三日目 ③
駅までの道は、それほど混んでいなかった。
仕事帰りの人は多いが、昨日の雨のように急いでいる人はいない。風も弱く、歩くにはちょうどいい夜だった。
悠真と美月は並んで歩いた。
少し前まで話していたのに、今は会話が途切れている。
気まずいわけではない。
ただ、美月が転職について話してから、悠真は何を言えばいいか分からなくなっていた。
「ねえ」
美月が先に口を開く。
「ん?」
「さっきの話なんだけど」
「転職?」
「うん」
「何?」
「もし、本当に遠くに行くことになったらさ」
美月は前を向いたまま言った。
「寂しい?」
悠真はすぐには答えられなかった。
聞かれると思っていなかった。
「俺が?」
「他に誰がいるの」
「いや……」
美月が横を見る。
「どうなの?」
普通に答えればいい。
さっき店の中で感じたことを、そのまま言えばいい。
遠くに行ったら寂しい。
今日も会えて嬉しかった。
明日も会えたらいいと思っている。
それだけだ。
けれど、口を開くと違う言葉が出た。
「まあ、ちょっとは」
美月が止まった。
悠真も二歩ほど進んでから止まる。
「ちょっと?」
「いや、まあ」
「ちょっとなんだ」
美月が笑う。
冗談っぽい笑い方だった。
「そういう意味じゃなくて」
「いいよ、別に」
「何で怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「怒ってません」
「じゃあ何」
「何でもない」
美月はまた歩き出す。
悠真も隣へ戻った。
「だってまだ決まってないんだろ?」
「そうだけど」
「だったら今から寂しがってもしょうがないじゃん」
「別に今から落ち込んでって言ってるわけじゃないよ」
「じゃあ何て言えばよかったんだよ」
「知らない」
「何だそれ」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
美月は数歩歩いてから、息を吐いた。
「ごめん」
「何が?」
「変なこと聞いた」
「いや」
「忘れて」
「でも」
「本当にいいから」
美月は笑った。
今度は少し自然な笑い方だった。
「転職もまだ決まってないし」
「うん」
「応募するかどうかも迷ってる」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ何で今日話したの?」
「……誰かに聞いてほしかったから」
「俺でよかったの?」
「悠真だったから話したんだけど」
悠真は何も返せなかった。
美月が少しだけ前を歩く。
その言葉の意味を考える。
自分だから。
それが高校時代からの友人だからなのか。
最近また会うようになったからなのか。
それとも別の理由があるのか。
分からない。
でも、悪い気はしなかった。
「美月」
「何?」
「さっきの」
「何?」
「寂しいかってやつ」
美月が振り返る。
悠真は言葉を探した。
本当は、今言えばいい。
普通に寂しい。
行ってほしくないと思った。
その一言でいい。
「……いや」
「何?」
「やっぱいい」
美月が目を細める。
「それ私のやつ」
「うつった」
「悪いところばっかりうつるね」
「美月が言うなよ」
また少し笑い合う。
結局、本当のことは言えなかった。
駅が見えてくる。
改札前まで来ると、美月が立ち止まった。
「じゃあ帰るね」
「うん」
「明日は仕事?」
「仕事」
「私も」
「普通そうだろ」
「そうだけど」
美月は少し迷ってから言う。
「じゃあ、また連絡する」
「うん」
「悠真からしてもいいんだよ?」
「分かってる」
「本当に?」
「するよ」
「いつ?」
「そのうち」
「ほら」
美月が笑う。
「冗談だって」
「最近それ多い」
「じゃあ明日」
「……うん」
「また明日」
美月は手を上げ、改札を抜けていった。
悠真は少しの間その背中を見送った。
帰りの電車。
空いた席に座る。
窓には自分の顔が映っていた。
「ちょっとは、か」
今さら自分の言葉を思い出す。
何であんな言い方をしたのか。
別に格好つける必要もなかった。
美月とは高校時代からの友人だ。
遠くに行ったら寂しい。
それくらい普通に言えばよかった。
スマートフォンを取り出す。
美月とのトーク画面を開く。
『さっきの話だけど』
打つ。
消す。
『遠く行ったら普通に寂しいよ』
そこまで打った。
指が止まる。
「……今送るのも変か」
また消す。
電車が動き出す。
窓の外へ町の明かりが流れていく。
家に着いてから送ればいい。
いや、明日会った時でもいい。
その方がちゃんと伝わる気がする。
美月からメッセージが来た。
『家着いたら連絡して』
悠真はすぐ返す。
『了解』
少しして、もう一件。
『今日は話聞いてくれてありがと』
『何もしてないけど』
『聞いてくれたじゃん』
悠真は画面を見つめた。
『転職、頑張れよ』
打ってから、また違う気がして消す。
結局、
『また話聞くよ』
と送った。
美月から、
『うん』
とだけ返ってくる。
それから少しして、
『じゃあまた明日』
悠真は小さく笑った。
『また明日』
送信する。
家に帰ったら、ちゃんと言おうと思った。
でも家に着いて、風呂に入り、夕食を済ませる頃には、少しだけ気持ちが落ち着いてしまった。
今日言わなくてもいい。
明日がある。
明日になったら、美月にちゃんと言えばいい。
「普通に寂しいって」
一人で口にしてみる。
思ったより簡単な言葉だった。
スマートフォンをベッドの横に置く。
明日なら言える。
今日より少しだけ、素直に。
悠真はそう思いながら目を閉じた。
言わなかった言葉は、まだ間に合うものだと信じていた。




