第9話 消えゆく残雪、飛び散る火花
ある日の夕暮れ。翠蓮は、いつものようにひと暴れして修練を終えた。肩で息をしながら地面に座り込む。
赤く燃える夕日が、汗に濡れた自分の横顔を、まるで炎のように烈しく照らしていた。
「……ふぅ」
ひと心地ついて、何気なく縁側のほうを振り返った。
その瞬間、驚くほど凪いだ景安の瞳と、まっすぐに視線が交差する。
影の中に佇む彼の美しい顔を見上げて、翠蓮の心臓が、立ち合いの鼓動とは違う意味でドクリと跳ねた。
──彼は、まるで雪山のようだ。
ただそこにあるだけで、誰も寄せ付けないほど壮大で、美しい。けれど、あまりに超然としすぎていて、どこか現実感が希薄なのだ。
陸光から聞いた、「山を下りたら死ぬ」というあの理不尽な予言。
もしその時が来たら、春の訪れとともに消え去る残雪のように、この男もまた、自分の目の前から跡形もなく溶けてなくなってしまうのではないか。
手を伸ばせば届くほど近くにいるのに、掴もうとした瞬間に消えてしまいそうな、冷たくて儚い雪。
そんな、いつか彼を失ってしまうのではないかという、愛おしさと裏返しの恐怖が、翠蓮の胸をぎゅっと締め付ける。
視線が合っていたのは、わずか数秒のことだった。
景安がふいと、いつも通りの気怠げな様子で視線を外す。
「柳姑娘、そんなに私を見つめてどうしたのですか。まさか、また私が仙人に見えて拝みたくなったとか?」
「な、何言ってるのよ、バカ言わないで!」
翠蓮は慌てて立ち上がり、顔の熱さを隠すように、わざとドタバタと大きな足音を立てて庵へと歩き出す。
口を開けば、いつもの中身のない、子供のような言い合い。
──けれど。
自身の胸の奥に灯ってしまった、烈しくて切ない熱は、夕闇が世界を完全に包み込んでも、決して消えることはない。
翠蓮は無自覚な恋心の隅で、確かにその熱に気づきかけていた。
◇
昼の激しい修行を終え、夜になっても、翠蓮の胸に渦巻く熱は冷めることを知らなかった。
時が過ぎるのはあっという間だ。この庵での居候生活を始めてから季節が一つ移り変わり、いつの間にか夏になっていた。日中はあれほど暑いというのに、山の上は標高が高いせいか、夜になると肌寒いくらいに冷え込む。
パチパチと爆ぜる焚き火をじっと見つめながら、翠蓮は胸の中で小さく焦りを募らせていた。
もう、春から夏になってしまった。自分はあの男に一度も勝てないまま、ただ時間だけが流れていく。
「柳姑娘、そろそろ部屋に入らないのですか」
ふいに背後から声をかけられ、翠蓮はハッと肩を揺らした。
振り返ると、そこには景安が立っていた。いつもならとっくに寝ている時間なのに、珍しくまだ起きているらしい。
「もう少しだけ鍛錬してから寝るわ」
「日中もかなり激しく動いていましたよ。休むのも鍛錬のうち――」
「休んでなんていられない!」
諭すような景安の言葉を遮るように、翠蓮は強い調子で言い放った。
「私はもっと強くならなきゃいけないの。お父様の無念を晴らして、柳家の名をもう一度江湖に──」
燃える薪の炎を見つめながら、翠蓮はきつく拳を握りしめた。
他の誰かにはもちろん、陸光にさえも、柳家の過去など絶対に語るつもりはなかった。同情されたいわけでも、過去の傷を舐め合いたいわけでもない。ただ己の力で名を挙げ、家名を再興する未来だけを信じて、これまで真っ直ぐに突き進んできたのだ。
だが──。
景安はふう、と小さく息を吐くと、翠蓮の対面に静かに腰を下ろした。
パチパチと焚き火の爆ぜる音だけが響く中、彼は頬杖を突いたまま、あの凪いだ瞳でじっと自分を見つめている。
この男に尋ねられた、あの時の「問い」。それは答えを出せないまま、今もずっと胸の奥でくすぶり続けていた。
『どのような正義をその刃に掲げ、何のために剣を振るうのか』
自身の目標を追うのに精一杯で、そんなこと考えたことさえなかった。
けれど、景安は言葉にせずとも、独自の重い覚悟を背負って生きている。そのことが、彼の佇まいから嫌というほど伝わってくるのだ。彼を深く尊敬しているからこそ、一本気な翠蓮は、その問いを有耶無耶にしたままでいたくはなかった。
「……景安。あんた、前に、何のために剣を振るうのかって聞いたでしょ」
炎を睨みつけたまま、翠蓮はぽつりと切り出した。
「柳家はね、かつて魔教の陰謀に巻き込まれたの。門弟の一人が犯した過ちのせいで世間から『邪の門派』って汚名を着せられた。お父様は責任を取って門派を潰して、私には普通の娘として幸せになれって言い遺して死んじゃった。……幼馴染からも夫婦になろうと言われたけど、私は全部振り切って十七歳で南州を出たわ」
江湖で「邪教の生き残り」と冷笑され、傷つけられても、真っ向勝負できり伏せてきた。そうして強く、頑なでいなければ、冷たい世間に心が折れてしまいそうだったから。
「私はお父様が大切にしてた柳家の潔白を証明したい。でもね、あんたに問われて、やっと気づいたの。私が本当に証明したいのは、柳家の技が『調和』を重んじる、優しくて美しい武術だってこと。……誰かを傷つけるための邪術なんかじゃないってことを、私のこの剣で示したい。そしてこの剣で少しでも多くの人を守りたい。それが、私の掲げる正義よ」
ずっと胸の奥で温めていた、覚悟の答えをすべて告げ、翠蓮は真っ直ぐに顔を上げる。
いつもの毒舌を警戒して身構えたが、景安は皮肉を言うどころか、ただ静かに目を細めただけだった。その眼差しは驚くほど優しく、そしてどこか、今にも消えてしまう幻を見つめるように切ない。
「……何よ」
黙り込んだ彼に耐えかねて、翠蓮はぶっきらぼうに口を開いた。
「いえ。……ただ、あまりに眩しいなと」
「え……?」
「そんなに激しく命を燃やして、暗闇へ飛び込んでいこうとする。……柳姑娘、あなたのその熱は、いつかあなた自身をも焼き尽くしてしまいそうだ」
景安はそう言って、すっと長い手を伸ばした。
白い指先が、夜風に煽られて翠蓮の方へ飛びそうになった小さな火の粉を、遮るように手のひらで包み込む。
「……危ないですから、あまり火に近づきすぎないように」
吐き出された声は、いつも通り淡々としていた。けれど、彼の手のひらの中で一瞬にして消えた火花の名残を見て、翠蓮の胸は、焚き火の熱とは違う意味でドクリと熱くなる。
向けられた眼差しの意味は分からない。けれど、初めて自分の「本質」を、その危うさごと丸ごと受け止められたような気がした。
自分を案じるような彼の眼差し。それは孤独に戦い続けてきた翠蓮にとって、夜の寒さを忘れさせるほどに温かく、そして、ひどく戸惑うものだった。




