第16話「底の声」
黒い水が、
靴の先に触れていた。
「うわぁ」
反射的に飛び退く。
でも。
遅れて。
ぞわ、と寒気が走った。
冷たい。
ただの水じゃない。
触れた瞬間、
頭の奥に何か入ってくる感じがした。
「下がれ!」
男が俺の腕を掴む。
乱暴に引く。
「うっ!」
数歩下がる。
黒い水は、
そこで止まっていた。
まるで。
境界線みたいに。
「……なんだよ、これ」
呼吸が乱れる。
男は答えない。
排水口を睨んでいる。
顔色が悪い。
「おい」
怒ったような声。
「お前、触れたか」
「……少し」
「最悪だ」
即答だった。
「だから何なんだよ……!」
「静かにしろ」
「説明しろって言ってんだろ!」
声が響く。
その瞬間。
ぴちゃん。
排水口の奥で、
また水音が鳴った。
「……っ」
男の顔が強張る。
「だから黙れって……」
低い。
本気で焦ってる声。
その時。
頭の奥で。
『——聞こえるか』
「っ!?」
耳じゃない。
内側。
直接響く。
男が怪訝そうにこっちを見る。
「……どうした」
『近い』
また声。
低い。
濡れてるみたいな声。
「……おい」
男が一歩近づく。
「顔色ヤバいぞ」
聞こえてない。
こいつには。
『お前はもう』
頭が痛い。
ズキズキする。
熱い。
なのに寒い。
『底を見てる』
「……うるせぇ」
気づけば口に出していた。
「は?」
男が眉を寄せる。
「誰と喋ってる」
「っ……」
呼吸が乱れる。
排水口。
黒い穴。
そこから。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
ぴちゃん。
水音。
リズム。
一定。
まるで。
声みたいに。
『来い』
「……だまれって」
一瞬。
景色が揺れる。
暗い浴場。
石。
湯気。
黒い水面。
その向こう。
何人も立っている。
フード。
動かない。
ただ。
こっちを見ている。
「うっ……!」
頭を押さえる。
「おい!」
男が肩を掴む。
「しっかりしろ!」
その瞬間。
視界の端。
フードの一人が動いた。
一歩。
前へ出る。
他の奴らより近い。
そいつだけ。
濡れていた。
「……っ」
知ってる。
あいつ。
湯気の中で石を積んでた。
ずっと。
こっちを見てた。
『思い出せ』
「やめろ……」
『お前は』
頭痛が強くなる。
ガンガンする。
『ここへ来たことがある』
「……は?」
息が止まる。
その瞬間。
フードが、
ゆっくり顔へ手を伸ばした。
外す。
フード。
その下。
「っ……!」
また俺。
でも違う。
目が赤い。
顔色が悪い。
濡れてる。
まるで。
長く水に沈んでいたみたいに。
『失敗した』
凍る。
『全部』
「……え」
『だから』
そいつが口を開く。
『今度は間違えるな』
直後。
バチンッ!!
視界が戻る。
「っ!?」
膝をつく。
荒い呼吸。
ゴミ捨て場。
夜風。
男が目の前にいる。
「おい!」
肩を掴まれる。
「今、何見た!?」
「……俺」
掠れた声。
「また、俺だった……」
男の表情が凍る。
「……マジかよ」
「なぁ」
呼吸が苦しい。
「なんなんだよ、あれ……」
男は答えない。
代わりに。
ゆっくり、
排水口を見る。
その顔。
初めて。
本気で怯えていた。
「……おい」
小さい声。
「お前、多分」
沈黙。
風が吹く。
そして。
「“順番”の外にいる」
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