青虫
珠智は玄関の姿見に映った自分の顔をじっと見つめていた。吊り上がった小振りの目は離れすぎているし、口がぺたりと広がっている。次に、六年生になって急に膨らみ始めた胸を持ち上げてみる。生理のためかいつもより固く、中心の辺りがじわりと痛む。また大きくなっているような気がして、思わず眉間にしわを寄せた。
靴箱の置時計を見ると、もうそろそろ家を出なくてはいけない時間だった。背を丸めると、足元に放り出していたランドセルを引き上げた。できるだけゆっくりとランドセルを背負う。一つ丁寧に呼吸をして、いってきまーす、と声を張り上げてドアを開けた。母の、いってらっしゃーい、という返事に背を押されて家を出る。途端、強烈な陽射しと蝉の喚き声が襲ってくる。シンシンシンシン、という声は、どうしてか、シネシネシネシネに聞こえる。ガチャリ、と隣の家の玄関が開いた。珠智はその途端に、頭の中でシュワッと音がするのを確かに聞いた。耳の奥が冷たくなる。何か垂れてきているのかと思い、ぞっとした珠智は、さっと耳に触れた。汗がもみあげを伝っていただけだった。
こちらに気がついた慶太が、おお、と声をかけてくる。珠智は、おお! と返事をしながら両の頬を持ち上げた。筋肉がひくりと引き攣る。上手く笑えていたかと不安になって、慶太の横顔を盗み見る。特に変わった様子は無かったので、いつもとかわらない笑顔を向けることができたのだと、ほっとする。けれどそれと同時に胸の真ん中を風が吹き抜けていくような心地がする。そういえば慶太は、いつからか、いってきます、を言わなくなった。
通学路を歩いて他愛もない話しをしながら、珠智は慶太を盗み見た。さっきから、思わず何度も聞いてしまいそうになる。けれど、そもそもなんと聞きたいのかも自分でわからない。昨日の放課後から、ずっとぐるぐると渦を巻いている言葉は、今朝になっても消えてくれない。
……聞いちゃったんだけど。
それを言ってどうなるのか、明確な想像はできない。けれど言ってはいけないことのような気が、漠然としている。下腹がきゅっと痛くなって、珠智は奥歯を噛んだ。
放課後だったけれど、まだ明るかったことを覚えている。
軽快な足取りで帰り道を進んでいた珠智が、算数ドリルを入れていないことに気がついたのは、学校を出て十分ほどしてからだった。取りに帰るか迷ったけれど、授業中にいつ自分が当てられるかわからないし、渋々と学校へ引き返した。この時間ならまだ誰か残っているだろうと、職員室へはよらずに教室へ向かった。クラスの窓は開いていて、思った通り誰かが残っているようだ。話し声が微かに聞こえる。近くへ行けば慶太の声が混じっているのに気づいて、珠智は歩く速度を上げた。教室のドアの手前へ辿り着いたときだ。
「やっぱ一番は瑛実だろ」
瑛実の名前よりも、一番、ということ言葉に足が竦む。教室の前で息を潜めるのははじめてだった。
「まあ可愛いけど。瑛実ってたまに怖くねえ?」
「怖いんだったら珠智だろ」
頭のてっぺんから全身が一気に冷たくなる。体が重い。
「いやああれは怖いじゃなくてうざいだって。あんたたちやめなさいよ!」
誰かがおどけた声音でそういうと、似てる、という笑い声が廊下まで響いてくる。そこへは慶太の声も混じっている。
「こんなさ、イグアナみたいな顔でさ」
「うわほんとだそうだわイグアナっぽいわ!」
吹き出すような笑い声と、ちっとも似ているように思えない声真似のあと、一際愉快そうな笑いが起こる。珠智は廊下のずっとずっと向うの、一番奥の扉を見つめた。急に遠近感が無くなって、自分がとてつもなく高い場所にひとりきりでいるような気がした。体が異様に重いのと、あちこちから聞こえる蝉の声だけが、本当のことのような気がした。
その後はぼんやりとしている。はっきりとした意思を持っていた覚えが無い。習慣のように通った道を、ただひたすら歩いていたように思う。
昼休みも終わるころに、数名の女子が悲鳴を上げた。散り散りに逃げて行った彼女たちがいた場所を見ると、何人かの男子が声を上げて笑っている。一人が指の間に、透きとおるような緑色の幼虫を持っていた。背には規則正しく黒い斑点がついており、茶色い角が生えている。男子たちが掛け声とともに、また女子たちのところによっていく。彼女たちは、やめてよ! こっちこないで! と、今にも泣き出しそうな表情で一ところで身を寄せ合っている。男子は面白がって教室中を駆け回り、女子たちはそのたびに悲鳴をあげている。
「なあ、ちょっと貸して」
慶太が走り回っていた男の子に声をかけた。指の先でぐりんぐりんと体をくねらせている青虫を受け取って、慶太はにやにやしながら教室の端へ歩いて行く。廊下側の一番後ろは[[rb:満子 > みつこ]]の席だ。彼女は膝の上に毛糸を乗せて、今日も何かを編んでいる。慶太が満子に、おい、と声をかける。彼女は視線をあげて、彼の手元を見た。特に悲鳴をあげる様子もない。満子は何事もないようにまた自分の手元へ視線を戻す。慶太は眉間に皺を寄せて、ちっ、と舌を打つと青虫をふりかぶった。
「ちょっと」
珠智がそう声を張り上げて満子と慶太の間に立った。途端に慶太が面倒そうな表情になる。珠智は言葉を詰まらせた。いつもなら、やめなさいよ! の一言で一喝してしまえる。ノドに何かつかえたみたいで、頼り無い表情に見えないよう、慶太を睨みつけるのが精一杯だった。はやしたてていた男子たちは、興ざめしたように不機嫌な顔をしている。
「やめなさいよーお」
昨日聞いた声真似が聞こえる。慶太の側にいた男子が、にやにや笑いながら、いい加減にしなさいよおー、と続ける。それを聞いた何人かが笑い始めた。わざとらしい声音で、いい加減にしなさいよおー、と珠智の前で腕を振り回してみせる。珠智は彼を睨みつけた。けれど、慶太が一緒にせせら笑っていることの方が気になってしまう。
珠智が何も言い返せないでいると、虫が苦手なのだと解釈したらしいその男子は、慶太から青虫を奪って珠智の目の前にもっていった。やめなさいよお~、とまた声真似をしている。珠智は怒りで顔を真っ赤にしたけれど、罵声の一つも浴びせられそうにない。舌の根っこが膨れ上がって、言葉がつかえる。珠智は目の前の男子の肩を押しやり、荒々しい足取りで自分の席へ向かった。追いかけてきた男子が珠智の机の上に青虫を放った。青虫は引っくり返った状態のまま、のたうっている。珠智はその様子を睨みつけている。
「珠智のくせに怖いのかよお」
数人の男子がまた笑い始める。輪から少し外れたところでにやにやしていた慶太が、そんなことねえって、と鼻で笑った。
「そいつ、ばあちゃんちでハチの子食ってたらしいし、苦手なわけないじゃん」
慶太のそんな言葉に、男子達がにわかに色めきたつ。冗談めかしてはやし立てる男子の声が、ぶよぶよと形を失っていく。米神が締め付けられて、視界が一瞬、黒く滲んだ。机の上で、青虫がぐりんぐりんとのたうっている。半透明の頭の周りには薄らと毛が生えているようだ。
珠智は男子の群れの中で笑っている慶太のことをちらりと見た。慶太がそれに気づいて、途端に笑うのをやめた。
珠智は芋虫に向き直るとおもむろにその体をつかんだ。そのままぱっと口に放り込む。女子の数名が悲鳴を上げて、男子の数名は歓声を上げる。舌の上で、青虫がぬらぬらと動いている。首筋から全身に向かって肌が泡立つ。耳のすぐ下が痛くなって、珠智は自分の口元を両手で抑えつけた。騒ぎ立てていた男子も、珠智がえづくのを見て静かになっていく。珠智はたまらずその場に膝をつき、その途端、昼に食べた物を吐いた。教室内は、時が止まったように静まり返った。
手の隙間から吐瀉物と一緒に緑の固まりがぼとりと落ちる。半透明の黄色い角を出した青虫は、胃液で薄まったビーンズシチューの中でもんどり打っている。しばらくすると態勢を立て直し、どこかへ前進し始めた。崩れたグリンピースを、青虫は上手によけており、背中は艶々と光っている。
「……大丈夫?」
吐いた態勢のまま動かなくなった珠智に、少し離れたところから女子が声をかけた。珠智は呆然としたまま動こうとしない。
「……笹野くんが変なこというから」
身を寄せ合っていた女子たちが、ねえ、とさざめきはじめる。
「はあ? 食えなんて言ってねえだろ。そいつが勝手に口に入れたんじゃん」
慶太が煩わしそうに、でも少し焦ったようにそういうのが聞こえる。床に膝をついたまま珠智は、そうだ、と思った。珠智はふらふらと立ち上がると、廊下へ出た。水道に辿りつくと、手を洗って、そのあと口を何回もすすいだ。ネットでぶら下げられたレモンの形が一つも崩れていない固形石鹸を、ごしごしと手に擦りつける。
足音が一つ近づいてくる。水道の付近でそれが止まったので、珠智は顔をあげた。満子が立っている。いつも大抵のクラスメイトへ向けられる珠智の笑顔は、いまはなりを潜めている。無表情で肌は土色だった。珠智が無言で満子を見ていると、彼女の方も黙ってハンドタオルを差し出してきた。珠智はぼんやりとそれをみつめた。蛇口から勢いよく出る水が、広い洗面台を弾く。一定のリズムと音階を持って、排水溝がそれを飲み込んで行く。
突然、体の中心から怒りが込み上げてくる。それは珠智にとってもあっという間のできごとだった。
「おまえと一緒にすんな!!」
喉が裂けるような金切り声を上げると、珠智は体を翻して教室とは反対方向に走り出した。五時間目を知らせるチャイムの音が聞こえる。珠智はつき当たりの角を曲がると走るのをやめた。息を切らせながら歩きはじめる。大きく息吸った拍子に、喉が震える。途端に、大粒の涙が瞳から溢れてきた。珠智は呻き声を上げながら、目に力を入れたり、眉間にぐっと皺をつくったりしたけれど、涙は止まってくれそうになかった。喉の奥がひくひくと痙攣し出す。嗚咽が漏れ始めて、珠智は自分がどこへ行くのかも解らなかったけれど、歩きながらぼろぼろと涙を零した。
舌の根が膨れ上がって、破裂してしまいそうだった。
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短編連作2作目。次回で〆




