第一話【夢の中の龍神と、馬事公苑の幼馴染】
芦ノ湖を覆う夜霧は重かった。
山の奥から流れ落ちる湿った冷気が湖面を這い、岸辺の葦や石畳を濡らしながら、九頭龍神社の奥宮へと静かに流れ込んでくる。その霧には腐った水草と古木の匂いが混ざっていたが、社殿へ近づくにつれ、それとは別の冷たく厳粛な気が微かに鼻を刺し始めた。
結界の中央に、女が膝を折っている。
白い単衣に包まれた細い背中へ濡れた黒髪が絡みつき、青白い肌が夜の闇に浮かび上がっていた。その腰帯の下、衣の裾から覗く白磁の肌に刻まれた紅い龍の紋様が、微かに熱を帯びて輝いている。
龍だった。
まるで生きたまま女の肌へ喰い込んだような龍が、薄暗い社殿の中で妖しく浮かび上がっている。
夢の中で私は知っていた。これが千年続く儀式だということを。九条家の男たちが代々受け継いできた役目――龍神の器と向き合い、その荒ぶる霊力を「人の世の智慧」へと変換させること。その血を以て触媒となり、龍に知略の源泉を与えること。
縄を握る代わりに、私は静かに手を伸ばし、女の額に触れた。
その瞬間、社殿の空気が一変した。龍の紋様の赤みが翡翠色の光へと変わり、女がゆっくりと顔を上げる。潤んだ瞳の奥で龍の熱が揺れていた。その瞳の色は、見たことがあった。幼い頃、芦ノ湖のほとりで拾い上げた小さな赤いトカゲの、あの翡翠色と同じだった。
私の脳裏へ、見知らぬ光景が流れ込んでくる。
濡れた舗道。夜の灯り。硝子窓の奥で向かい合う男女。静まり返った店内へ響く駒音。将棋盤を挟み、互いの呼吸を読み合う人間たちの熱。盤上で勝ち続けるたび、女はさらに人を惹きつけ、さらに知略を研ぎ澄ませ、まるで龍が財を呼び込むように、人も運も自分の側へ引き寄せていく。そして、その隣には、いつも俺がいる。
「龍神の器と九条の血が共鳴するとき、龍は人の世に知恵をもたらす」
そう囁いた瞬間、暴れかけていた気配がゆっくり静まっていく。
「九条様、私は人間になりたい。そして九条様のそばに――」
その声とともに、夢が消えた。
「九条くん。そんなに眉間にシワを寄せていたら、幸運が逃げていくわよ」
涼やかな声が降ってきた。
五月の湿り気を帯びた風が、世田谷・馬事公苑の草木を揺らしている。スマホの証券アプリが刻む、なけなしの貯金の含み損という名の真っ赤な数字。日経平均先物の含み損は今日も拡大し、口座残高はもはや笑えない水準に達していた。どうやらベンチで眠りに落ちていたようだ。
顔を上げた瞬間、九条龍一は言葉を失った。
翡翠色の瞳。艶やかな黒髪。記憶の中の少女の面影を、残酷なほど美しい女の輪郭へと上書きした人物が、そこに立っていた。
「美鈴?」
「やっと気づいた。随分と疲れた顔をしているじゃない」
五十嵐美鈴。小学校の転校生として現れ、ある日突然消えた幼馴染。数年ぶりの再会だった。
大学を出てからずっと自分を「フリーランス」と名乗ってきたが、実態は何でも屋バイトと個人投資の二刀流だ。そして投資はことごとく外れ、バイトの収入は雀の涙。無職と呼ばれても反論できない現状が、五月の朝日の中で鮮明に突きつけられている。将棋で言えば王手飛車取り、逃げ場のない詰み寸前だ。
美鈴は隣のベンチに腰を下ろし、九条を翡翠色の瞳でまっすぐに見つめた。
「九条くん、あなたに頼みがあるの。私と一緒に会社を作って、世田谷に将棋喫茶を開いて欲しいの」
九条の脳裏に、夢の光景が蘇る。盤上の灯り。静まった店内の駒音。
「いきなり何を言って」
「詳しい話は歩きながら。あなたの出資は一円でいいわ」
美鈴はバッグから一通の書類を取り出し、九条の膝の上に置いた。『合同会社設立登記申請書』。既に美鈴の署名欄が埋まっている。九条の欄だけが、白く空いていた。
九条は書類を見つめ、そして美鈴の翡翠色の瞳を見た。小学生の頃、この目を初めて見た瞬間から、自分の何かが変わった気がしていた。夢の中の龍と、この瞳の色が重なる。
「……聞くだけ聞こう」




