第三話【マイクロ法人の魔女と、指先一つの起業術】
「九条くん、スマホを貸して。現代の起業は、指先一つで世界に産声を上げる優雅な儀式よ」
経堂の駅前カフェ。美鈴は九条のスマートフォンを受け取り、淀みない手つきで画面を操作した。
「待って、まだ印鑑も用意していないし、法務局がどこにあるかも知らない」
「そんなものは後回し。今はクラウドで定款を生成する時代よ」
画面には最新のクラウド設立サービスが映し出されていた。
「代表社員、九条龍一。もう一人の社員、五十嵐美鈴。本店所在地、世田谷区経堂。目的、将棋道場の運営および飲食店の経営。資本金はこれでよし」
「登記には印鑑が必要では」
「特急注文済みよ。明後日届く。でも今の時代、法務局に直接行く必要すらないの。電子署名でオンライン申請が完了する。しかも電子定款なら収入印紙の四万円も不要。賢いマイクロ法人の基本ね」
「……本当に知識が半端じゃないな。いつ調べたんだ」
「それだけじゃないわ」と美鈴は続けた。「九条くんと再会する前に、私は世田谷区の『特定創業支援等事業』の講義を全課程受講して証明書を取得してあったの。これがあれば登録免許税が半額の三万円で済む。電子定款と合わせると法定費用はたったの三万円。浮かせた分で道場の備品が買えるでしょう?」
「……用意周到どころじゃないな。いつからこの計画を?」
美鈴は少し間を置き、翡翠色の瞳を窓の外へ向けた。
「あなたに再会する日を、ずっと待っていたの」
その一言の重さに、九条は言葉を失った。龍神が、一人の男を待ちながら着々と準備を重ねていた。証明書の取得、資格の習得、物件の目星。すべてが九条という触媒を迎えるための布石だったのだ。
「銀行口座はオンライン専業銀行を使う。審査が早くて手数料も安い。設立直後の法人でも柔軟に対応してくれる。登記が完了したら同時に法人用の証券口座も開設するわ。あなたの投資の勘を、法人の資産運用として昇華させるの」
「法人口座か。個人資産と会社の金が混ざらなくて済む。でも僕の投資はことごとく外れているんだが」
「個人でやるから外れるの。法人格と私の補佐があれば話は変わる。あなたの感覚は間違っていない、環境と資金力が足りなかっただけよ」
美鈴は断言した。九条を嘘で慰める目ではない。本気で、確信して言っている。
「そうよ、社長。あなたは今日から、世田谷に一円で城を築いた王よ。最強の歩兵が金へと成る瞬間を、特等席で見せてあげるわ」
窓の外では夕暮れの経堂が紫に染まっていた。九条はまだ何者でもない。しかし美鈴の指先がスマートフォンに叩き出すデータは、確実に一人の無職の男を、一個の法人の主へと作り変えようとしていた。
画面に「申請受付完了」の文字が浮かんだのは、日が沈む直前のことだった。九条は黙ってその画面を見つめ、それから美鈴の横顔を見た。彼女は満足そうに微笑んでいる。
(この人は運命の人!)
そう確信した瞬間、九条の胸の奥で何かが温かくなった。




