最終話 好きな私で、君の隣に
「莉子、ちょっと待って!」
「えっ? どうしたの、美月?」
十二月下旬。クリスマスまであと数日という朝、私は大学の正門前で美月に呼び止められた。
振り返ると、美月が私を上から下まで眺めて、にやりと笑っている。アッシュブラウンの髪を揺らしながら近づいてくるその表情は、何か面白いものを見つけたときのものだ。
「今日の莉子、すっごく可愛いじゃない!」
「えへへ。ありがとう!」
私は嬉しくなって、その場でくるりと回ってみせた。
今日着ているのは、先日買ったばかりの淡いピンク色のニットワンピース。上には白いショートコートを羽織り、足元はブラウンのショートブーツで合わせている。ふんわりした色合いが気に入って、試着したときからずっと着るのを楽しみにしていた。
実は、このワンピースを買うとき、少しだけ迷った。
身体のラインが出やすいデザインだから、以前の私だったら試着する前に諦めていたかもしれない。でも、鏡に映った自分を見たとき、素直に可愛いと思えたのだ。胸元がきつくないか、動きにくくないかも確かめて、それでもやっぱり着たいと思った。そして今朝、鏡の前で思いきって声に出してみた。
『……うん。今日も可愛い!』
自分で言うのは、ちょっと照れくさかったけれど。
もちろん、今でも服選びに迷うことはあるし、知らない人の視線が気になる日だってある。だけど、だからといって、好きな服を全部諦める必要はない。少しずつ、そう思えるようになってきた。
「このワンピース、前に一緒に見たやつよね?」
「うん! やっぱり可愛くて、買っちゃった!」
「いいじゃない。すごく似合ってる」
「ありがとう、美月!」
私が笑うと、美月も嬉しそうに目を細めた。
「最近の莉子、なんか変わったわよね」
「えっ? そうかな?」
「うん。前より楽しそう。特に服選んでるとき」
私は少し考えてから頷いた。
「……そうかも」
前は、似合うかどうかよりも、目立たないかどうかを考えていた。でも今は、着たいと思ったものを選べる日が増えた。
それはきっと、朔也のおかげでもある。だけど、最後に選んだのは私自身だ。
そう思うと、なんだか嬉しかった。
「ま、柊先輩が見たら、今日も大変そうだけど」
「えっ? 何が?」
「……ほんと、莉子ってば」
美月は呆れたように笑った。
どういう意味だろう?
首を傾げていると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。
「おーい! そこの幸せそうな女子二人!」
「あっ、航平くん!」
三浦航平くんが、片手を上げて駆け寄ってきた。その後ろには、朔也もいる。
「おはよう、莉子ちゃん! 高梨ちゃん!」
「おはよう、航平くん!」
「おはようございます、三浦先輩」
「朝から元気だな、二人とも!」
航平くんは勢いよく拳を握った。
「そりゃ俺だって元気出すしかないだろ! もうすぐクリスマスなんだから!」
「そういえば、彼女探しはどうなったんですか?」
「高梨ちゃん、それを聞くか!? 今年こそ彼女ができるはずだったのに!」
「……もう過去形なんですね」
「そこは察してくれ!」
私は思わず笑ってしまった。
どうやら航平くんの彼女探しは、今年も難航しているらしい。
「でも航平くん、クリスマスはまだこれからだよ?」
「莉子ちゃん……! やっぱり君は優しい!」
「期待させないほうがいいと思うけど」
朔也が静かに言うと、航平くんが大げさに肩を落とした。
「柊! お前には俺の気持ちなんかわからないんだ!」
「……まあ、彼女いるからね」
「うわああ! 言った! こいつ、言いやがった!」
美月が吹き出し、私も笑いをこらえきれなくなった。
そんな私の隣に、朔也が自然に並ぶ。
「おはよう、莉子」
「おはよう、朔也!」
朔也は私の顔を見て、それからワンピースに視線を落とした。
「……今日、いつもと雰囲気違うね」
「うん! 新しい服なの!」
「そっか。似合ってる」
「ほんと?」
「うん。色もいいね」
その言葉に、私は思わず笑顔になった。
「ありがとう!」
「莉子が気に入ってるの、顔見ればわかる」
「えへへ。だって、すごくお気に入りなんだもん!」
朔也は小さく笑った。
その隣で、航平くんが深いため息をつく。
「……なあ、高梨ちゃん」
「何ですか?」
「俺たち、ここにいる必要ある?」
「ないかもしれませんね」
「ひどくない!?」
いつもどおりの賑やかな朝。
私は三人と笑い合いながら、講義棟へ向かった。
◇
昼休み。
私と美月はカフェテリアで、温かいカフェオレを飲んでいた。窓の外には冬の青空が広がり、キャンパスのあちこちにクリスマスの飾りが見える。テーブルの上には、午後の講義で使う資料が置かれていたけれど、今はすっかりおしゃべりの時間になっていた。
「で? クリスマスデートはどうなったの?」
美月が楽しそうに尋ねてきた。
「えっとね、イルミネーションを見に行くことになったよ!」
「いいじゃない!」
「うん! それで、帰りにケーキを買って、朔也の部屋で食べる予定なの」
「ふふっ。楽しそう」
私は頷いて、カフェオレを一口飲んだ。
「美月は? クリスマス、何するの?」
「私は友達と映画。あとは家でのんびりかな」
「そっか!」
「三浦先輩は、また騒いでそうだけどね」
「ふふっ。想像できちゃう」
そう言い合っていると、カフェテリアの入り口に見覚えのある姿が見えた。
「あっ、有坂くん」
私が声をかけると、有坂くんがこちらを向いた。
「桃瀬さん。高梨さんも、こんにちは」
「こんにちは!」
「お疲れさま、有坂くん」
有坂くんは以前と変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
あの日、中庭で告白されたあと、しばらくは講義でも必要なこと以外、あまり話さなくなっていた。私も、どう接したらいいのか迷うことがあった。でも、最近は顔を合わせれば普通に挨拶するようになっている。
「この前のレポート、提出できた?」
「うん! 有坂くんは?」
「僕も無事に。ちょっと大変だったけどね」
「わかる! 資料、多かったもんね」
私たちは顔を見合わせて笑った。
すると、有坂くんが少しだけ真面目な顔になった。
「……桃瀬さん」
「うん?」
「前に話したことなんだけど」
私は静かに彼を見た。
美月も何かを察したのか、そっとカップを置いた。
有坂くんは少し言葉を選んでから、穏やかに続けた。
「あれから自分なりに考えて、少しずつ気持ちの整理がついてきたよ」
「……そっか」
「まだ完全に何とも思わなくなったわけじゃないけど、ちゃんと前を向こうと思ってる」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「……うん」
「だから、気を遣いすぎないでね。これからも、同じ大学の友達としてよろしく」
「もちろん!」
私が笑顔で答えると、有坂くんもほっとしたように微笑んだ。
「それと……柊先輩と、幸せにね」
「……ありがとう、有坂くん」
私はまっすぐに彼を見て答えた。
有坂くんは小さく頷き、手を振ってその場を離れていった。
その背中を見送りながら、私は静かに息を吐いた。
好きだと言ってくれた気持ちに、応えることはできなかった。でも、あの日、ちゃんと自分の気持ちを伝えてよかったと思う。有坂くんも、自分の気持ちを大切にしながら、少しずつ前に進もうとしている。私も必要以上に気を遣うのではなく、自然に接していけたらいいな。
「……よかったね、莉子」
美月が優しく声をかけてくれた。
「うん」
「有坂くんも、ちゃんと前を向こうとしてるんだね」
「……うん。私も、そう思う」
私は窓の外を見た。
冬の陽射しが、キャンパスを柔らかく照らしている。
誰かを好きになる気持ちって、きっと大切なものなんだ。その恋が叶っても、叶わなくても。
だからこそ、有坂くんが真剣に伝えてくれた気持ちも、忘れずにいたいと思う。
そしていつか、彼にも心から笑い合える相手が見つかったらいいな。
私はそっと、そう願った。
◇
「……あ、いい匂い!」
夕方、朔也の部屋を訪ねると、玄関までコーヒーの香りが漂ってきた。
「いらっしゃい、莉子」
「お邪魔しまーす!」
今日は講義が終わったあと、朔也の部屋でゆっくり過ごす約束をしていた。
先週は課題とアルバイトで忙しかった朔也だけれど、ようやく一段落したらしい。私がこの前夕食を作った日のことも、何度か話題にしてくれた。膝枕が思った以上に気持ちよかったらしく、またお願いしたいと言われている。
玄関で靴を脱ぎながら、私は尋ねた。
「朔也、もうコーヒー淹れてたの?」
「ううん。ちょうど豆を挽こうと思ってたところ」
「あっ、じゃあ私もやりたい!」
朔也が少し驚いたように振り返った。
「莉子が?」
「うん! いつも朔也が淹れてくれるから、今日は一緒にやってみたいの」
そう言うと、朔也は嬉しそうに笑った。
「いいよ。じゃあ、こっちおいで」
私はコートを脱ぎ、手を洗ってからキッチンへ向かった。
カウンターには、いつもの手挽きのコーヒーミルと、豆の入った小さな容器が置かれている。何度も見てきた道具なのに、自分で使うとなるとなんだか新鮮だった。
「まずは、これくらい豆を入れて」
「うん!」
「それで、ゆっくり回してみて」
朔也に教えてもらいながら、私はミルのハンドルを握った。
からから、からから。
思っていたよりも少し力がいる。
「わっ、結構大変!」
「最初はそうかも」
「朔也、いつもこれやってくれてるんだね」
「好きでやってるからね」
朔也は私の隣に立ち、ミルが動かないように支えてくれた。
私がハンドルを回すたびに、香ばしい匂いがふわりと広がっていく。豆が砕ける感触が手に伝わってきて、少しずつ回しやすくなっていくのも面白い。
「……いい匂い!」
「挽きたてだからね」
「なんか、楽しい!」
私は夢中になってハンドルを回した。
全部挽き終わる頃には、ちょっとだけ腕が疲れていたけれど、それ以上に達成感があった。
「できた!」
「うん。上手」
「えへへ!」
今度は朔也がドリッパーを準備してくれた。
私は隣で、お湯を注ぐ様子をじっと見つめる。
「最初は少しだけお湯を入れて、蒸らすんだ」
「へえ……!」
「それから、ゆっくり円を描くように注ぐ」
ふわりと膨らむコーヒーの粉を見て、私は思わず声を上げた。
「わあ! すごい!」
朔也がくすっと笑う。
「そんなに面白い?」
「うん! だって、いつも飲んでるカフェラテが、こうやってできるんだもん!」
朔也は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、今度は莉子が淹れてみる?」
「えっ、いいの?」
「もちろん。今日も豆、上手に挽けたし」
「やったあ!」
私は嬉しくなって、朔也を見上げた。
「じゃあ、練習して、いつか朔也にコーヒー淹れてあげるね!」
「楽しみにしてる」
そう言って笑う朔也の顔が、とても優しかった。
◇
出来上がったカフェラテを持って、私たちはソファに並んで座った。
朔也はいつものブラックコーヒー。私はミルクたっぷりのカフェラテ。窓の外では、少しずつ夕日が傾き始めている。
「……おいしい!」
ひと口飲んで、私は思わず笑顔になった。
「自分で豆を挽いたから、いつもよりおいしく感じるかも!」
「それはよかった」
朔也もコーヒーを飲みながら、穏やかに微笑んだ。
私はマグカップをテーブルに置くと、少しだけ身体を彼のほうへ向けた。
「ねえ、朔也」
「ん?」
「クリスマス、楽しみだね!」
「うん。イルミネーション、見に行こうね」
「あと、ケーキ!」
「莉子、ケーキが一番楽しみなんじゃない?」
「ち、違うもん!」
私が慌てて答えると、朔也は楽しそうに笑った。
「冗談」
「もう!」
私は頬を膨らませた。
すると、朔也がそっと手を差し出した。
「……莉子、こっちおいで」
「もう隣にいるよ?」
「もう少し近く」
「ふふっ。甘えん坊だね、朔也」
そう言うと、朔也は少しだけ目を細めた。
「……莉子にだけね」
その言葉に、胸がきゅっと温かくなる。
私は笑いながら彼の肩に寄りかかった。朔也が私の手を取り、指を絡めてくれる。こうして寄り添っていると、いつも安心する。
私はふと、彼の横顔を見上げた。
「……朔也」
「ん?」
「今日のワンピース、どう?」
「朝も言ったけど、似合ってるよ」
「えへへ。実はね、買うときちょっと迷ったんだ」
朔也は私のほうを向いた。
「そうなの?」
「うん。でも、鏡を見たら可愛いなって思って。だから、買っちゃった!」
私が笑うと、朔也も柔らかく微笑んだ。
「そっか。よかったね」
「うん!」
その返事が嬉しかった。
私は膝の上で、ワンピースの裾をそっと整えた。淡いピンク色の柔らかな生地が、指先に触れる。
「……ねえ、朔也。私、前より自分のことが好きになれた気がするの」
「うん」
「まだ苦手なこともあるし、知らない人にじろじろ見られるのは嫌だけど……今日は、この服が着たかったんだ」
「そっか」
「朔也に可愛いって言ってもらえたのも嬉しい。でもね、一番嬉しかったのは、自分で可愛いって思えたことなの」
言葉にすると、少し照れくさかった。
朔也は急かすこともなく、私の話を聞いてくれていた。そして、繋いだ手を優しく握り直してくれる。
「……いいね」
「ほんと?」
「うん。莉子が自分で選んで、楽しそうにしてるの、俺も嬉しいよ」
その言葉に、私はにっこり笑った。
「ありがとう、朔也!」
小さい頃から、朔也はずっと私のそばにいてくれた。落ち込んだときも、うまく笑えないときも、変わらずに接してくれた。
その優しさに、何度も助けられてきたと思う。
でも、今日のワンピースを選んだのは私だ。
美月と買い物をして、試着して、迷って、それでも着たいと思った。
あのときの小さな決心を、今はちょっと誇らしく思う。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「私、これからも自分の好きなものをいっぱい見つけたい!」
「うん」
「それで、朔也といろんなところに行って、いろんなことをしたい!」
「いいね」
「あとね、朔也のことも、もっといっぱい甘やかしたい!」
そう言うと、朔也がくすっと笑った。
「この前の膝枕、またお願いしていい?」
「もちろん!」
「じゃあ、今度はコーヒーも莉子に淹れてもらおうかな」
「ま、任せて! 練習するから!」
私が胸を張ると、朔也は楽しそうに目を細めた。
「楽しみにしてる」
私は嬉しくなって、彼の肩にもう一度頭を寄せた。
窓の外では、夕日が街をオレンジ色に染めている。朔也の手は相変わらず温かくて、淹れたてのコーヒーの香りがまだ部屋に残っていた。
私はそっと目を閉じた。
こんな穏やかな時間が、今はとても好きだ。
◇
帰る時間が近づいた頃、朔也がカレンダーを見ながら言った。
「……そういえば、冬休みはどうする?」
「冬休み?」
「うん。初詣とか、行きたいところある?」
「あっ、行きたい!」
私は勢いよく頷いた。
「初詣も行きたいし、映画も見たいし……あとは、みんなでまた集まりたいな!」
「航平たちと?」
「うん! 美月とも遊びたい!」
「いいね。航平も暇そうだし」
「ふふっ。航平くん、怒っちゃうよ?」
朔也が小さく笑う。
私はスマートフォンを取り出し、カレンダーを開いた。冬休みには、やりたいことがたくさんある。初詣に映画、それから美月たちとの集まり。考えているだけで、予定を埋めるのが楽しみになってくる。
「じゃあ、冬休みの予定、いっぱい考えよう!」
「うん」
「でも、二人で過ごす日もちゃんと作ろうね?」
そう言うと、朔也が少し驚いたように私を見た。
「……莉子から言ってくれるんだ」
「えへへ。だって、朔也とデートしたいもん!」
朔也は私の手を取ると、指を絡めた。
「……俺も」
その優しい声を聞いて、私は自然と笑顔になった。
大好きな人と、これからの予定を考える。そんな何気ないことが、こんなに楽しいなんて。きっと、去年の私には想像もできなかった。
「……ねえ、朔也」
「なぁに?」
「私、今すっごく幸せだよ」
朔也が私を見つめた。
「うん」
「朔也は?」
少しだけ意地悪な気持ちで尋ねてみる。
すると、朔也は迷わず答えた。
「……俺も、幸せ」
私は嬉しくなって、繋いだ手をぎゅっと握った。
思えば、ここまでいろんなことがあった。
自分の身体が嫌いで、鏡を見るのも憂鬱だった日。可愛い服を見つけても、似合わないかもしれないと諦めていた頃。
そんな私が今は、お気に入りのワンピースを着て、好きな人の隣で笑っている。
もちろん、これからも悩む日はあると思う。
でも、そんな日があっても、自分を嫌いになる必要はない。
私は私のままで、楽しく毎日を過ごしていきたい。
「……朔也!」
「ん?」
「大好き!」
朔也は一瞬だけ目を丸くして、それから柔らかく微笑んだ。
「……知ってる」
「えへへ!」
「でも、何回でも聞きたい」
「じゃあ、何回でも言うね!」
私は笑顔で答えた。
朔也が私の手をそっと持ち上げ、指先に軽く口づけた。
「……それなら、俺も負けないよ」
「えっ?」
「莉子のこと、これからもたくさん好きって言うから」
「もう! それじゃあ、また私が照れちゃうよ!」
朔也が楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、私もつられて笑ってしまう。
幼馴染だった頃には、こんなふうに甘い言葉を交わす日が来るなんて思っていなかった。でも、今では朔也の知らなかった表情を見つけるたびに、もっと好きになってしまう。
甘やかされるのも、大好き。
でも、甘やかすのも、同じくらい大好きだ。
「これからも、ずーっとよろしくね! 朔也!」
私は繋いだ手を握り直して、笑いかけた。
朔也は私を見つめ、優しく笑った。
「……こちらこそ。ずっとよろしく、莉子」
窓の外では、冬の一番星が輝き始めていた。
もうすぐ、大好きな人の隣で迎える初めてのクリスマス。イルミネーションを見て、ケーキを食べて、きっとまた、朔也にたくさん甘やかされるんだと思う。
でも、今度は私だって負けない。
だって、朔也のことが大好きなんだもん!
私はお気に入りのワンピースの裾を揺らしながら、彼の隣で笑った。
そんな今の私が、結構好きだ。




