第二話【一円の資本金と、龍の幼馴染の正体】
経堂の農大通りを二人で歩きながら、美鈴は話し始めた。
「税理士と社会保険労務士の資格、持っているの。女流棋士の資格も」
「……全部、一人で? いつの間に」
「師匠が人間ではなかったから、時間がたっぷりあったのよ」
意味深な一言を軽く流し、美鈴はスマートフォンを操作する。その指先は迷いなく画面を叩き、九条が言葉を挟む間もなく説明が続く。通りを行き交う人々が美鈴の横顔に視線を向け、そして吸い寄せられるように足を緩めた。ただ歩いているだけなのに、この女は場の空気を変える。
「合同会社について説明するわ。社員というのは、この場合オーナーのこと。あなたと私でこの会社の主になる。資本金はあなたが一円、残りは私が出す。名刺には『社長』と刷りなさい。私は副社長兼CFOとして、資金と税務のすべてをコントロールするわ」
「なぜ僕が社長で、君が裏方なんだ。実力から考えれば逆じゃないか」
「あなたには、表に立つ理由があるから」
美鈴は足を止め、九条を翡翠色の瞳でまっすぐに見た。その瞳が、普通ではない光をたたえている。
「九条くん、あなたは箱根の九頭龍神社に行ったことがあるでしょう。小学生の頃、家族と」
「……ある。芦ノ湖のほとりで、死にかけていた赤いトカゲを手で温めて助けたことがある。冷たくなりかけた身体を両手で包んで、随分と長い時間そうしていた」
「そのトカゲの目の色を覚えている?」
九条は美鈴の瞳を見た。翡翠色。あの時のトカゲと、まったく同じ色だった。
「……まさか」
「ずっと恩を返したかったの。そして、あなたのそばにいたかった」
美鈴は静かに微笑んだ。神秘的で、それでいて温かい笑顔だった。龍神が人間の姿を借りて現れた。にわかには信じられないが、この瞳の色だけは何十年前の記憶と完全に一致していた。あの日、トカゲに触れた瞬間に走った不思議な熱も、今こうして美鈴の傍らにいると感じる温もりも、同じ種類のものだ。
「詳しい話は、会社が形になってから。今は、まずこれを見て」
彼女が指差した先は、経堂の路地にある雑居ビルの一階。元雀荘の跡だった。薄暗い空間の中央に一台の古い将棋盤があり、その傍らに転がる王将の駒の裏には、紅龍の紋様のような赤黒い刻印が施されていた。
『この詰みを解いた者に、この場所を譲る。ただし、解けぬ者は命を置け』
(詰みを解く者が来るのを、この盤はずっと待っていたのかもしれない)
足元に積もった埃が、九条の靴の先でかすかに舞い上がった。外からは夕暮れの経堂の喧騒が、遠く薄く聞こえてくる。




