2 婚約者が愛している人 ②
一般的な宿屋とは違うため、子供の目には付きにくい場所にあり、馬車が通れるような広い道はない。
(今のは、ノーリーお姉様とゲッティでしたよね?)
ティファリーはパニックになりそうな気持ちを何とか落ち着かせる。
(冷静に考えなくては)
遠目からとはいえ、ティファリーがゲッティの姿を見間違うはずはなかった。
彼女はそれくらい彼のことを愛していた。
ゲッティとの婚約が決まった5年前から、彼と一緒に過ごすことが多くなり、優しい彼にどんどん惹かれていった。
彼の笑顔を見るだけで、姉たちからの嫌がらせに対する嫌な気持ちは吹き飛んでいった。
父が彼を婚約者に決めたのは、ティファリーが感じたように、とても優しい性格だからである。
彼ならティファリーを大事にしてくれると考えたのだ。
ゲッティは普段、腰まである長い髪を黒の細いリボンで一つにまとめている。
背はそう高くはないがスラリとした体型で、髪と同じく燃えるような赤色の瞳は、目を奪われるほどに印象的だ。
遠すぎて、彼の瞳の色まではわかるはずがない。しかもゲッティは今まで、ノーリーと個人的な繋がりがあるような素振りを一切見せなかった。
(お姉様たちは今まで、私に嫌がらせをしてきましたが、自分たちの評判にも関わるため、ゲッティには社交場で顔を合わせるだけだったはずです!)
そう思いつつも、不安は拭えない。
ティファリーは意を決して、御者と護衛に声を掛ける。
「あの二人がゲッティとノーリーお姉様か確認したいのです! 一緒に付いてきてもらえませんか?」
「お嬢様、お気持ちはわかりますが、お二人が向かっていった方向は、令嬢が足を踏み入れるような場所ではございません。きっと他人の空似でしょう。それよりも先を急ぎませんか。後ろを見てください」
自分が馬車を停めておいて、御者は引きつり笑いを浮かべて言った。
ティファリーとメイドが乗った馬車が停まっているせいで、他の馬車が通行しにくくなっている。 文句を言われないのは、公爵家の馬車だとわかっているからだ。
「駄目です! 他人の空似ならそれで良いのです! お願いします! 私と一緒に来てくれませんか」
ティファリーにお願いされた騎士たちは迷った。
ティファリーを治安の良くない場所に連れて行くわけにはいかない。しかし、彼らはノーリーの本性を知っている。
家族に信じてもらえないティファリーのことを気の毒に思っていたし、浮気が事実ならば、そのような男性とは別れるべきだと考えた。
しかし、ティファリーを宿屋街に連れていけば、自分たちは解雇されてしまう恐れがある。
躊躇している彼らに、ティファリーは頭を下げる。
「お願いします。ノーリーお姉様が何を言っても、あなたたちを解雇なんて絶対にさせません!」
騎士たちは躊躇したが、ティファリーの言葉を信じることに決めた。
「行きましょう」
騎士が扉を開けてくれたので、ティファリーはメイドの手を借りて馬車から降りた。
急がなければ見失ってしまう。宿屋に入られてしまえば、プライバシーを守る権利が優先される。いくら公爵家であっても、二人がどの部屋に入ったか確認することができなくなる。
一般的な宿屋街には、ティファリーも訪れたことがあった。
整備された石畳の道を挟み、小綺麗な洋館の建物が並んでいる。しかし、今回、ティファリーたちが足を踏み入れた場所はまったく違った。
一見、民家のようにも見える二階建ての木造建築の建物が道に沿って並んでいる。
通りには呼び込みをする若い男性が数人と、宿を探している複数の男女がいた。宿屋街の奥のほうに行くと、他とは違う豪華な建物があった。
王城の外観を模倣したような建物の前で、ノーリーたちは、呼び込みの男性から説明を受けていた。
目立たないようにしているのか、二人は平民のカップルを装っている。そのため、一瞬見ただけでは、知り合い程度なら確信が持てない。
しかし、ティファリーは違う。
ノーリーの腰を抱き、彼女の頭に頬を寄せて勧誘の男性の話を聞いているのは、間違いなくゲッティだった。
交渉が成立したのか、二人はうなずきあって口づけを交わした。
それは自然な流れで、躊躇いも何もなかった。
「そんな……、嘘ですよね」
一瞬にしてティファリーの目に涙が浮かんだ。
「ティファリー様、落ち着いてください」
メイドが優しく声をかけたが、落ち着いてなどいられない。
微笑み合いながら宿屋に入っていこうとする二人を見て、涙がこぼれ落ちた。
(ノーリーお姉様、そこまでして私を苦しめたいのですか)
実はノーリーも一度結婚していた。しかし、ノーリーの浮気が発覚して、一年前に離婚されていた。
両親はノーリーが浮気するはずはないので、浮気相手は教えるように相手に伝えたが「調べればわかります」と言われただけだった。
調べてみたが浮気の証拠は見つからず、両親はノーリーの元夫との取引を中止した。
公爵夫妻は、長年の付き合いで信用していた側近が、ノーリーの魔の手に落ちていることを知らなかったのだ。
(浮気は嘘ではなかったんですね。そして、浮気相手は私の婚約者だったなんて……!)
「ゲッティ!」
ティファリーは怒りと悲しみで体を打ち震わせて叫んだ。
ゲッティとノーリーは足を止めて、ティファリーのほうを振り返った。
そして、ノーリーはティファリーと目が合うと口を両手で押さえた。
「まあ! ティファリーがどうしてこんな所に!?」
驚いたふりをしているが、ティファリーを見つめるノーリーの目は、明らかに蔑んだものだった。
「や、やあ、ティファリー! こんな所で会うなんて偶然だね」
ゲッティはさりげなくノーリーから身を離し、爽やかな笑みを浮かべて話しかけた。
「偶然ではありません! 私はあなた方を追いかけてきたんです!」
ティファリーの顔は涙でぐちゃぐちゃで、目の周りのメイクは落ちてしまっている。
「おやおや。可愛い顔が台無しじゃないか」
自分の頬に伸ばしてきたゲッティの手を、後退して拒んだ。
空を切った手を不思議そうに見つめて、ゲッティは首を傾げる。
「何を怒っているのかわからないな」
「ご自分の唇を鏡で確認されてはいかがでしょう」
彼の唇や周りには不自然な形で紅色が付いている。逆に、ノーリーの唇に引かれた紅はところどころが薄くなっていた。
「ティファリー! 誤解よ! ここには一度行ってみたいとあなたが言っていたじゃない! だから、下見に来ただけ。やましいことなんてしていないわ!」
「そうだよ。君のために来たんだ。それなのに浮気を疑うなんて酷くないか? 最低だよ!」
涙ながらに訴えたノーリーに同意し、あろうことか、ゲッティはティファリーの肩を軽く押した。
ゲッティにとっては軽い抗議のつもりだった。
しかし、ショックで立っていることも辛かったティファリーには、その衝撃は大きかった。
ふらりと倒れそうになったティファリーを、慌てて騎士が抱きとめた。
「ティファリー様、しっかりしてください!」
「ティファリー様!」
騎士たちはこうなるだろうと予想していたので、躊躇していたのだ。
目の前にいるノーリーは、自己満足のためにティファリーを傷つけている。
どうして主人たちはティファリーを愛しているのに、ノーリーの言葉しか信じないのか。
騎士たちが憤りを感じていた時、支えられていたティファリーがしっかりと自分の足で立った。
(こんな情けない姿を見せて終わるわけにはいきません!)
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
気持ちを奮い立たせ、騎士に微笑んだティファリーに、ゲッティは眉をひそめる。
「婚約者の前で他の男に体を触らせるなんてどういうことかな」
「目眩がして倒れそうになったところを助けてもらっただけです」
「ティファリー、か弱いふりをして気を引くのはやめたほうがいいわ」
そう言って突然泣き始めたノーリーは、白地にピンク色の小花の刺繍がされたハンカチで涙を拭いながら言った。
(泣きたいのはこっちのほうです)
昔からノーリーは嘘泣きが得意だった。本当に涙を流すので、多くの人が騙されている。
「気を引こうとなんてしていません」
「私たちを追いかけてきたなんて嘘でしょう?」
「そうだよ。自分の過ちを隠すために、僕たちを利用するのはやめてくれよ」
ノーリーとゲッティは結託して、ティファリーを責めた。
「私はやましいことなんて何もしていません! あなたたちの言っていることのほうがおかしいです!」
ティファリーは涙をこらえて訴えたが、ゲッティに思いは届かない。
彼はティファリーに笑顔でこう告げた。
「君のためにもここで出会ったことは、ここにいる人たちだけの秘密にしよう」
「ティファリー、誰かに言ったら、あなたの印象が悪くなって、ゲッティとの婚約がなくなってしまうから黙っておくのよ?」
宿屋街に二人でいたことが、他の人に知られて困るのはノーリーたちも同じだった。
ティファリーのためだと言いながら、ノーリーは自分を守る手段を取った。
しかし、誰しも堪忍袋の緒が切れる時がある。
ノーリーはやがて、この時のことを後悔することになるのだった。




