第15話 突然のお泊まりと、甘い夜
「……えっ、電車が止まってる?」
スマートフォンの画面を見つめながら、私は思わず声を上げた。
窓の外では、激しい雨が降っている。さっきから雷も鳴っていて、ときどき稲光で部屋の中まで一瞬明るくなるほどだった。今日は講義が終わったあと、朔也の部屋に遊びに来ていたのだけれど、まさかこんな天気になるなんて思わなかった。天気予報では、夕方から少し雨が降ると言っていたはずなのに、いつの間にか本格的な雷雨になっていた。
「どうした?」
キッチンにいた朔也が、こちらを振り返った。
「落雷の影響で、電車が運転見合わせだって。再開の見込みもまだわからないみたい」
「……ほんとだ」
朔也もスマートフォンを確認する。
私は窓の外を見た。雨粒が勢いよくガラスを叩き、遠くでまた雷が鳴っている。駅まで歩くだけでも、びしょ濡れになりそうだった。
「どうしよう……」
「とりあえず、雨が落ち着くまでここにいればいいよ」
「でも、もう結構遅いし……」
「莉子」
朔也が私の隣に腰を下ろした。
「無理して帰る必要ないだろ。電車が動かなかったら、泊まっていけばいい」
「……えっ?」
思わず、朔也の顔を見つめた。
泊まる。朔也の部屋に。
今まで何度も遊びに来ているし、二人きりで過ごすことにも慣れてきた。だけど、夜になったらいつも家に帰っていた。それが、今日は帰らないかもしれない。そう考えた途端、急に落ち着かなくなった。
「……お、お泊まり?」
「うん。ベッドは莉子が使って。俺はソファで寝るから」
「でも、朔也に悪いよ」
「俺の部屋なんだから、気にしなくていい」
いつもと変わらない落ち着いた声だった。
私は少し考えてから、スマートフォンを手に取った。
「じゃあ……家に連絡してみるね」
母に電話をかけ、電車が止まっていることと、朔也の部屋にいることを説明した。朔也のことは小さい頃から知っているとはいえ、突然のお泊まりだ。心配されるかもしれないと思ったけれど、母は事情を聞いて了承してくれた。
『この雨じゃ危ないものね。朔也くんなら安心だけど、迷惑かけないようにね』
「うん。明日、帰るときにまた連絡する」
『わかった。おやすみなさい』
「おやすみ!」
電話を切って、私は朔也を見た。
「……泊まってもいいって」
「そっか」
「うん」
そこで、急に静かになった。
雨の音だけが部屋に響いている。私は膝の上で両手をぎゅっと握った。
「……朔也」
「ん?」
「なんか、緊張してきちゃった」
正直に言うと、朔也は少しだけ笑った。
「……俺も」
「えっ!? 朔也も?」
「そりゃ、するよ」
そう言って、私の頭をぽんと撫でる。
「でも、いつもどおりでいいから」
「……うん!」
私は大きく頷いた。
そうだよね。お泊まりだからって、急に何かが変わるわけじゃない。
……たぶん。
◇
「莉子、そっちの玉ねぎ切れる?」
「任せて!」
夕食は、二人でクリームパスタを作ることになった。
朔也が冷蔵庫からベーコンとしめじを取り出し、私は玉ねぎを切る担当。普段は朔也が料理を作ってくれることが多いけれど、今日はせっかくだから一緒に作ろうということになった。前にたこ焼きパーティーをしたときも、今度は二人で料理をしようと話していたから、ちょうどいい機会かもしれない。キッチンは二人で立つと少し狭いけれど、それもなんだか楽しかった。
「朔也、玉ねぎってこれくらいの薄さ?」
「うん。ちょうどいい」
「やった!」
「……そんなに嬉しい?」
「だって、朔也って料理上手だから!」
私が笑うと、朔也も小さく笑った。
フライパンでベーコンと玉ねぎを炒めると、香ばしい匂いが広がってきた。そこにしめじを加え、牛乳とコンソメ、チーズで味を整える。朔也がソースを混ぜている間、私は茹で上がったパスタの湯切りを担当した。
「莉子、熱いから気をつけて」
「うん!」
少し緊張しながら、鍋の中身をざるにあける。湯気がふわっと立ち上ったけれど、無事に湯切りができた。
「こっちに入れて」
「はーい!」
朔也の合図でパスタをフライパンに移し、ソースと絡めていく。最後に黒こしょうを振って、お皿に盛りつけた。
二人で作ったクリームパスタは、思っていた以上においしくできた。
テーブルに向かい合って座り、いただきますをする。
「んー! おいしい!」
「うん。いい感じ」
「私たち、なかなかいいコンビじゃない?」
「昔からだろ」
「あっ、そうだった!」
そう言って笑うと、朔也も楽しそうに目を細めた。
小さい頃は、一緒にお菓子を作ったこともあった。あの頃は、粉をこぼして怒られたり、クッキーを焦がしたりしてばかりだったけれど、今はこうして二人で夕食を作っている。まさかあの頃の私たちが、大学生になって恋人同士になるなんて。
なんだか不思議だ。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「いつか、もっといろんな料理を一緒に作りたいね」
「いいね。何がいい?」
「グラタンとか、オムライスとか……あっ、ハンバーグも!」
「じゃあ、今度作ろうか」
「うん!」
そんな話をしながら食べる夕食は、いつもより少しだけ特別な味がした。
◇
食器を片づけ終えた頃には、夜の九時を過ぎていた。
外の雨は少し弱まったものの、電車はまだ動いていない。朔也が先にお風呂を済ませ、そのあと私も借りることになった。
「タオル、ここに置いておくから」
「ありがとう」
「シャンプーとか、好きなの使っていいよ」
「うん!」
朔也が用意してくれたタオルを受け取り、私は浴室へ向かった。
何度も来ている部屋なのに、知らなかったことがまだたくさんある。洗面台に並ぶ日用品や、きれいに畳まれたタオル。浴室に置かれたシャンプーの香り。どれも朔也の日常の一部なんだと思うと、なんだかくすぐったかった。
お風呂から上がると、洗面台には朔也が用意してくれた部屋着が置いてあった。
柔らかいグレーの長袖シャツと、ウエストを紐で調節できるスウェットパンツ。着てみると、袖が指先まですっぽり隠れてしまった。ズボンの裾も長かったので、何度か折り返す。
「……大きい」
思わず笑ってしまう。
身長が二十九センチも違うんだから、当たり前なんだけど。いつも朔也が着ている服なのに、私が着るとこんなに大きいんだ。
ただ、胸元は少し窮屈だったので、裾を軽く整える。ゆったりした服でも、肩や胸のサイズが合うとは限らない。少し迷ったけれど、着心地は悪くなかったので、そのまま部屋へ戻ることにした。
「お風呂、ありがとう!」
「うん。寒くなかった?」
「大丈夫!」
私が両手を広げて見せると、ソファに座っていた朔也が小さく笑った。
「やっぱり、袖長いね」
「うん! 見て、こんなに余ってる!」
「動きにくくない?」
「大丈夫。着心地いいよ」
「それならよかった」
朔也は立ち上がると、棚からドライヤーを取り出した。
「莉子、髪まだ濡れてる」
「あっ、乾かさなきゃ」
「俺がやろうか?」
「えっ?」
思わず目を丸くする。
「朔也が?」
「うん。嫌じゃなければ」
「……じゃあ、お願いしちゃおうかな」
朔也が椅子を引いてくれたので、私は少し照れながら腰を下ろした。
背後でドライヤーの音が鳴り始める。温かな風が髪に当たり、朔也の指が優しく髪を梳いていく。強く引っ張らないように毛先から丁寧に乾かしてくれるので、思わず目を細めてしまった。
「熱くない?」
「うん。ちょうどいいよ」
鏡越しに朔也を見ると、真剣な顔で私の髪を乾かしていた。
その姿がおかしくて、少し笑ってしまう。
「どうした?」
「ううん。朔也って、何でも上手だなって」
「髪乾かしてるだけだよ」
「でも、すっごく気持ちいい!」
そう言うと、朔也が鏡越しに微笑んだ。
「……なら、よかった」
ドライヤーの音が止まる頃には、髪がさらさらになっていた。私は振り返って、朔也を見上げる。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
朔也が私の髪を一房だけ指に取り、さらりと離した。
「……きれいになった」
「……っ!」
不意に言われた言葉に、胸がどきんと鳴る。
こういうところだ。朔也はいつも、何でもない顔で私をドキドキさせる。
◇
夜の十一時前。
私たちはソファに並んで座り、テレビを見ていた。
雨はすっかり弱まり、窓の外からは時折、車の走る音が聞こえてくる。テレビでは旅番組が流れていたけれど、正直なところ、私は内容をほとんど覚えていなかった。だって、今日は朔也の部屋に泊まるんだもん。もう何時間も一緒にいるのに、まだ帰らなくていい。それが嬉しいような、落ち着かないような、不思議な気持ちだった。
「……莉子」
突然名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「なぁに?」
朔也はテレビの音量を少し下げ、ソファの上で片腕を広げた。
「……おいで」
「……えっ?」
いつもより少しだけ低い声に、思わず瞬きをした。
「こっち?」
「うん。ここ」
朔也が自分の隣を軽く示す。
私は少し照れながら、彼のそばに移動した。すると、朔也が背中に腕を回し、ふわりと抱き寄せてくれる。
「……っ!」
肩に、朔也の温もりが触れた。
近くで感じる彼の体温に、心臓が一気に跳ねる。
「さ、朔也?」
「ん?」
「ち、近い……」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
小さく答えると、朔也が私の髪にそっと頬を寄せた。
「……よかった」
耳元で聞こえた声に、思わず肩がすくむ。
私は膝の上に置かれた朔也の手に、そっと自分の手を重ねた。こんなふうに寄り添っていると、彼の温もりがいつもより近くに感じられる。何度も抱きしめてもらっているのに、今夜はなぜだか特別に意識してしまった。
……そっか。
今日は、このままおやすみを言っても、同じ部屋に朔也がいるんだ。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「こうしてると、すごく落ち着くね」
「……うん」
朔也が私の手を握り返した。
「俺も」
その言葉が嬉しくて、私はそっと彼に身体を預けた。
しばらくの間、二人とも何も話さなかった。テレビの音と、時計の針が進む音。それから、ときどき聞こえる朔也の静かな呼吸。ただそれだけなのに、胸の奥が満たされていく。
私はゆっくりと顔を上げた。
「……朔也」
「ん?」
思っていたよりも、顔が近かった。
朔也の黒い瞳が、すぐ目の前にある。いつもなら恥ずかしくなって目を逸らしてしまうけれど、今夜はそのまま見つめていたかった。
朔也が私の頬にそっと手を添える。
「……キスしていい?」
心臓が、どきんと鳴った。
もう何度かキスをしているのに、こんなふうに尋ねられると、やっぱり緊張する。私は小さく頷いた。
「……うん」
朔也の顔がゆっくり近づいてくる。
私は目を閉じた。
唇が、優しく重なった。
ほんの少し触れて、離れる。それだけなのに、胸がいっぱいになる。
目を開けると、朔也が私を見つめていた。
「……莉子」
「……なぁに?」
「好きだよ」
その声があまりにも優しくて、自然と笑みがこぼれた。
「……私も、大好き」
今度は私から、そっと朔也の頬に触れた。そして、もう一度だけ唇を重ねる。
朔也が少し驚いたように目を瞬かせた。
「……莉子から来るの、まだ慣れない」
「えへへ。だって、私もキスしたかったんだもん」
そう言うと、朔也は困ったように笑った。
「……ほんと、可愛いこと言うね」
私は照れくさくなって、再び彼の肩に顔を寄せた。朔也の腕が、もう一度優しく背中に回る。
雨が上がった夜。二人きりの部屋で、こんなふうに寄り添っていられることが、どうしようもなく幸せだった。
◇
「じゃあ、俺はこっちで寝るから」
日付が変わる少し前、朔也はソファに毛布を広げた。
ベッドには、私のためにきれいなシーツが敷かれている。朔也が寝具を整えてくれたおかげで、すぐにでも眠れそうだった。
「本当にソファでいいの?」
「うん。莉子はベッド使って」
「でも、身体痛くならない?」
「大丈夫。一晩くらい平気だよ」
私は少し考えてから、ベッドに腰を下ろした。
朔也の部屋で寝るのは、もちろん初めてだ。枕元には小さな読書灯があり、サイドテーブルには私のスマートフォンと充電器が置かれていた。どちらも、朔也が準備してくれたものだった。
「……ありがとう、朔也」
「ん?」
「今日、泊めてくれて。いろいろしてくれて」
朔也は少し不思議そうな顔をしたあと、静かに笑った。
「そんなに気を遣わなくていいよ。俺も、莉子と一緒にいられて嬉しいし」
「……うん」
「おやすみ、莉子」
「おやすみ、朔也」
部屋の明かりが消えた。
暗闇の中、私はそっと布団を引き上げる。いつもと違う天井に、いつもと違うベッド。でも、すぐ近くには朔也がいる。ソファで毛布を整える小さな音が聞こえてきて、それだけで安心した。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
暗い部屋の向こうから、すぐに返事が聞こえた。
「……起きてた?」
「まだ寝てないよ」
「そっか」
私は小さく笑った。
「……今日、楽しかったね」
「うん」
「パスタもおいしかったし、髪も乾かしてもらっちゃったし……」
「……うん」
「それに、お泊まりまでしちゃった」
少し間が空いたあと、朔也の笑う声が聞こえた。
「……まだ終わってないけどね」
「あっ、そうだった!」
思わず笑ってしまう。
すると、朔也が静かに言った。
「……莉子」
「なぁに?」
「また、泊まりにおいで」
その言葉に、胸がじんわり温かくなった。
「……うん!」
今度は、電車が止まっていなくても。
そんなことを考えながら、私は目を閉じた。
◇
翌朝。
からから、という小さな音で目が覚めた。
……あれ? 何の音だろう。
ぼんやりした頭で考えて、私はゆっくり目を開けた。カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込んでいる。そして、キッチンのほうから聞こえる、聞き慣れた音。
コーヒーミルだ。
「……朔也?」
そっと身体を起こすと、キッチンに立っている朔也の姿が見えた。黒い髪が朝日に照らされ、いつもより少し柔らかく見える。
朔也は振り返ると、穏やかに笑った。
「おはよう、莉子」
「……おはよう」
「よく眠れた?」
「うん。すっごく」
私はベッドから下りて、キッチンへ向かった。
「朔也、もう起きてたんだね」
「うん。さっき起きたところ」
「ソファ、大丈夫だった?」
「平気。ちゃんと寝られたよ」
朔也はそう言って、挽きたてのコーヒーをドリッパーに移した。
お湯を注ぐと、ふわりと香ばしい匂いが広がる。私はその隣に立ち、コーヒーが落ちていく様子を眺めた。
「……いい匂い」
「今日は少し甘い香りの豆にした」
「私の好きなやつ?」
「うん」
朔也がミルクを温め、丁寧にカフェラテを作ってくれる。出来上がったマグカップを受け取ると、手のひらまでじんわり温かくなった。
「はい、莉子」
「ありがとう!」
私たちは小さなテーブルに向かい合って座った。
一口飲むと、優しい甘さとコーヒーの香りが口いっぱいに広がる。
「……おいしい!」
「よかった」
朔也はブラックコーヒーを飲みながら、静かに微笑んだ。
私はマグカップを両手で包み込み、窓の外を眺めた。昨日の嵐が嘘のように、空は青く澄んでいる。朝日が差し込む部屋には、淹れたてのカフェラテの香りが漂っていた。
そして、目の前には大好きな朔也がいる。
いつもなら、朝は自分の家で迎える。でも、今日は違う。
「……ねえ、朔也」
「ん?」
「こういう朝って、いいね」
私がそう言うと、朔也は少し首を傾げた。
「こういう朝?」
「うん。起きたら朔也がいて、一緒にコーヒー飲んで……なんか、幸せだなって」
思ったままを口にすると、朔也は一瞬だけ驚いたような顔をした。それから、ふっと笑う。
「……俺も、そう思ってた」
「ほんと?」
「うん。また一緒に朝ごはん食べよう」
「……うん!」
私は嬉しくなって、マグカップをそっとテーブルに置いた。そして、朔也の隣に移動する。
「……朔也」
「ん?」
「朝のぎゅー、してもいい?」
朔也は少し驚いたあと、優しく腕を広げてくれた。
「……おいで」
私はその腕の中に飛び込んだ。
昨日の夜とは違う、朝の温かな抱擁。朔也の肩に顔を寄せると、コーヒーの香りがした。
「……大好き」
小さく呟くと、朔也が私の背中を優しく撫でてくれる。
「……俺も」
その声を聞いて、私は目を閉じた。
初めてのお泊まりは、突然の雷雨から始まった。ちょっと緊張して、たくさんドキドキして。でも、最後には、何でもない朝を一緒に迎える幸せを知った。
特別なデートも、もちろん大好き。
だけど、こんなふうに一緒にごはんを作って、笑って、おやすみを言って、また朝に会えること。そんな何気ない時間も、これから少しずつ増やしていけたらいいな。
大好きな人と過ごす日常が、また一つ増えた。
それが、何より嬉しかった。




