第8話「順番の嘘」
張り始めた湯が、静かに揺れていた。
まだ浅い。
浴槽の底が、かろうじて見える。
湯気が、低く沈んでいた。
白く濁った空気の向こうで、フードの男が黙々と石を積んでいる。
——おかしい。
「……なあ」
俺は、背中越しに声を投げる。
「前に言ってたよな。“順番を守れ”って」
フードの男は、答えない。
ただ、いつも通り手を動かしている。
木材を組み、石を並べる。
無駄のない動き。
慣れている。
——慣れすぎている。
「順番を守らないと、どうなるんだっけ」
あえて、軽く言う。
試すように。
「……崩れる」
短い返答。
「風呂が?」
「全部が」
即答だった。
迷いがない。
——用意された答えみたいだ。
「へえ」
俺は一歩、近づく。
水面が、また揺れた。
誰も触れていないのに。
「じゃあさ」
足を止める。
「なんで今、順番飛ばしてるんだ?」
沈黙。
フードの手が、止まる。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
「……飛ばしてない」
「嘘だな」
被せる。
「さっきの石、位置違っただろ」
俺は指さす。
「本来、あそこは三段目の後だ」
「……」
「なのに、お前は二段目の途中で置いた」
空気が、変わる。
湯気が、冷たくなるような感覚。
「順番、守ってないじゃん」
笑って言う。
でも、目は笑ってない。
フードは、ゆっくりとこちらを向いた。
顔は見えない。
でも——視線だけは、分かる。
「……見てたのか」
「当たり前だろ」
「信用してないのか」
「してるわけないだろ」
即答。
間を置かない。
「協力はしてる。でも、それだけだ」
俺は肩をすくめる。
「お前、情報隠してるし」
「……必要なことは言っている」
「必要かどうか決めるのは、俺だ」
一歩、踏み込む。
「順番を守れって言ったのはお前だ」
「なのに、自分は破る」
「理由、あるよな?」
沈黙。
長い。
湯気の音だけが響く。
ぽたり、と水滴が落ちる。
やけに大きく聞こえる。
「……例外がある」
ようやく、口を開いた。
「は?」
「全部が全部、順番通りじゃない」
「じゃあ最初からそう言えよ」
「言う必要がなかった」
「あるだろ」
声が少し強くなる。
「ルールが変わるなら、それはもう別ゲーだ」
フードは動かない。
ただ、こちらを見ている。
「……お前は、知りすぎると動く」
ぽつり、と。
「だから言わない」
「は?」
「順番を崩す」
「勝手に決めんなよ」
思わず笑う。
呆れて。
「それ、お前がやってることじゃん」
フードの沈黙が、答えだった。
——ああ、なるほど。
「“守らせるためのルール”か」
呟く。
「本当のルールじゃない」
「……」
「従わせるためのやつだ」
フードの指が、わずかに動く。
否定はしない。
できない。
「で?」
俺はさらに詰める。
「本当は何だ?」
「順番の意味」
「底の意味」
「なんで飛ばした?」
間。
ほんのわずか。
でも——迷いがあった。
「……時間がない」
それだけ言った。
「は?」
「この風呂は、持たない」
「だから?」
「順番通りだと、間に合わない」
——初めてだ。
こいつが、“焦り”を見せたの。
「……はは」
思わず笑った。
「じゃあさ」
肩の力を抜く。
「最初からそう言えよ」
「……」
「“順番守れ”じゃなくて、“間に合わないから飛ばす”って」
「それなら、まだ信用できた」
フードは何も言わない。
でも、その沈黙がすべてだった。
——こいつは、選んでる。
情報を。
俺を。
「……なあ」
最後に、聞く。
「どこまで嘘だ?」
静かに。
でも逃がさない。
フードは、ゆっくりと首を振った。
「……嘘じゃない」
「全部じゃない、だろ」
「……」
また沈黙。
今度は、長い。
湯気が、さらに濃くなる。
視界がぼやける。
「……底には、行くな」
低く、言った。
それだけ。
理由は言わない。
説明もない。
「……それも、“守らせるため”か?」
俺は笑う。
フードは答えない。
でも——
ほんの一瞬だけ。
わずかに、視線が揺れた。
それで十分だった。
——確定。
「了解」
俺は軽く手を上げる。
「じゃあ俺、行くわ」
「……やめろ」
即答。
初めての強い否定。
「順番崩すな、って言ったのお前だろ?」
「それは——」
「例外あるんだろ?」
遮る。
「今がそれだ」
にやりと笑う。
フードが、一歩踏み出す。
「やめろ」
「無理」
「死ぬぞ」
「もう一回言ってみ?」
足を、水面へ。
ゆっくりと近づける。
鏡みたいな水面。
その奥。
暗い、底。
「なんで?」
静かに聞く。
フードは——答えない。
答えられない。
だから、もういい。
「——ああ、そっか」
俺は一人で納得する。
「知られたくないんだ」
その瞬間。
空気が、変わった。
明確に。
「そこに、“答え”があるから」
水面が、わずかに歪む。
まるで、笑ったみたいに。
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