ブラシ
ーー 少年少女たちの、ちょっと切なく痛々しい恋と、甘い悪意の短編連作。
短編連作/少年少女/思春期/ボーイミーツガール
※10年前の作品、ほんのちょっと手直し。
ぶつりと切られたアネモネが、花瓶の縁から首をもたげている。瑛実はそれを睨みつけていた。真っ赤なヒダの中心は黒い花粉で覆われている。彼女の顔は不機嫌そのものだが、その理由とアネモネとは全く関係がない。
サッと花の中心へ触れた。指先に張り付いた黒い粉は、爪と肉の間に入りこんでくる。人差し指と親指を擦り合わせてみたけれど、野暮ったい感触は消えてくれない。
彼女の家の庭は、この時期になると色とりどりのアネモネでいっぱいになる。自宅でピアノ教室を営んでいるママは、ヒマを見つけては花の手入れをしている。数日前に、たくさん咲いたからと学校へ持たされたばかりだ。
鏡へ視線を移す。彼女の細く滑らかすぎる髪は、ママの指の間をはらはらとすり抜けていく。亜麻色のそれを編み込もうとする手つきは、瑛実から見ても辿々しい。ママが時計を確認して、もう無理よ、と呟く。途端に瑛実は唇を突き出した。
「お姫さまくくりは明日にしよう?」
ややあって、イヤ! と叫ぶ。
「おろしてても可愛いわよ」
ママはそう言いながら瑛実の髪をブラシで梳き、形のよい頭を掌でするりと撫でた。それでも体を揺すりながら、イーヤアー! と、声を上げる。ママは大きな溜息をついてブラシを棚に戻してしまった。
「もう四年生なんだから自分でやりなさい」
洗面所から出て行ってしまうママの背中を、瑛実は鏡越しに睨みつけた。視界に赤色が飛び込んでくる。ギロリと視線を向ける。アネモネだった。
教室のプレートが見えてくると、瑛実は指先で一度だけ髪を梳いた。廊下にいるクラスメイトが、瑛実ちゃんおはよう、と笑顔を向けてくる。瑛実はくりっとした目を弓なりに綻ばせ、おはよう、と笑顔で応えた。エメラルドグリーンの安っぽいペンキ色のドアを開けて、窓際で話しをしている女の子たちともあいさつを交わす。四角い教室の、ちょうど真ん中の席へ向かう。
「おはよーえいみ」
ランドセルを下ろしていると、窓際で男の子に混じって騒いでいた珠智が側にやってきた。瑛実は自分よりも頭一つ分は背の高い彼女を見上げながら、おはよう、と笑顔を向けた。
「遅かったじゃん」
珠智が首を傾げるので、黒板の真上にかけられた時計を確認した。朝の会まであと十分しかない。
「ゆっくりしすぎた」
瑛実がそう言いながらイスに座る。珠智が、ふーん、と返事をしながら胸元に視線を注いで来る。悪戯っぽく、なあに? と笑いながらランドセルの中身を出していく。彼女が後ろへ回るので、瑛実は不思議に思いながらもじっとしていた。えりあしの辺りに、指が通される感触がする。どうやら髪を触っているらしい。上を向くと机に座った珠智がこちらを覗きこんでくる。
「かみ、さらさら」
そう言って楽しげに髪をもて遊ぶ。瑛実は頬を染めながらチラリと窓際へ視線を向ける。さっきまで珠智がいた辺り、お目当ての”彼”がいなくて視線を彷徨わせる。
「何読んでんだよー」
慶太の声がする。方向から、何となく誰に言っているのかを察した瑛実は、そっと口を引き結んだ。珠智に髪を”いじらせ”ながら、そっと顔を横に向ける。後ろの方に慶太の姿を認める。手に大きめの本を持っている。彼を含めて三人の男の子に席を取り囲まれているのは、やっぱり満子だった。彼女は机をじっと見つめている。本を取り返そうとする様子は無い。真っ黒の髪は今日もみつあみに結われている。
「アミモノとかー。誰にやんの?」
慶太がにやにやしながら本をぷらぷらと揺らす。満子は身じろぎ一つしない。けれど瑛実から見えるその表情は、不安に沈んでいるようにも悔しさに歪んでいるようにも見えない。ただ本が無くなったから机を見つめている。そういう感じなのだ。
「なんか言えよ」
慶太がぼそりと呟くと、側で話していた女の子たちが一瞬だけ静かになる。
「ケイタ! 本返さないとおばちゃんに言いつける」
頭上から声が降って来る。振り返ると、珠智が腕を組んでにやにやしている。
「は? おまえ家に入れなきゃいいだけじゃん」
「おばちゃんのケータイのばんごう知ってますう」
慶太が、は? と鼻で笑う。珠智がよく通る声で、じゅうー、きゅうー、とカウントをとり始める。ちょうど担任の先生が教室に入って来た。慶太は舌打ちして満子の机に本を放り投げた。珠智も机を降りて席に座る。瑛実は振り返って満子の様子を確かめた。彼女は何事もなかったように前を向いている。瑛実も前を向きながら、唇の裏側をそっと噛んだ。
瑛実は紺色の半ズボンを手にしながら、隣の席の男の子と話している慶太をずっと目の端で捉えている。視界の隅に後頭部が表れると、瑛実はその瞬間に多くの年ごろの女の子が身につけてしまう軽やかさで着替えを終えてしまった。ワンピースをたたむフリをする。彼は友達とのおしゃべりに夢中なようだ。瑛実の柔らかな頬がスウッと赤く染まる。ゼッケンの下で膨らみ始めたばかりの胸の、さらに奥で、鼓動はどうしようもなく早くなる。瑛実はすました顔でまた席についた。
「えいみ、なんですわってんの。 早くいこうよ」
後ろの席の珠智が、そういって机にお尻を引っかける。ぶらぶらと揺れる彼女の足は、いまだに夏のにおいを含んでいる。
「あ、ごめん、髪くくらなきゃ」
「……っもう」
唇を尖らせる珠智に、すぐだから、と瑛実は微笑む。とても申し訳なさそうに。珠智は、はいはいっ! と言い放ったけれど、足をパタンとぶらつかせただけだった。瑛実は手提げカバンから折り畳みの鏡とまっさらのヘアブラシを取り出す。日曜日に出かけたとき、ママが買ってくれたのだ。柄がこげ茶色で、毛の束はこっくりとしたバターのような色をしている。触るとしっとり、手に馴染む。
「えいみ、ちょっとそれ触らせて」
珠智が手を伸ばしてくるままに、いいよ、とそれを手渡す。彼女がブラシを撫でるのを眺める。店の人は、豚のモノなんですよ、と言っていた。瑛実にはよく解らないことだ。ただ、感触が産毛に似ている。
珠智は、ありがと、と言って瑛実にそれを返した。このブラシを渡して、これからは自分でね、とママは言った。
「なあ、おまえまだかかんの?」
鏡へ向き直った途端に、慶太にそう声をかけられる。突然のことに、瑛実は喉を詰めた。それは夜明けにふと目が覚めてしまったときのようでもあったし、通学路のアスファルトの隙間にしろつめ草を見つけたときのようでもあって、瑛実はとにかく、なんとか、うん、と頷いた。慶太が、ふーん、と漏らして視線を外す。瑛実は震える指先で髪を結おうとする。亜麻色の髪は、彼女の小さな掌をするすると抜けていく。
「たまち、待ってんの?」
「うん」
「じゃあ窓しめてくからカギよろしく」
慶太が珠智に鍵を渡す。瑛実の手がほんの一瞬だけ止まる。慶太が席を離れて、友達たちと窓を閉め始める。そのあいだにもクラスメイトが次々に教室を出ていく。
「たまち、やっぱり先に行って? 時間かかっちゃいそうだから」
瑛実がにっこりと微笑む。
「……もうっ! 早くね!」
膨れっ面を隠そうともしない珠智から鍵を受け取り、ごめんね、と小首を傾げておく。彼女の背中を見送る。教室には、瑛実ひとりきりになった。窓を閉め切っているせいか、耳鳴りがする。いつも使っているはずの黒板や掃除用具入れは、どことなく輪郭があいまいで、瑛実を混乱させた。沈黙に急かされ、何とか髪を結び終える。時計を確認するとまだ数分あった。
瑛実の視線は思うともなく慶太の席へそそがれる。彼の机の木目はクリーム色をしている。ブラシを手にしたままイスから立ちあがり、彼の席へ身を寄せた。人差し指で、そっと机の表面を撫でてみる。ツルツルとしていて、自分の机よりひんやりとしている。てらりと光るそこを、しばらく、じっと見つめる。
瑛実はブラシを持ったままの右手を、ゆっくりと慶太の机の中へ入れ始めた。彼女自身は気がついていないことだったが、瑛実は殆ど息を止めていた。頬は真っ赤に染まって、目が見開かれていく。慶太の机にブラシの全てが隠れる。
ドッドッド、と胸の内側から激しく鼓動する心臓の音が響く。瑛実はぱっと右手を離した。ゴトン、と頭蓋骨に響いたその音は、想像していたよりもずっと密やかだった。瑛実は鍵を引っ手繰ると急ぎ足で教室を出た。廊下の空気は砂が混じったようにざらっとしていたけれど、肌寒いせいで清々しい。カチャン、と間違いなく鍵が閉まる音を聞いて、瑛実は駆け出した。
体育の授業を終えた瑛実は、珠智と二人で教室に戻った。すぐさま、慶太の様子を伺う。彼は友達たちとふざけ合っている。瑛実は難無く髪を解くと、しばらく辺りをきょろきょろした。そして机の中をのぞきこんでみる。手提げの中を確認していると珠智が、なにしてんの? と声をかけてくる。瑛実は曖昧な返事をしながら、お道具箱を引っ張り出す。机の中をくまなく探し、次に後ろの棚へ向かう。ランドセルを開ける。そして席へ戻って来ると、無言で席についた。
「えいみ、なに?」
「……ブラシが、なくて」
「ふーん。どこしまったの?」
「……机においたんだけど」
瑛実は不安そうな顔を作る。
「しょーがないなあ。一緒に探すから」
うん、と細い声で返事をする。二人でお道具箱をもういちど引っ張り出す。いくら探してもブラシは出てこない。そうしているうちに、お喋りしていた女の子たちも、どうしたの? と声をかけてくる。そのたびに瑛実は、ブラシがないの……、と”嘯く”。さっきの時間どうしたの、とか、どこかに転がってっちゃったのかも、と心配そうな顔を向けられるたび、瑛実の不安そうな表情が際立っていく。男の子もその様子に耳をそばだてはじめる。
「なくしたらまずい?」
「ママが買ってくれて……」
瑛実と珠智の会話の隙間にどこからともなく、盗られたんじゃない? という呟きが混じった。その言葉を受けた瑛実は、自分の目から涙が零れたのが解った。教室がにわかに騒がしくなる。誰が盗ったんだよー。知らない人が入ったんじゃない? とみんなが口々に言い始める。瑛実が、鼻先から口元を両手で覆って俯く。珠智が、えいみ、と呟いて肘の辺りにそっと手を置く。
「まだ盗られたかわかんないじゃん! 瑛実が不安になるからやめなよ!」
珠智が大きな声をあげる。男の子の中には鬱陶しそうな顔するもの、女の子の中には不満そうな顔をするものもいたが、ほとんどの女の子が、そうだよね、と瑛実を慰め始めた。瑛実は小さくしゃくり上げながら、内心では、騒ぎ始めたのは珠智なのに、と冷静だった。目の端で慶太を捉える。表情までは解らないが、こちらを見ているということは確かだった。
「もう授業始まっちゃうから、みんなありがとう」
「先生に言ったほうがいいんじゃない」
「いいの。わたしが落としたんだと思う」
瑛実は弱々しく微笑んだ。
「じゃあみんな、見かけたらえいみに渡してあげて!」
珠智がそういうと、ちょうど先生がやってきて、チャイムも鳴る。それぞれが席に戻っていく。瑛実は注意深く慶太の姿を目の端でとらえていた。前の席の友達と話していた慶太が、お道具箱に手を突っ込む。きっと触り慣れない感触がしたのだ。机の中をのぞきこむ。慶太が息を飲んでいる。表情を硬くして、こちらをチラッと見るのが映りこむ。瑛実は教科書で顔をほとんど覆ってしまった。長い睫毛の奥で弛んだ目元がそこから覗いていた。先生が国語の教科書を読むのを聞きながら、瑛実は目の端に慶太を捉え続けた。彼がときどき何気なさを装ってこちら見る。そのたびに瑛実のまだ控えめな胸は、蜂蜜を舐めた時のようにチリチリと痺れるのだった。
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10年前の作品、ほんのちょっと手直し。久しぶりオリジナル小説へ復帰すための肩慣らし。




