第13話 突然の告白と、彼氏の本音
「桃瀬さん、ここの説明、お願いしてもいい?」
「う、うん! 大丈夫!」
大学の講義室で、私は手元の資料をぎゅっと握りしめた。
今日は、ここ数週間かけて準備してきたグループ課題の発表日。広告が消費者の行動に与える影響について、ほかの学生たちの前で発表することになっている。普段の講義なら、先生の話を聞いてノートを取るだけでいい。でも、人前で話すとなると話は別だ。教室の前に立って大勢の視線を浴びることを考えただけで、心臓がどきどきしてしまう。
そんな私の隣で、有坂くんはいつもと変わらない穏やかな顔をしていた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。桃瀬さん、昨日もちゃんと説明できてたし」
「で、でも、本番で頭が真っ白になったらどうしよう……」
「そのときは僕がフォローするから。焦らずに、練習どおり話せばいいよ」
「ありがとう、有坂くん」
「どういたしまして」
有坂くんが優しく微笑む。
グループ課題が始まった頃は、こんなに話しやすい人だとは思っていなかった。落ち着いていて、頭がよくて、誰に対しても丁寧。私が資料のまとめ方に困っていたときも、嫌な顔一つせずに教えてくれた。おかげで、苦手だった発表にも少しだけ自信がついた気がする。
「次、第三グループ。準備してください」
先生の声が響いた。
「……よし!」
私は小さく拳を握り、椅子から立ち上がった。
◇
「以上で、私たちの発表を終わります。ありがとうございました!」
最後の言葉を言い終えた瞬間、講義室に拍手が響いた。
私はほっと息を吐いた。途中、一度だけ説明する順番を間違えそうになったけれど、有坂くんがさりげなくスライドを示してくれたおかげで、最後まで無事に発表することができた。何より、練習で何度もつまずいた部分を、自分の言葉で説明できたことが嬉しかった。
席に戻ると、同じグループの学生たちも安心したように笑っていた。
「お疲れ! 結構うまくいったんじゃない?」
「うん! みんな、ありがとう!」
「桃瀬さんの説明、わかりやすかったよ」
「ほ、本当?」
「うん。練習のときよりずっとよかった」
有坂くんにそう言われて、胸の奥がじんわり温かくなる。
「有坂くんのおかげだよ。何回も練習に付き合ってくれたし」
「僕は少し手伝っただけだよ。頑張ったのは桃瀬さんでしょ」
「そんなことないよ。でも……ありがとう!」
そう言って笑うと、有坂くんは一瞬だけ何かを言いかけた。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「……うん。お疲れさま」
私は机の上の資料を片づけながら、ようやく肩の力を抜いた。
……ああ、終わったぁ!
今日は帰ったら、自分へのご褒美においしいケーキでも食べようかな。それとも、朔也にカフェラテを淹れてもらおうかな。
そんなことを考えていたら、自然と笑顔になってしまった。
◇
講義が終わると、私は美月にメッセージを送った。
『発表、無事に終わったよ!』
すると、すぐに返事が届いた。
『お疲れ! 頑張ったじゃん!』
『うん! すっごく緊張した!』
『今日は柊先輩にいっぱい褒めてもらいなよ♡』
最後のハートマークに、思わず頬が緩んでしまう。
朔也には、朝も「頑張っておいで」と言ってもらったばかりだ。発表が終わったら連絡する約束もしている。早く会って、ちゃんとできたよって報告したかった。
スマートフォンをしまおうとした、そのときだった。
「桃瀬さん」
振り返ると、有坂くんが立っていた。
「有坂くん? どうしたの?」
「このあと、少し時間あるかな」
「えっ?」
「話したいことがあるんだ。できれば、二人で」
いつもと同じ優しい声。でも、その表情はどこか真剣だった。
私は少し不思議に思いながら頷いた。
「うん。少しなら大丈夫だよ」
「ありがとう。じゃあ、中庭でもいい?」
有坂くんに案内され、私たちは講義棟を出た。
外に出ると、秋の風が頬を撫でた。中庭の木々は赤や黄色に色づいていて、足元には落ち葉が散らばっている。昼休みを過ぎた時間だからか、ベンチに座っている学生はまばらだった。
有坂くんは、大きなイチョウの木の近くで足を止めた。
「……桃瀬さん」
「うん?」
振り返った彼の顔を見て、私は思わず背筋を伸ばした。
いつも柔らかく笑っている有坂くんが、今日は少し緊張しているように見えたからだ。
「突然こんなことを言って、困らせるかもしれないけど」
「……うん」
「ちゃんと伝えておきたくて」
有坂くんは一度だけ深く息を吸った。そして、まっすぐに私を見つめた。
「桃瀬さん。僕、君のことが好きです」
「……えっ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
……好き?
有坂くんが、私を?
驚いて言葉を失っていると、彼は少し困ったように笑った。
「急にごめんね。びっくりするよね」
「う、うん……」
「最初は、ただ同じグループになっただけだったんだ。でも、一緒に課題を進めているうちに、桃瀬さんと話す時間が楽しみになってた」
有坂くんは、ゆっくりと言葉を続けた。
「わからないことがあっても一生懸命考えるところとか、誰かが困っていたら自然に声をかけるところとか。そういうところが、いいなって思って」
私は黙って彼の話を聞いた。
有坂くんの気持ちは、驚くほどまっすぐだった。冗談でも、その場の勢いでもない。言葉を選びながら、一生懸命に伝えてくれているのがわかった。
「柊先輩と付き合ってることは知ってる。だから、こんなことを言うのは迷惑かもしれない。でも、何も言わずに終わらせるより、自分の気持ちにちゃんと向き合いたかったんだ」
「……有坂くん」
「返事は、今すぐじゃなくても――」
「ありがとう」
私は静かに口を開いた。
彼が勇気を出して伝えてくれたのだから、私も曖昧な返事はしたくなかった。期待を持たせるようなことを言うのも、きっと違うと思う。
「そんなふうに思ってくれて、すごく嬉しい。課題もいっぱい助けてもらったし、有坂くんと一緒のグループでよかったって、本当に思ってる」
「……うん」
「でも、ごめんなさい」
有坂くんが、静かに私を見つめた。
「私には、大好きな人がいるの」
その名前を口にするだけで、心が温かくなる人。
小さい頃からずっと一緒にいて、いつも私のことを大切にしてくれた人。幼馴染だった頃には気づけなかった想いを、今はちゃんと自分の言葉で伝えたいと思える人。
そして、私が心から大好きな、たった一人の恋人。
「私が好きなのは、朔也だから」
迷いはなかった。
有坂くんはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか」
「うん」
「やっぱり、そうだよね」
彼は少しだけ笑った。
「桃瀬さん、柊先輩の話をするとき、すごく嬉しそうだから」
「えっ、そうなの?」
「うん。自分では気づいてない?」
「……全然」
私が驚くと、有坂くんはくすっと笑った。
「この前も、課題の休憩中にコーヒーの話になったでしょ。柊先輩が淹れてくれるカフェラテの話、すごく楽しそうにしてた」
「あっ……!」
思い当たる節がありすぎて、顔が熱くなる。
確かに、朔也がコーヒー豆を挽くのが好きだとか、私にはいつもカフェラテを作ってくれるとか、そんな話をした気がする。自分では何気ない世間話のつもりだったのに、そんなに嬉しそうな顔をしていたんだろうか。
「……私、そんなに朔也の話ばっかりしてた?」
「ううん。話の回数じゃなくて、表情でわかったんだ」
有坂くんは穏やかに笑った。
「だから、難しいってわかってた。でも、やっぱり好きになっちゃったんだよね」
その笑顔を見て、胸が少しだけ痛くなった。
誰かに好きだと言ってもらえるのは、嬉しいことだ。でも、私はその気持ちに応えられない。優しい人だからこそ、傷つけてしまったことが申し訳なかった。
有坂くんは、そんな私の気持ちを察したように首を横に振った。
「そんな顔しないで。桃瀬さんは何も悪くないよ」
「……うん」
「ちゃんと返事をしてくれて、ありがとう」
秋風が吹き、イチョウの葉が一枚、二人の間に落ちた。
有坂くんはそれをちらりと見てから、少しだけ視線を伏せた。
「……ただ、少しだけ時間をもらってもいいかな」
「時間?」
「うん。気持ちを整理する時間。すぐに何もなかったみたいに振る舞うのは、ちょっと難しそうだから」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「うん。もちろん」
「ありがとう。しばらくは少し距離を置くかもしれないけど、気にしないでね」
「……わかった」
「でも、大学で会ったら普通に挨拶してくれると嬉しいな」
「うん! それはもちろん!」
私が答えると、有坂くんはようやくいつもの笑顔を見せてくれた。
「よかった。じゃあ、また講義で」
「うん。またね、有坂くん」
私たちはそこで別れた。
振り返ると、有坂くんは一人でゆっくりと中庭を歩いていた。その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。
恋愛って、嬉しいことばかりじゃないんだ。
誰かを好きになる気持ちは、自分でもどうしようもない。でも、だからこそ、相手の気持ちを大切にしたい。有坂くんが勇気を出してくれたことも、私の返事を尊重してくれたことも、忘れないでいたいと思った。
◇
夕方。
私は大学近くの駅前で、朔也と待ち合わせをしていた。
発表が無事に終わったことを連絡すると、朔也は『お疲れ。帰り、一緒に帰ろう』と返してくれた。改札の近くで待っていると、人混みの向こうに見慣れた黒髪が見えた。
「莉子」
「朔也!」
私が手を振ると、朔也はいつもの落ち着いた表情で近づいてきた。
「発表、どうだった?」
「うん! 緊張したけど、ちゃんとできたよ!」
「そっか。頑張ったね」
「えへへ。ありがとう!」
朔也がそっと私の頭を撫でてくれる。その手の温かさに、自然と頬が緩んだ。
「お腹空いてない? 何か食べて帰る?」
「うーん……その前に、朔也に話したいことがあるの」
「話?」
朔也が私を見た。
私は少し迷ってから、彼の手を握った。
「……うん。ちょっとだけ、二人で話せるところに行かない?」
朔也は一瞬だけ不思議そうな顔をしたけれど、すぐに頷いてくれた。
「いいよ」
駅から少し歩いたところに、小さな公園がある。夕方の公園には、犬の散歩をしている人や、ベンチで休んでいる人がちらほらいた。私たちは奥のほうにある、静かなベンチに腰を下ろした。
隣に座る朔也を見上げる。
どう話そう。隠すようなことじゃないし、もちろん隠したいとも思っていない。ただ、朔也がどんな顔をするのか、少しだけ気になった。
「……朔也」
「ん?」
「今日ね、発表が終わったあと、有坂くんと話したの」
「……うん」
朔也の表情は変わらなかった。でも、私の話を聞くために、少しだけ身体をこちらに向けてくれた。
「それでね……有坂くんに、好きだって言われたの」
「…………」
朔也が黙った。
私は慌てて言葉を続けた。
「あっ、でもね! ちゃんと断ったよ! 私には大好きな人がいるって、ちゃんと伝えたから!」
「……そっか」
「うん。それに、有坂くんもわかってくれたよ。少し時間は欲しいって言ってたけど、私の返事を尊重してくれたの」
朔也は静かに頷いた。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……正直に話してくれて、ありがとう」
「ううん。朔也にはちゃんと話しておきたかったから」
「うん」
そこまで言って、朔也は少しだけ視線を落とした。
いつもなら、私が隣に座ると自然に手を繋いでくれる。でも、今はその手が膝の上に置かれたままだった。
……あれ? もしかして。
「……朔也?」
「ん?」
「……怒ってる?」
私がそっと尋ねると、朔也はすぐに首を横に振った。
「怒ってない」
「ほんと?」
「うん。莉子が悪いことしたわけじゃないだろ」
いつもどおりの、静かで優しい声。それなのに、どこかいつもと違う。
朔也はしばらく黙っていたけれど、やがて小さく呟いた。
「……わかってたつもりなんだけどな」
「え?」
「莉子のこと、好きになるやつが俺以外にもいるってこと」
私は目を瞬かせた。
朔也は私を見つめ、少し困ったように笑う。
「……実際に聞くと、思ってたより余裕ないみたい」
その言葉に、私の胸がどきんと鳴った。
朔也が、余裕ない?
いつも落ち着いていて、何でもさらりと受け止めてくれる朔也が?
「……朔也」
そっと名前を呼ぶ。
すると、朔也は私の手に視線を落とし、ゆっくりと指を絡めてきた。
「莉子の気持ちは、ちゃんと信じてる」
「……うん」
「だから、莉子がどうこうする必要はない。ただ……」
そこで一度、言葉が途切れた。
朔也は少しだけ照れくさそうに目を伏せる。
「……ちょっと、妬いてるだけ」
「……えっ」
思わず、間の抜けた声が出てしまった。
朔也が、嫉妬してる。
私に?
この前も、有坂くんと課題をしているところを見て、少し妬いていた。あのときは意外だと思ったけれど、今日はもっと素直に気持ちを話してくれている。
そんなことを考えている間にも、朔也は繋いだ手を離さずにいた。
「……ごめん。変なこと言った」
「う、ううん!」
私は慌てて首を振った。
だって、嬉しくないわけじゃない。もちろん、朔也に嫌な気持ちをさせたいわけじゃないけれど、いつも私を大切にしてくれる彼が、こんなふうに素直な気持ちを見せてくれたことが、なんだか嬉しかった。
「……朔也」
「ん?」
「私ね……」
言いかけたところで、公園の時計が夕方の時刻を告げる音を鳴らした。
空はいつの間にか茜色から薄紫色へと変わり、街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。朔也は私の手を握ったまま、静かにこちらを見ている。その瞳には、いつもの優しさと、ほんの少しだけ切なそうな色が混じっていた。
私は繋いだ手を見つめた。
今まで、朔也には何度も安心させてもらってきた。大丈夫だよって。好きだよって。私が不安になるたびに、何度も気持ちを伝えてくれた。
だから今度は、私の番だ。
私はそっと息を吸い、朔也のほうへ身体を向けた。
大好きな人に、ちゃんと気持ちを伝えるために。




