第3話「違う風呂」
俺はまた、風呂で死にかけた。
——いや、分かっていた。
来るんじゃない。
行くんだ。
「……いや、まだ行かない」
湯船の縁を掴む。
意識が遠のくのを、無理やり引き戻そうとする。
まだだ。
今回は、もう少し——
踏ん張る。
数秒。
いや、数瞬かもしれない。
だが、その抵抗は意味を持たなかった。
視界が歪む。
音が遠くなる。
「……クソ」
そう呟いた瞬間、
世界が、沈んだ。
気づいたとき、俺は水の中にいた。
もう驚きはない。
息ができることも、分かっている。
軽く泳ぎ、水面に顔を出す。
——違う。
「……は?」
思わず声が漏れる。
見える景色は同じだ。
石造りの建物。
汚れた空気。
だが——
人が、少ない。
明らかに少ない。
「……おい」
背後から声がする。
振り向く。
見覚えのある男。
だが、その表情は前と違っていた。
「……来るの、遅すぎだ」
低い声。
責めるような響き。
「……悪い」
反射的に謝っていた。
理由も分からないまま。
「謝って済む話じゃねえよ」
男は吐き捨てるように言う。
「もう、使えなくなってる」
「……はぁ?」
思わず、声が漏れる。
分かっている。
でも、理解したくない。
男は、顎で奥を示した。
走る。
足が、勝手に動く。
見覚えのある場所。
——そして、
言葉を失う。
そこにあったはずの風呂は、
崩れていた。
——気づけば、膝に力が入らなかった。
それでも、倒れはしない。
石はズレ、湯は抜け、
形だけがかろうじて残っている。
あのとき、直したはずの場所も。
完成しかけていたはずの部分も。
全部、壊れている。
「なんでだよ……」
思わず呟く。
ありえない。
あれだけやって、ここまで戻るのか?
「だから言っただろ」
後ろから声。
「お前がいないと、持たねえんだよ」
「……」
言葉が出ない。
視線だけが、崩れた風呂をなぞる。
理解する。
これは——
放置された結果だ。
「……俺がいないと、維持できないのか」
ぽつりと呟く。
男は、短く頷いた。
拳を握る。
迷っている暇はない。
「直す」
短く言う。
「……できるのか?」
「やるしかないだろ」
そう返して、すぐに動き出す。
石を持ち上げる。
位置を戻す。
水の流れを整える。
だが——
「……クソ、追いつかねえ」
損傷が大きすぎる。
前より明らかに時間がかかる。
それでも、手は止めない。
少しでも。
一つでも。
戻せるところを——
「……そういえば」
作業の途中で、男が口を開く。
「他にもあるらしいぞ」
「……何が?」
手を動かしたまま聞く。
「風呂だよ」
一瞬、動きが止まる。
「……は?」
「別の場所にもあるって話だ」
嫌な汗が背中を流れる。
まさか。
「お前が作ったんじゃねえのか?」
「……知らねえよ」
即答する。
だが、否定しきれない。
頭のどこかで——
“あり得る”と思ってしまった。
手が止まる。
考えが追いつかない。
だが、
時間は待ってくれない。
視界が、揺れる。
「……もうかよ」
まだほとんど直せていない。
なのに。
体が限界を迎えている。
「おい、待て——」
男の声が遠ざかる。
手を伸ばす。
石に、触れる。
だが——
そこで、途切れた。
次に目を開けたとき、俺は風呂場に立っていた。
息が荒い。
時間は、ほとんど経っていない。
「……はあ……」
短く息を吐く。
今回は短い。
明らかに、滞在時間が減っている。
「……制御、できてねえな」
壁に手をつく。
まだ感覚が残っている。
崩れた風呂。
焦る村人。
間に合わなかった手。
全部、現実みたいに鮮明だ。
スマホを取り出す。
メモを開く。
そこには——
「……なんだこれ」
見覚えのない図面。
いや、違う。
見覚えがある。
さっき聞いた、“別の場所の風呂”。
その設計図が、描かれている。
線が増えている。
場所が増えている。
やるべきことが、増えている。
「……一つじゃないのか」
小さく呟く。
そして、画面を見つめたまま、
ゆっくりと息を吐く。
「——これ、全部やらないといけないのか」




