水色のブラウスに、白いカーディガン。肩にかかるダークブラウンの髪は、生まれつきの天然パーマで、春風にふわふわと揺れている。俺を見つけた途端、ぱっと笑顔になった。
「お疲れさま!」
「……お疲れ。講義終わった?」
「うん! 今日は早く終わったの!」
莉子は俺の隣に並ぶと、嬉しそうに笑った。
「ねえ、朔也! 今日、一緒に帰れる?」
「うん。もう終わりだから」
「やったあ!」
……本当に、困る。
一緒に帰れるだけで、そんなに喜ぶなよ。
こっちまで嬉しくなるだろ。
「今日ね、大学で新しい友達ができたんだ!」
「そっか。よかったな」
「うん! 美月っていう子なんだけど、すっごくおしゃれで、話してて楽しいの!」
莉子は楽しそうに話し始めた。
入学して間もない大学で、すでに友達ができたらしい。まあ、莉子ならそうだろうと思った。昔から誰に対しても気さくで、困っている人がいれば自然に声をかける。
俺とは正反対だ。
「それでね、今度一緒に服を見に行くことになったの!」
「へえ」
「可愛いお店をいっぱい知ってるんだって!」
莉子が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ながら、俺はふと思った。
大学に入れば、莉子の世界はもっと広がる。
新しい友達もできるし、知らない場所へ出かけることも増えるだろう。
当然、男と知り合う機会も増える。
……考えたくない。
「……朔也?」
「ん?」
「どうしたの? 急に黙っちゃって」
「いや、別に」
そう答えると、莉子は不思議そうに首を傾げた。
昔から変わらない仕草だった。
「……今日、寒くない?」
「えっ? 大丈夫だよ!」
「そっか」
「朔也は?」
「平気」
何でもない会話。
それでも、こうして隣を歩ける時間が、俺には何より大切だった。
莉子にとっては、昔から当たり前のことなんだろうけど。
◇
「なあ、柊」
数日後。
大学のカフェテリアで昼食を取っていると、向かいに座っていた航平が突然、声をかけてきた。
「……何」
「この前、一緒にいた女の子ってさ」
「……誰のこと?」
「ほら、正門のところでお前に手振ってた子」
嫌な予感がした。
「……莉子?」
「そうそう! 莉子ちゃん!」
航平がにやりと笑う。
「相変わらず仲いいな、お前ら」
「幼馴染だから」
「はいはい、出た。便利な言葉、幼馴染」
俺は黙ってコーヒーを飲んだ。
航平とは高校時代からの付き合いだ。俺が莉子を好きだということも、ずっと前から知られている。ことあるごとにからかってくるけれど、余計なところで口が堅いのは助かっていた。
「で? 大学生になったんだろ、莉子ちゃん」
「……うん」
「どうよ。そろそろ告白する気になった?」
「……何でそうなる」
「何でって、お前、何年片思いしてんだよ」
俺は返事をしなかった。
航平は大げさにため息をつく。
「中学からだろ? もう十分待ったじゃん」
「……わかってる」
「本当にわかってる?」
「うるさい」
航平は楽しそうに笑った。
「でもさ、大学って出会い多いぞ?」
「……知ってる」
「サークルとか、ゼミとか、バイトとか。可愛い子なら、そりゃ声かけられるだろうし」
「…………」
「お、眉間にしわ寄ってる」
「……寄ってない」
「いや、めっちゃ寄ってるって!」
俺はコーヒーカップを置いた。
そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっている。
莉子が可愛いことなんて、誰よりも知っているつもりだ。
本人は自分の外見に自信がない。
昔から体型のことで悩むことがあったし、中学生になってからは服選びにも慎重になった。周囲の視線を気にして、気に入った服を諦めることもある。
だけど、俺が好きなのは、莉子の見た目だけじゃない。
小学生の頃、競走に勝って得意げに笑っていた莉子。
中学生の頃、忘れ物をした俺にノートを届けてくれた莉子。
高校生になって、学校が別々になっても、何でもない出来事を嬉しそうに話してくれた莉子。
全部、好きだった。
……まあ、本人に言えたことは一度もないけど。
「……なあ、朔也」
航平が急に真面目な顔になった。
「お前さ、そろそろ本当に動かないと、後悔するぞ」
「……わかってるって」
「ならいいけど」
航平はストローをくわえながら、楽しそうに付け加えた。
「まあ、俺は莉子ちゃんがほかの男と付き合い始めても、慰めてやるから」
「……縁起でもないこと言うな」
「うわ、こわ!」
航平が笑う。
俺は思わずため息をついた。
……まったく。
人の気も知らないで。
◇
事件が起きたのは、それから数日後だった。
午後の講義が終わり、俺は航平と一緒にカフェテリアへ向かっていた。
途中、同じ講義を取っている男子学生が声をかけてきた。
「なあ、柊」
「ん?」
「この前、お前と一緒にいた女の子って誰?」
足が止まった。
航平が隣で、ぴくりと反応したのがわかった。
「……どの子?」
「ほら、正門のところで手振ってた、小柄な子。髪が茶色っぽい」
……莉子だ。
「幼馴染だけど」
「へえ! やっぱそうなんだ!」
男子学生は嬉しそうに笑った。
「莉子ちゃん、可愛いよね」
……ん?
今、何て言った?
「俺、めちゃタイプなんだけど」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
隣で航平が口元を押さえている。
……笑うな。
「なあ、今度紹介してよ」
男子学生が、何でもないことのように言った。
俺は思わず相手を見た。
「……は?」
「いや、だから。莉子ちゃん紹介してほしいんだけど」
「…………」
紹介。
俺が、莉子を。
ほかの男に。
……冗談じゃない。
「……何で俺が」
「だって幼馴染なんだろ? 仲いいなら頼みやすいじゃん」
「…………」
「彼氏とかいるのかな? いなかったら、今度一緒にごはんでも――」
「馴れ馴れしく名前呼ぶな。紹介するわけないだろ」
気づけば、そう言っていた。
相手が目を丸くする。
「……えっ?」
「紹介しないって言ってる」
「いや、そんな怒らなくても……」
俺は小さく息を吐いた。
……まずい。
つい、感情が出た。
「……悪い。でも、本人の気持ちも聞かずに、勝手に紹介するつもりはないから」
できるだけ落ち着いた声で言い直す。
相手は少し困ったように笑った。
「そっか。まあ、無理ならいいけど」
「……うん」
「ごめんな、変なこと頼んで」
男子学生は軽く手を上げ、その場を離れていった。
俺はしばらく黙っていた。
すると。
「……っ、ははっ!」
隣から、笑い声が聞こえてきた。
「……航平」
「いや、ごめん! 無理! 今のは無理!」
航平が腹を抱えて笑っている。
「お前、顔怖すぎ!」
「……うるさい」
「『馴れ馴れしく名前呼ぶな』って! お前、保護者かよ!」
「……黙れ」
「しかも、即答! 紹介するわけないだろって!」
……本当に、うるさい。
俺は航平を置いて歩き出した。
「ちょ、待てって!」
航平が慌てて追いかけてくる。
「悪かった! いや、でもさ!」
俺の隣に並ぶと、にやにや笑いながら言った。
「お前、もう完全に彼氏の反応じゃん」
「……違う」
「違わないって」
「……彼氏じゃないし」
そう言った途端、自分で少し嫌になった。
そうだ。
俺は莉子の彼氏じゃない。
ただの幼馴染だ。
どれだけ好きでも、どれだけ一緒に過ごしてきても。
莉子が誰と付き合うかは、莉子が決めることだ。
それを、俺が勝手に決める権利なんてない。
……そんなこと、わかってる。
わかっているから、余計に苦しかった。
◇
「……なあ、朔也」
カフェテリアの席に着くと、航平が珍しく真面目な声で言った。
「さっきのやつ、別に悪いやつじゃないぞ」
「……知ってる」
「ただ、可愛い子を紹介してほしかっただけだろうし」
「……うん」
俺は紙コップのコーヒーを見つめた。
頭では理解している。
あいつは何も悪くない。
好きなタイプの女の子がいて、たまたま知り合いだった俺に紹介を頼んだ。
それだけの話だ。
なのに、あんなふうに言ってしまった。
「……悪かったとは思ってる」
「まあ、ちょっと怖かったな」
航平が笑った。
「でも、俺は少し安心したわ」
「……何が」
「お前、ちゃんと嫉妬するんだなって」
「……は?」
航平は真剣な顔で頷いた。
「いや、高校のときからずっと見てるけどさ。お前、莉子ちゃんのことになると無駄に我慢するじゃん」
「…………」
「好きなのに、好きって言わない。嫉妬しても、平気なふりする。そりゃしんどいだろ」
俺は何も答えなかった。
航平の言うとおりだった。
莉子が誰かに褒められた話をすると、嬉しそうな顔を見られて幸せな反面、相手が男だと妙に落ち着かなくなる。
別々の高校に通っていた頃は、知らない男子の名前が出るたびに気になっていた。
大学生になった今も、同じだ。
……いや、むしろ悪化している。
「……俺さ」
気づけば、口を開いていた。
「莉子が誰と仲よくするかは、莉子が決めることだって思ってる」
「うん」
「だから、勝手に制限したくないし、嫌な思いもさせたくない」
航平が静かに聞いていた。
「……でも、ほかの男に取られるのは嫌なんだよ」
言ってから、自分でも驚いた。
こんなにはっきり口にしたのは、初めてだったかもしれない。
航平は少し目を丸くしたあと、にやりと笑った。
「……やっと言ったな」
「……何が」
「本音」
俺は目を逸らした。
「……うるさい」
「で? どうすんの?」
「……どうするって」
「告白するんだろ?」
俺は黙った。
航平はため息をついた。
「お前さ、莉子ちゃんがほかの男と付き合い始めてからじゃ遅いぞ」
「……わかってる」
「じゃあ、今度こそ動けよ」
航平は笑いながら、俺の肩を叩いた。
「高校のときも言ったけどさ。うかうかしてると、本当に取られるぞ」
「……二回も言わなくていい」
「何回でも言ってやるよ!」
俺は思わず笑ってしまった。
……まったく。
こいつには敵わない。
◇
その日の夕方。
大学の正門前で莉子を待っていると、少しして見慣れた姿が現れた。
「朔也ー!」
莉子が俺を見つけて、ぱっと笑顔になった。
小走りで近づいてくる姿は、小学生の頃とあまり変わらない。
「お待たせ!」
「……うん。講義終わった?」
「終わったよ! 今日は課題も少なかったの!」
莉子は嬉しそうに笑った。
「ねえ、朔也! 今日、時間ある?」
「……あるけど」
「じゃあ、一緒にごはん食べない?」
俺は思わず莉子を見た。
「……いいの?」
「えっ? もちろん!」
莉子が不思議そうに首を傾げる。
「だって、朔也と食べたいんだもん!」
……ああ。
本当に、こいつは。
何でもない顔で、そういうことを言う。
「……じゃあ、行こうか」
「うん!」
莉子は嬉しそうに笑い、俺の隣に並んだ。
夕方のキャンパスを抜け、駅へ向かって歩き出す。
途中、莉子が楽しそうに話しかけてきた。
「今日ね、講義でちょっと難しいところがあって」
「……うん」
「でも、友達と一緒に考えたら、ちゃんとわかったんだ!」
「よかったな」
「うん! 大学って、思ってたより大変だけど楽しいね!」
俺は隣を歩く莉子を見た。
明るくて、優しくて、少し天然で。
昔から変わらないところもあれば、少しずつ大人になっていくところもある。
小学生の頃、一緒に走った校庭。
中学生の頃、好きだと気づいた放課後。
別々の高校に通いながら、たまに会える日を楽しみにしていた時間。
全部、今の俺につながっている。
……もう、幼馴染という言葉だけに甘えていられない。
「……莉子」
「なぁに?」
彼女が俺を見上げた。
その瞳が、まっすぐ俺を見つめている。
心臓が、少しだけ速くなった。
「……今度さ」
「うん?」
「休みの日、どこか行かない?」
「えっ? お出かけ?」
莉子が嬉しそうに目を輝かせた。
「うん。二人で」
「いいよ! どこ行く?」
「……莉子の行きたいところでいいよ」
「えー! 朔也も行きたいところ考えてよ!」
俺は少し笑った。
「……じゃあ、一緒に決めようか」
「うん!」
莉子が満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見て、俺は思った。
もう、逃げたくない。
好きなまま、何も言えずに終わるのは嫌だ。
莉子が俺をどう思っているのかは、まだわからない。
幼馴染としてしか見ていないのかもしれない。
それでも。
俺は、一度くらいちゃんと伝えたい。
ずっと好きだったこと。
今も、誰よりも大切に思っていること。
そして、できることなら。
幼馴染じゃなく、恋人になりたいこと。
「……朔也?」
「ん?」
「なんか、今日ちょっと嬉しそうだね」
「……そう?」
「うん!」
莉子が笑った。
「私も嬉しい! 朔也とお出かけできるんだもん!」
俺は思わず目を逸らした。
……本当に。
こんなことを言われて、好きにならないほうが無理だろ。
俺は小さく息を吐き、もう一度莉子を見た。
「……莉子」
「なぁに?」
「楽しみにしてる」
「えへへ。私も!」
夕暮れの道を、二人で並んで歩く。
今はまだ、幼馴染。
だけど、いつか。
この関係を、俺の手で少しだけ変えたい。
莉子の笑顔を、誰よりも近くで見ていたい。
手を繋ぐことも、抱きしめることも。
幼馴染だからじゃなく、恋人としてできるようになりたい。
そんな未来を想像して、俺は思わず笑った。
……よし。
今度こそ、ちゃんと伝えよう。
俺はずっと、莉子が好きだった。
そして、今も。
誰よりも、好きだ。
――幼馴染のままで終わるつもりは、もうない。




