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第9話「行くな」

 水面が、静かに揺れている。

 張り始めた湯はまだ浅く、浴槽の底がぼんやりと透けて見えた。

 黒い。

 ただ暗いだけじゃない。

 覗き込むほど、深くなる。

「——ああ、そっか」

 俺は笑う。

「知られたくないんだ」

 フードの男は動かない。

 でも、その沈黙だけで十分だった。

「そこに、“答え”があるから」

 水面が、わずかに歪む。

 まるで反応したみたいに。

「……やめろ」

 低い声。

 けど、今度は違う。

 初めて、“止めたい”声だった。

「なんで?」

 俺は浴槽の縁へ近づく。

 湯気が、低く沈んでいる。

 白く濁った空気の奥で、フードの男が一歩踏み出した。

「行くな」

「理由は?」

「……」

「またそれか」

 思わず笑う。

「お前さ、説明しないくせに止めるんだよな」

 返事はない。

 でも——

 わずかに、呼吸が乱れている。

 焦ってる。

 初めて。

「なあ」

 俺は浴槽を見下ろす。

 浅い湯の底。

 そのさらに奥。

 黒。

「ここ、何がある?」

「見るな」

「だから、なんで」

「いいからやめろ!」

 声が響く。

 空気が震えた。

 思わず、動きが止まる。

 ——今の、本気だ。

 フードの男が、こちらへ歩いてくる。

 速い。

 迷いがない。

「おい」

「戻れ」

「は?」

「今すぐ離れろ」

「……なんだよ」

 笑う。

 でも少しだけ、背筋が冷える。

 こいつ、

 本当にヤバい時だけキレるタイプだ。

 だから余計に気になる。

「そんな反応されたら、行きたくなるだろ」

 一歩。

 浴槽へ近づく。

 ちゃぷん、と湯が揺れた。

 その瞬間。

 ——音が消えた。

「……は?」

 ぴたり、と。

 湯の音も。

 空気の揺れも。

 全部。

 消える。

 世界が、一瞬だけ止まったみたいに。

「下がれ!!」

 フードの叫び。

 同時に。

 浴槽の湯が、一気に沈んだ。

「っ!?」

 吸い込まれる。

 底へ。

 渦みたいに。

 いや、

 違う。

 “落ちてる”。

 湯そのものが、下へ。

 ありえない速度で。

「なんだよこれ……」

 浴槽が露出していく。

 底が見える。

 黒い。

 深い。

 浅いはずなのに。

 底までの距離が、おかしい。

 覗くほど、

 遠くなる。

「見るな!!」

 フードが腕を掴む。

 その瞬間。

 ——見えた。

 底。

 黒の奥。

 誰かがいた。

「……は?」

 こっちを見ている。

 湯の底から。

 暗闇の中で。

 輪郭が揺れる。

 でも分かる。

 あれ、

 ——俺だ。

 息が止まる。

「戻れ!!」

 強引に引っ張られる。

 だが同時に、

 浴槽の底から“何か”が伸びた。

 黒い腕。

 水みたいに揺れながら。

 こっちへ。

「っ!?」

 世界が、軋む。

 石が崩れる。

 積み上げていた壁が、一気に割れた。

 湯気が逆流する。

 空間が、歪む。

「順番を崩すな……!」

 フードが叫ぶ。

 その声に、

 ノイズみたいな音が混ざる。

 景色が明滅する。

 銭湯。

 廃墟。

 暗闇。

 一瞬ごとに切り替わる。

「おい、これ……!」

「目を閉じろ!!」

 次の瞬間。

 足元が抜けた。

 落ちる。

 感覚だけが急降下する。

 黒。

 湯。

 音。

 誰かの声。

 全部が混ざる。

 そして——

     ◇

 ガコンッ!!

「っ!?」

 俺は勢いよく身体を起こした。

 息が荒い。

 喉が痛い。

 視界が揺れる。

 ……自分の部屋。

 見慣れた天井。

 スマホの充電ケーブル。

 散らかった服。

「……は……?」

 戻った。

 現実。

 なのに。

 耳の奥で、

 まだ排水音が聞こえる。

 ごぽ、ごぽ、と。

 風呂の水を抜くみたいな音。

「……」

 立ち上がる。

 嫌な予感がした。

 浴室へ向かう。

 扉を開ける。

 暗い。

 静か。

 誰もいない。

 なのに。

 浴槽だけが濡れていた。

「は?」

 今日、

 風呂なんて入ってない。

 なのに。

 水滴が、底へ向かって流れている。

 まるで、

 吸い込まれてるみたいに。

「……おい」

 近づく。

 覗き込む。

 排水口の奥。

 暗い穴。

 その瞬間。

 スマホが震えた。

「っ」

 画面を見る。

 知らない番号。

 メッセージが一件。

『次は、止めろ』

 短い文章。

 その下。

 続けてもう一行。

『——お前、何回目だ?』

 背筋が、凍った。

読んでいただきありがとうございます。

少しでも続きが気になったら、フォローや評価いただけると嬉しいです。

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