第8話 神域の舞と、たった一つの宝物
百敗、百十敗――。
もはや自分でも数えなくなった敗北を積み重ねながらも、彼との距離は、少しずつ、けれど確実に縮まっていた。
毎日、全力でぶつかっては、ひらりと躱される。
その果てしない繰り返しのなかで、言葉以上の何かを、互いの剣から、その佇まいから感じ取るようになっていた。
容赦なく襲いかかる自分の刃を、景安はいつも、彼女の髪一筋さえ傷つけない絶妙な風をまとって受け流す。最初の頃に抱いていた刺々しい空気はいつの間にか消え去り、今やそこにあるのは、奇妙なほどに心地よい二人の呼吸だった。
(……ただ、たまにあいつが、あの時みたいに妙に優しい顔で笑うから、調子が狂うのよ)
時折、ふいに交わされる彼の凪いだ視線。
それを見つめていると、あの日言われた「可愛いところもあるのですね」という声が脳裏をよぎり、翠蓮の胸の奥が跳ねる。
きっと、この微かな動揺も、あの底意地の悪い男にはすべて見透かされているのだろう。いつもならすぐに意地悪くからかってくるはずなのに、なぜか今日の景安は何も言わず、いつもより少しだけ長く、じっと視線を合わせてくる。
向けられる眼差しの熱さに耐えかねて、翠蓮は慌てて剣を引き、ふいと顔を背けるのだった。
◇
ある風の強い日の午後。
翠蓮は一人、早々に麓での買い出しを終えて山へと戻ってきた。
陸光はここ最近、庵を訪れていない。けれど、幾度となく往復した山道だ。伴がいなくとも、迷わず帰り着くことができた。
(景安の好物の干し肉も調達できたし。……少しは喜ぶかしらね)
普段は仙人のように浮世離れしている男が、干し肉を差し出すと、子供のようにモグモグと根気強く咀嚼する。そのちぐはぐな姿を脳裏に描き、翠蓮の唇から小さく、くすりと愛おしげな笑いがこぼれた。
だが、庵の敷地に足を踏み入れた瞬間、裏手から届く奇妙な「音」が彼女の鼓膜を捉えた。
それは、武芸者が剣を振るうときの、風を裂く鋭利な響きではない。
まるで周囲の木々が一斉に共鳴して波打ち、大地の深奥から太古の水流が湧き出すような──優しく、けれど天地の理そのものを揺るがすような、不思議な「地鳴り」の奔流だった。
(……あいつ、一体何をしてるの?)
胸騒ぎと好奇心に駆られ、竹籠を背負ったまま裏庭へとそっと回り込む。翠蓮は、そこで完全に釘付けになり、息を呑んで言葉を失った。
──裏庭に佇んでいたのは、景安だった。
雪のように白い衣を鮮やかに翻し、彼は一本の古びた木剣を手に、ただ、流れるような美しさで舞っていた。
「……っ」
翠蓮は胸を突かれ、息をすることさえ忘れた。
その身のこなしには、武芸者が放つ特有の「戦うための気迫」が一切ない。血生臭い殺気も、強引な力みも皆無だ。なのに、彼が木剣で虚空をなぞるたび、周囲の空間そのものが陽炎のようにぐにゃりと歪む。
景安が剣を鋭く突き出せば、突風が吹き荒れて空気を引き裂き、青々とした木々の葉を天高く巻き上げる。彼が流れるように剣を引けば、宙を舞う数千の瑞々しい青葉が、まるで彼の呼び声に応じる生き物のように、彼の周囲を綺麗な同心円を描いて旋回し始めた。踏みしめる彼の足元からは、大地の脈動が目に見える波紋となって地を奔り、周囲の草花が彼を祝福するようにいっせいに揺れ動く。
──この世のものとは思えない、神域のような情景。
生命力に満ちた緑が乱舞する中心で、一頭の若き龍のように優雅に、そして恐ろしいほどの美しさで──景安は、そっと剣を収めた。
役目を終えた青葉たちがさらさらと地面に舞い降り、元の静寂が戻ってくる。木剣を肩に担ぎ直した景安は、「ふぅ」と小さく吐息を漏らした。
「……やはり、少し身体を動かさないと鈍るな」
吐き出されたのは、あまりにもいつも通りの、緊張感のない気怠げな呟きだった。当の本人は、これをただの暇つぶしの軽い運動程度にしか思っていないらしい。
翠蓮は込み上げる感動のままに手を叩く。
パチパチパチ! と、静寂の戻った庭に小気味よい音が響き渡る。
「すごいわ、景安……っ!!」
景安が驚きに振り返るより早く、翠蓮は両頬を紅潮させ、目をらんらんと輝かせて駆け寄っていた。
景安は、いつになく面喰らった顔で一歩、後退る。
「な、何ですか柳姑娘。いつ戻ってきたのですか。人の運動を覗き見るなど、悪趣味が過ぎますよ」
「今の、一体何をしたの!? まるで講談に出てくる、天の法術を操る最高位の剣仙みたいだったわ……! あんなに、あんなに綺麗なもの、私、生まれて初めて見た!」
「…………え?」
景安の動きが、完全に静止した。
いつも水鏡のように凪いでいるはずの彼の瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれている。凄まじい衝撃をその身に受けたかのように。
先ほどの技の理屈も、彼が背負う運命も、翠蓮は何も知らない。けれど、ただ真っ直ぐに、純粋な感嘆を込めて──彼女は、彼の振るった力を「綺麗だ」と、そう称したのだ。
景安は言葉をなくして彼女を凝視している。その眼差しにさらされ、翠蓮はなぜだか急に恥ずかしくなってきた。
「……柳姑娘」
「何よ? あ、もしかして、あまりの凄さに本当に仙人へ昇華しちゃったの?」
「……はぁ。あなたの頭の中は、年中お祭りのようで本当に羨ましいですね」
景安は耐えかねたように、ふいと露骨に顔を背けた。艶やかな黒髪がさらりと揺れて、彼の横顔を隠してしまう。
翠蓮は、当然のように気づいていなかった。
辛辣な毒舌で必死に動揺を誤魔化した景安の、白い耳の付け根が、隠しきれずにじわりと朱に染まっていたことに。
「さ、お喋りは終わりです。喉が渇いたので、早くお湯を沸かしてください」
「もう! 最高の余韻が台無しじゃないのよっ!!」
先ほどまでの神聖な態度を一転させ、いつものぐうたらな調子に戻った景安に、翠蓮はプリプリと怒りながら庵へと駆けていく。
籠を置いて厨房へ向かい、竃に火をつけながら、翠蓮はなんとなく気になって窓から庭を盗み見た。
庭の真ん中、木剣を持ったまま立ち尽くしていた景安が、ぽつりと、何かを自分にしか聞こえない声で呟いたのが見えた。
彼は、まるで生まれて初めて見る温かい宝物でも手に入れたかのように、そっと自分の胸元を押さえ──それから、誰に見せるでもなく、ふわりと小さく優しく微笑んだのだ。
──っ。
翠蓮は慌てて窓の影に身を隠した。ばくばくと、心臓がうるさいくらいに脈打っている。
なによ、あいつ。いつもぼーっとしてるくせに、あんな風に笑うなんて反則じゃない。
胸の奥の、ずっと冷え切っていた場所が、じわじわと温かい熱で満たされていくような。そんな不慣れな心の疼きに、翠蓮は戸惑うばかりだった。




