第7話 夢見がちな女侠と、仙人の微笑み
──八十連敗。
最悪の記録を更新したその日も、翠蓮はいつものように、景安に一度の攻撃さえ届かないまま地面に転がされていた。
乾いた音を立てて、土に深々と刺さる愛剣。
これほど血の滲むような鍛錬を毎日欠かさず積んでいるというのに、かすり傷一つ負わせられない。全く勝てる気がしなかった。果てしない絶望の壁が、目の前にそびえ立っている。
翠蓮は泥を払い、じんじんと痺れる己の手のひらを悔しげに見つめた。
負けを認めてこのまま山を降りるなど、己の信念が絶対に許さない。
(でも……これじゃあいつまで経っても、私はこの山から出られない。家名再興なんて、夢のまた夢だわ……)
自分の無力さに胸を掻きむしられ、刺さった剣の柄を強く握りしめた、その時だった。
「柳姑娘。あなたは何のために、その剣を手にしているのですか」
頭上から降ってきたのは、静かな、けれどどこか値踏みするような景安の声だった。
翠蓮は一瞬、面食らったように顔を上げ、瞬きをした。
「何って……そんなの、決まっているじゃない。柳家の家名再興のためよ」
「目的を聞いているのではありません」
景安は首を横に振り、いつもの気怠げな光を消した瞳で、泥まみれの翠蓮をまっすぐに見つめ返した。
「どのような正義をその刃に掲げ、何のために剣を振るうのか、と聞いています」
──正義。
予期せぬ重い単語を突きつけられ、翠蓮は言葉に詰まった。
没落した家名を興す。亡き父の無念を晴らす。そればかりを盲目的に追いかけていた彼女にとって、己の剣が成すべき「大義」など、未だ輪郭すら結んでいない問いだった。
自分の弱点を正確に射抜かれたような心地がして、翠蓮は悔しさを誤魔化すように、鋭い視線で彼を睨み返した。
「な、に一丁前に格好つけたこと言ってるのよ。……じゃあ、あんたは? あんたもその圧倒的な強さで、何かの『正義』のために剣を持ってるって言うの?」
冗談めかしてはぐらかそうとした。そうでもしなければ、彼の放つ不可視の威圧感に押し潰されそうだったからだ。
だが、そんな翠蓮に対し、景安は淡々と、しかし一点の曇りもないはっきりとした声音で答えた。
「もちろん、そうです」
その迷いのない響きに、翠蓮の息が止まる。
(嘘……じゃない)
いつも縁側で寝転んでいるぐうたら男の、初めて見る剥き出しの顔。
彼は語らない。語らないけれど、その揺るぎない双眸の奥には、彼が背負い続けなければならない、孤独で絶対的な「何か」が確かに宿っていた。
自分の家名再興などという私怨が、ひどくちっぽけに思えてしまうほどの、底知れない覚悟の重さ。
「答えられないのなら、あなたの剣はまだ、ただの鉄の棒に過ぎません。……頭を冷やして、自分の正義とやらを見つめ直すがいい」
景安はふいと視線を外すと、いつもの気怠げな引きこもりの顔に戻って、縁側へごろんと横になってしまった。
突き放された翠蓮は、悔しさに拳をきつく握りしめながらも、地面に刺さった愛剣をじっと見つめた。
ただ勝つためではなく、亡き父が自分に剣を授けた本当の意味──己の胸の奥にある「剣を持つ理由」と、彼女は生まれて初めて、真正面から向き合い始めるのだった。
◇
ある日の午後。
景安が奥の部屋で日課の深い昼寝に落ちている間、庭では翠蓮と陸光が、薪を割りながら雑談に花を咲かせていた。
「ねえ、陸光。私、やっぱりずっと考えているんだけど……」
翠蓮はふっと真面目な顔になって斧を置くと、静まり返った母屋のほうを振り返った。
「景安って、本当に人間なのかしら?」
「えっ? 翠蓮姉さん、またその話?」
陸光が困ったように苦笑する。
「だって、おかしいじゃない! 私の必殺の剣を、立ち上がりすらしないで、まるですべての軌道が見えているかのようにひらりと躱すのよ?
呼吸ひとつ乱れないし、食事のとき以外は、まるで自然の風景の一部に溶け込んでいるみたい。
……実はあいつ、人間のふりをして暮らしているだけで、本当は本物の『仙人』か何かなんじゃないかしら。うっかり下界に落ちてきて、この山から出られなくなった、とか……」
お気に入りの講談の物語を熱心に引き合いに出しながら、大真面目に熱弁をふるう。
翠蓮の瞳は、普段の気の強い女侠のものとは思えないほど、少女のようにキラキラと輝いていた。
家名再興という重い宿命を背負う彼女だったが、その本質は、おもしろい物語や不思議な伝説が大好きな、ちょっぴり夢見がちな空想家なのだ。
「ぷっ……あははは! 翠蓮姉さん、それ本気で言ってるの!?」
「ちょっと、笑わないでよ! 私は真剣に──」
「──なるほど。私は仙人でしたか」
「ひゃいっ!?」
背後から突然かけられた、落ち着いた声に、翠蓮は文字通り飛び上がった。
振り返ると、いつの間にか起きてきていた景安が、柱に背を預けて立っていた。やや眦の下がった眠たげな目は、相変わらず凪いでいる。本当に、いつの間にそこにいたのか、足音ひとつ聞こえなかった。
「兄さん!? 起きてたの!?」
陸光が目を丸くする。景安は小さくあくびを噛み殺した。
「柳姑娘の声が大きくて目が覚めました。……まさか、私が人間ではないと思われていたとは」
「な、ななな、何よ! いつから聞いてたのよ!?」
翠蓮の顔が、一瞬にして茹で上がったように真っ赤になる。
(バカ、私のバカ! あんな子供みたいな妄想、よりによって本人に聞かれるなんて……! 絶対に『現実を見ろ』とか、またこの前みたいな冷たい目を向けられるに決まってるわ……!)
翠蓮はギュッと目をつむり、次に飛んでくるであろう、景安の淡々とした言葉に身構えた。
しかし──返ってきたのは、静かな衣擦れの音だけだった。
すっと翠蓮に歩み寄った彼は、彼女の耳元の髪に、一瞬だけ優しく指先で触れた。
驚いて翠蓮が目を開けると、景安の綺麗な指先には、薪割りの拍子に飛んだ小さな木屑が挟まれている。彼はそれを、ふっと息で吹き飛ばした。
そして──景安はふわりと、穏やかに目を細めて微笑んだのだ。
「柳姑娘の頭の中は、なかなか夢見がちで可愛いところもあるのですね」
「え……」
驚くほど優しく、どこか愛おしむような、初めて見る表情だった。ドキリと、胸の奥が不意に大きく跳ね上がる。
「仙人、ですか。……もし私が本当にそうだとしたら、真っ先にあなたを私の『眷属』にでもして、どこへ行くにも連れて歩けますが……あいにく、ただの怠け者なもので」
景安はそう言って、またいつも通りの眠たげな目に戻ると、「ふあぁ」と欠伸をして縁側に腰掛けた。
「さ、お茶にしましょう。柳姑娘、お湯を沸かしてください」
「──っ、自分で沸かしなさいよ、このぐうたらーーーッ!!」
翠蓮は真っ赤な顔のまま叫んで、逃げるように厨房へ駆け込んだ。
バクバクと、心臓がうるさいくらいに脈打っていて、耳まで熱い。
(なによ、あいつ……なによ、今の……!!)
いつもぼーっとしてるくせに、あんな顔もできるなんて。
茶器を握りしめながら、翠蓮は自分の胸の奥が、これまでにないほど熱くなっていることに戸惑うばかりだった。
パチパチと竈の薪がはぜる音の向こう、庭の方から、陸光が「兄さん、今の反則だよー!」「……何のことですか。私はただお茶が飲みたいだけです」と、何やら小突き合っている声がかすかに聞こえてくる。
ふと窓から庭を盗み見ると──縁側に座る景安が、居心地悪そうにそっぽを向いていた。
その、長く美しい黒髪の隙間から覗く彼の耳の端が、ほんのうっすらと赤く染まっているのが見えて。
「──っ」
翠蓮は慌てて窓から身を隠し、今度こそ完全に顔から湯気を上げてしゃがみ込んでしまうのだった。




