第17話 今日は、私が甘やかす番!
「……美月、相談があるんだけど」
「ん? どうしたの?」
昼休みの大学のカフェテリアで、私は向かいに座る美月に声をかけた。
十二月に入ってから、大学は少しずつ慌ただしくなってきた。年内に提出しなければならない課題も増え、図書館や自習スペースにはパソコンを広げる学生が目立つようになっている。私もレポートに追われているけれど、最近はそれ以上に気になっていることがあった。
「朔也ね、このところ忙しそうなの」
「柊先輩?」
「うん。課題もいっぱいあるみたいだし、アルバイトもシフトが増えたんだって」
私はスマートフォンを取り出し、朔也とのメッセージ画面を開いた。
普段なら、私が送った何気ない話にもちゃんと返事をくれる朔也。でも、ここ数日は『うん』『了解』『おやすみ』みたいな短い返事が多くなっていた。もちろん、冷たくなったわけじゃない。昨日だって、帰り道に電話をしたら、いつもどおり優しく話してくれた。
ただ、少しだけ声が疲れていた気がする。
「……朔也、無理してないかなって」
「なるほどねえ」
美月はストローでアイスティーを一口飲むと、にやりと笑った。
「じゃあ、ちょうどいいじゃない」
「えっ?」
「この前、莉子が言ってたでしょ。今度は自分が柊先輩を甘やかしたいって」
「あっ!」
そうだった!
鍋パーティーの帰り道、私は朔也に宣言したのだ。
『私だって、朔也を甘やかしたいもん!』
あのとき、朔也は嬉しそうに笑ってくれた。でも、具体的に何をするかは、まだ決めていなかった。
「たまには莉子が、柊先輩を思いきり甘やかしたら?」
「……思いきり?」
「そう。ごはん作ってあげたり、疲れてるならゆっくり休ませてあげたり。いつもしてもらってることを、今度は莉子がするの」
「なるほど……!」
私は思わず身を乗り出した。
「でも、朔也って何をしたら喜ぶかな?」
「それ、私より莉子のほうが知ってるでしょ」
「うっ……そうなんだけど」
朔也は昔から、あまり自分の希望を口にしない。何が食べたいか聞いても『莉子の好きなのでいいよ』と言うし、行きたい場所を尋ねても、まず私の希望を聞いてくれる。優しいところが大好きだけれど、今日くらいは朔也自身に喜んでほしい。
考え込んでいると、美月が楽しそうに笑った。
「難しく考えなくていいのよ。好きな子が自分のために何かしてくれたら、それだけで嬉しいと思うけど?」
「……そっか」
「それに、柊先輩って莉子に甘えるの、意外と好きそう」
「ええっ!? 朔也が!?」
「だって、あの人、莉子の前だと全然違うじゃない」
そう言われて、思い返してみる。
確かに、二人きりのときの朔也は、いつもよりずっと甘い。もう少し一緒にいたいと引き止めてくれたり、私が抱きつくと嬉しそうに笑ったりする。
でも、甘える朔也?
……ちょっと見てみたいかもしれない。
「よし! 私、頑張ってみる!」
「ふふっ。頑張ってね」
美月は笑顔で応援してくれた。
◇
『今日、課題終わったら朔也の部屋に行ってもいい?』
午後の講義が終わってからメッセージを送ると、少しして返事が届いた。
『いいよ。今日はバイトもないし』
『やった! じゃあ、夕方行くね!』
『了解。何か食べたいものある?』
そのメッセージを見て、私は思わず笑ってしまった。
やっぱり、朔也はいつも私のことを優先してくれる。忙しい日でも、私が遊びに行くとなれば、何か用意しようとしてくれるのだ。
でも、今日は違う。
『今日は私がごはん作るから、何もしないで待ってて!』
そう送ると、今度はすぐに既読がついた。
『莉子が?』
『うん! 今日は私に任せて!』
『わかった。楽しみにしてる』
最後の一文を見て、私は嬉しくなった。
よーし!
今日は絶対、朔也をいっぱい甘やかすんだから!
◇
「お邪魔しまーす!」
「いらっしゃい、莉子」
夕方、朔也の部屋を訪ねると、見慣れた黒髪の彼が玄関で迎えてくれた。
でも、今日は少しだけ様子が違う。目元に疲れが見えるし、いつもより声にも元気がない気がした。大学の課題にアルバイトまで重なっていたんだから、無理もない。
「朔也、お疲れさま!」
「うん。莉子もお疲れ」
「はい、これ!」
私は持ってきた買い物袋を持ち上げた。
中には夕食の材料と、朔也の好きなチョコレート。それから、コンビニで見つけた小さなプリンも二つ入っている。帰りにスーパーへ寄ったとき、せっかくだからデザートも用意しようと思ったのだ。
「……すごい荷物だね」
「今日は私が全部やるから!」
「全部?」
「そう! 朔也は座ってて!」
私が胸を張ると、朔也は少し驚いたように笑った。
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「うん!」
私は早速キッチンに立った。
今日作るのは、鶏肉ときのこのクリーム煮。それから、温かい野菜スープだ。難しい料理はまだ自信がないけれど、これなら家でも何度か作ったことがある。朔也の好きなきのこもたっぷり入れたし、きっと喜んでくれるはず。
私は袖をまくって、包丁を握った。
「莉子、手伝おうか?」
背後から声がして振り返ると、朔也がキッチンを覗いていた。
「だーめ!」
「……だめ?」
「今日は朔也を甘やかす日なの! だから、ソファで休んでて!」
そう言うと、朔也は一瞬きょとんとした。それから、何か思い出したように笑う。
「……ああ、この前の」
「そう! 約束したでしょ?」
「うん。覚えてる」
朔也は少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、お願いしようかな」
「任せて!」
私は彼をソファへ送り出すと、調理を再開した。
フライパンで鶏肉を焼き、玉ねぎときのこを炒める。小麦粉を少し加えてから牛乳を注ぐと、とろりとした白いソースができあがった。隣の鍋では、にんじんとキャベツのスープがことこと煮えている。
キッチンいっぱいに広がる香りに、自然と笑みがこぼれた。
……ちゃんとおいしくできるといいな。
途中、ソースが少し煮詰まりすぎて慌てたけれど、牛乳を足したらちょうどよくなった。最後に塩こしょうで味を整え、お皿に盛りつける。
「……できた!」
私はリビングに顔を出した。
「朔也、ごはんできたよ!」
ソファに座っていた朔也が顔を上げる。膝の上には、閉じたノートパソコンが置かれていた。
「いい匂い」
「えへへ。頑張ったんだよ!」
「ありがとう、莉子」
朔也は立ち上がると、私が運んだお皿を見て微笑んだ。
「おいしそう」
そのひと言だけで、頑張ってよかったと思えた。
◇
「……うまい」
「ほ、本当!?」
ひと口食べた朔也が、静かに頷いた。
「うん。すごくおいしい」
「やったあ!」
私は思わず両手を握った。
朔也は普段から料理が上手だから、少し緊張していたのだ。でも、こうしておいしそうに食べてくれる姿を見ると、胸がぽかぽか温かくなる。何度も味見をした甲斐があった。
「きのこ、多めに入れてくれたんだね」
「うん! 朔也、好きでしょ?」
「覚えててくれたんだ」
「もちろん!」
朔也は柔らかく笑って、もうひと口食べた。
いつもは向かい側から私の様子を見ていることが多い朔也。でも、今日は私が彼の様子を気にしている。ちゃんと食べてくれているかな。おいしいと思ってくれているかな。疲れは少し取れたかな。
そんなことばかり考えていたら、朔也が箸を止めた。
「……莉子」
「なぁに?」
「そんなに見られると、ちょっと緊張する」
「えっ!?」
朔也が困ったように笑った。
「俺の顔、何かついてる?」
「ついてないよ! ただ……おいしく食べてくれてるのが嬉しくて」
そう答えると、朔也は一瞬黙った。そして、照れくさそうに視線を落とす。
「……そっか」
その表情を見て、私は思わず笑顔になった。
あ。今、朔也が照れた。
いつも私ばっかりドキドキしているけれど、今日はちょっと違うみたい。
「……莉子も食べなよ。冷めるよ」
「あっ、そうだった!」
慌てて自分のお皿に向き直ると、朔也が小さく笑った。
私はクリーム煮をひと口食べる。うん、おいしい。朔也の好きなものを考えて作った料理を、こうして一緒に食べられるのが嬉しかった。
◇
夕食のあと、私は食器を洗い、温かいほうじ茶を用意した。
朔也は何度か手伝おうとしてくれたけれど、そのたびに「今日は休んでて!」と言うと、最後には笑いながらソファへ戻ってくれた。リビングに戻ると、朔也は少し眠そうに目を細めていた。普段なら、この時間も課題を進めていることが多い。私はマグカップをテーブルに置き、隣に腰を下ろした。
「朔也、最近忙しかったんだね」
「……まあね。レポートの締め切りが重なってて」
「アルバイトも?」
「うん。人手が足りない日だけ、少し多めに入ってた」
朔也はそう言って、小さく息を吐いた。
「でも、課題はだいたい終わったし。大丈夫だよ」
「……無理してない?」
「してないよ。今日は莉子が来てくれたし」
また、そんなことを言う。
朔也が私と過ごす時間を楽しみにしてくれているのは嬉しい。でも、疲れているときくらい、何も考えずに休んでほしい。
私は少し考えてから、ソファの上で姿勢を正した。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「膝枕してあげようか?」
「……え?」
朔也が目を瞬かせた。
その反応があまりにも珍しくて、私はちょっと嬉しくなった。
「膝枕! 疲れてるなら、少し横になったらいいかなって」
「……俺が?」
「うん!」
朔也は私の顔と膝を交互に見た。
「……いいの?」
「もちろん!」
私は笑顔で頷いた。
「今日は朔也を甘やかす日だもん!」
そう言うと、朔也は少し迷ったあと、小さく笑った。
「……じゃあ、お願いしようかな」
私はソファの端に座り直して、膝の上を軽く叩いた。
「はい、どうぞ!」
朔也がゆっくり身体を横たえる。そして、私の膝に頭を預けた。
「……わっ」
思っていたより、ずっと近い。
見下ろすと、朔也の黒髪が私の膝の上に広がっている。いつも私よりずっと背が高くて、頼りになる朔也。そんな彼が、今は私を見上げている。長い脚はソファから少しはみ出していて、なんだか可笑しい。
「……どう?」
私が尋ねると、朔也は少しだけ目を細めた。
「落ち着く」
「ほんと?」
「うん。すごく」
その言葉が嬉しくて、私はそっと彼の髪に触れた。
指の間を、柔らかな黒髪がさらさらと流れる。
「……朔也の髪、気持ちいいね」
「そう?」
「うん。いつもきれいだなって思ってた」
ゆっくりと髪を撫でると、朔也が気持ちよさそうに目を閉じた。
あ。なんだか、猫みたい。
普段はあんなにクールなのに、こんなに無防備な表情を見せてくれるなんて。少し前の私だったら、想像もできなかったと思う。
「……莉子」
「なぁに?」
「……充電」
「えっ?」
私は思わず手を止めた。
「充電?」
「うん」
「私、充電器なの?」
そう尋ねると、朔也は目を閉じたまま小さく頷いた。
「……そう」
「ふふっ! 何それ!」
あまりにも可愛くて、笑ってしまった。
「じゃあ、満タンになるまで甘えていいよ」
「……ほんと?」
「もちろん!」
私はもう一度、彼の髪を優しく撫でた。
朔也の口元が、ほんの少し緩む。
「……じゃあ、もうちょっと」
「うん。いいよ」
私は笑顔で答えた。
いつもなら、朔也が私を抱きしめてくれる。頭を撫でてくれたり、温かい飲み物を作ってくれたり。でも、今日は私が朔也の髪を撫でている。こうして自分に身を委ねてくれることが、なんだか不思議で、すごく嬉しい。
好きな人が自分のそばで安心してくれるって、こんなに幸せなことなんだ。
◇
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「いつも、ありがとう」
私は髪を撫でながら、静かに言った。
「ごはん作ってくれたり、迎えに来てくれたり、私の話をいっぱい聞いてくれたり」
「……うん」
「朔也って、いつも私を大切にしてくれるでしょ?」
朔也がゆっくり目を開けた。
「好きだからね」
あまりにも自然な答えだった。
私は思わず微笑んだ。
「うん。知ってる」
「……知ってるんだ」
「だって、いっぱい伝えてくれるもん」
私は彼の前髪をそっと整えた。
「だから、私もちゃんと伝えたいの」
朔也が私を見上げる。
その瞳を見つめながら、私はゆっくり言った。
「私も、朔也のことを大切にしたい」
「……莉子」
「疲れてるときは休んでほしいし、困ってるときは頼ってほしい。私にできることなら、力になりたいなって」
朔也はしばらく黙っていた。それから、小さく笑う。
「……十分、してもらってるよ」
「えっ?」
「今日だって、ごはん作ってくれて。こうやって休ませてくれてる」
朔也が私の手を取った。
「すごく嬉しい」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
私は少しだけ身をかがめた。
「……朔也」
「ん?」
そっと、彼の頬にキスをした。
「…………」
朔也が固まった。
私は顔を上げて、にっこり笑う。
「えへへ。今日のご褒美!」
「……莉子」
「なぁに?」
朔也は私を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
そして、片手で顔を覆う。
「……今の、ずるい」
「えっ?」
「不意打ちは、反則」
よく見ると、耳まで赤くなっている。
私は思わず声を上げた。
「わっ! 朔也、照れてる!」
「……見ないで」
「ええっ、だって可愛いんだもん!」
「……莉子」
少し困ったような声。でも、怒っているわけじゃない。むしろ、口元が少し笑っている。
私は嬉しくなって、もう一度彼の髪を撫でた。
「いつも朔也がしてることだよ?」
「……そうだけど」
「私だって、朔也をドキドキさせたいもん!」
そう言うと、朔也はとうとう声を出して笑った。
「……参ったな」
そして、ゆっくり身体を起こした。
「えっ? もう充電終わり?」
「……うん。満タン」
「そっか!」
私が笑うと、朔也がそっと腕を伸ばした。
次の瞬間、ふわりと抱きしめられる。
「ありがとう、莉子」
耳元で、静かな声が聞こえた。
「今日、すごく嬉しかった」
私は朔也の背中に腕を回した。
「……ほんと?」
「うん。こんなに甘やかしてもらえるとは思わなかった」
「えへへ。大成功だね!」
「……大成功」
朔也が笑いながら、私の頭に頬を寄せた。
その仕草がいつもより少し甘えん坊に見えて、胸の奥がくすぐったくなる。
「……ねえ、莉子」
「なぁに?」
「また、膝枕してくれる?」
私は思わず顔を上げた。
「もちろん!」
「……じゃあ、次もお願いしようかな」
「いつでもどうぞ!」
そう答えると、朔也は安心したように微笑んだ。
◇
帰る前、私は玄関で靴を履きながら、ふと振り返った。
「朔也、今日はちゃんと早く寝てね!」
「うん。わかった」
「夜更かしして課題やっちゃだめだよ?」
「もう終わってるから大丈夫」
「それならよし!」
私が満足そうに頷くと、朔也が笑った。
「……莉子、お母さんみたい」
「ええっ!? 彼女なのに!」
「冗談」
朔也が楽しそうに私の頭を撫でる。
私はその手をそっと掴んだ。
「もう。今日は私が甘やかす番だったのに、最後まで朔也が撫でるんだから」
「……癖になってるみたい」
「ふふっ。じゃあ、今日は特別に許してあげる!」
そう言って笑うと、朔也も柔らかく微笑んだ。
「駅まで送るよ」
「えっ、でも、今日は休んでてほしいのに」
「途中まで。一緒に歩きたいから」
「……もう。じゃあ、途中までね!」
私がそう答えると、朔也は上着を手に取った。
外に出ると、冬の冷たい空気が頬に触れた。二人で並んで歩きながら、今日作った料理や、今度一緒に食べたいものの話をする。朔也はいつもより少し口数が少なかったけれど、その表情はすっかり穏やかになっていた。
途中の交差点で、私たちは足を止めた。
「じゃあ、ここで。また明日ね、莉子」
「うん! おやすみ、朔也!」
朔也が私の手を一度だけ握り、ゆっくり離す。
今日は、私が朔也のためにごはんを作った。髪を撫でて、膝枕をして、それから私のほうからキスもした。どれも、ほんの小さなことかもしれない。だけど、朔也はすごく嬉しそうだった。
いつも私を甘やかしてくれる、大好きな人。
その人が、私の前で安心して目を閉じてくれた。私を頼って、甘えてくれた。それが、こんなにも幸せだなんて。
私は夜空を見上げた。澄んだ冬の空には、小さな星がいくつも輝いている。
朔也に愛されることは、もちろん嬉しい。
でも、今日わかった。
大好きな人を幸せにするのも、同じくらい嬉しいんだ。
私はスマートフォンを取り出し、朔也にメッセージを送った。
『今日はいっぱい甘えてくれてありがとう! また私に任せてね♡』
少しして、返事が届く。
『こちらこそ。莉子のおかげで元気出た』
そして、もう一通。
『次の充電も、予約していい?』
「……ふふっ!」
私は思わず笑ってしまった。
『もちろん! 永久無料だよ!』
そう返すと、すぐに返信が来た。
『じゃあ、一生お願いしようかな』
「……っ!」
思わず足を止めた。
もう。そういうこと、さらっと言うんだから。
私は熱くなった頬を押さえながら、ゆっくり歩き出した。
やっぱり、朔也には敵わない。
でも、いつかきっと。朔也がもっともっと幸せになるくらい、私もたくさん愛情を伝えたい。
だって私は、朔也の彼女なんだから!




