第6話 見えない鎖、消えない痕跡
陸光が二週間ぶりに庵を訪れていた。
運んできたばかりの荷を片付けながら、少年がふと思い出したように顔を上げる。
「あ、そうそう、翠蓮姉さん。この前の指の怪我は?」
「ええ、すっかり治ったわよ! ここって龍脈が通ってるのかしらって、この前も景安に話していたところなの」
翠蓮は声を弾ませ、すっかり綺麗になった人差し指を差し出してみせた。
だが、いつもなら「へえ、すごいね!」と無邪気に乗ってくるはずの陸光が、なぜか一瞬だけ息を詰め、視線を彷徨わせた。
「あ、あはは……そっか、治ったなら良かった。……あ! そうだ、忘れるところだった! 門派から出された急ぎの課題があるんだ。ここの卓、ちょっと借りてもいい!?」
露骨に話題を逸らすような大声だった。陸光はバタバタと慌ただしく背負い籠から書付けを引っ張り出すと、逃げるように卓へと腰を下ろす。
──なによ、今の妙な間は。
翠蓮は少し不思議に思い、去っていく弟分の背中を怪訝そうに見つめた。景安といい、陸光といい、この山の男たちは時折、何かを警戒しているような素振りを見せる。
首を傾げつつも、翠蓮が庵の片付けを続けていると、卓に向かった少年は広げた書付を前に「ううーん……」と、本格的に頭を抱えてうなり始めた。髪を掻きむしり、完全に手詰まりといった様子だ。
「どれ、ちょっと見せてごらんなさい」
翠蓮はふっと笑い、彼の隣からのぞき込んだ。
いつも剣を振り回している武闘派のたたずまいに反して、翠蓮は陸光の手元にある難解な古文書の文字を、流れるようにスラスラと読み解いていく。
「ここは、古い内功の経絡について書かれているのよ。この一節の意味はね──」
躊躇なく筆を滑らせ、あっという間に明快な答えを導き出す。
没落したとはいえ、柳家はかつて江湖に名を馳せた名門。その一人娘として幼少期から叩き込まれた深い教養と知性が、その白い指先から溢れ出ていた。
「わあ、翠蓮姉さんすごい! 天才じゃん!」
「まあね。これでも兵法や教養は一通り叩き込まれたのよ。……ただ、奇門遁甲の数理だけは、昔からどうにも苦手なんだけど」
苦笑する翠蓮に、陸光はパッと少年らしく目を輝かせた。
「僕たちの清風門は、もともと奇門遁甲や結界の術に精通してるんだ。なんなら今度は僕が教えようか?」
「本当? 頼もしいわね」
和気あいあいと互いに教え合っていた二人だったが、やがて、さらに難解な応用問題の壁にぶち当たってしまった。二つの頭が並んで、揃って「うーん……」と固まる。
すると、背後からふらりと長い影が差した。
いつの間にか起きてきていた景安が、上から書付けを退屈そうにのぞき込んでいる。
「……そこは陰陽の反転ですから、ここを引くだけですよ」
景安が、白く長い指先で書付の余白をトントン、と叩いた。
ぼそりと呟いたその一言で、二人がどれだけ頭をひねっても解けなかった難問の答えが、まるで霧が晴れるように一瞬で導き出されてしまった。
ポカンとする二人の前で、景安は億劫そうに目をこする。
「こんな明らかな理、わざわざ頭でこねくり回さずとも、見れば感覚で理解できるでしょうに」
「──ちょっと、それって私たちが馬鹿だって言いたいの!? この嫌味男ーーーッ!?」
「そんなことは言っていません。事実を述べたまでです……。柳姑娘、そんなに元気があるなら、もう少し頻繁に麓まで買い出しに行ってください」
悪気なくのたまう天才の態度に、翠蓮は額に青筋を立てた。
「なによ! あんたこそ少しは歩きなさいよ! たまには下山して陸光の買い出しを手伝ったらどうなの!」
「……それは無理です。私はこの山を降りたら死ぬので」
景安は定位置の縁側へ再びごろんと転がってしまった。
「はあ!? またそんな大層なデタラメを言って、引きこもろうとするんじゃないわよ!」
──この男はいつもこれだ。
露骨な言い訳だと決めつけ、翠蓮はプリプリと怒って拳を握りしめた。息を吐くように嘘をついて、そうやって一生寝転がっているつもりなのだ、この怠け者は。
翠蓮は味方を求めるように、「ねえ、陸光も何か言ってやりなさいよ」と少年に視線を向けた。
──けれど。
「……翠蓮姉さん」
それまで黙って二人のやり取りを見ていた陸光の、すっと笑みの消えた真面目な横顔が目に入り、翠蓮は口をつぐむ。
「──景安兄さんの言っていること、実は本当なんだ」
「え……?」
冗談を言われたのだと思い、笑い飛ばそうとした翠蓮だったが、陸光の沈んだ瞳を見て言葉を失った。
陸光は周囲をはばかるように声を潜め、重い口を開いて語り始める。
それは遥か昔、高名な術師が残していった、絶対に覆ることのない『予言』の話だった。
景安がこの山を一歩でも降りれば死に至り、江湖全土を巻き込む災いとなる──。
聞き終えた翠蓮は、背筋が寒くなるのを感じながらも、それでもまだ納得がいかないように自分の両腕をきつく組んだ。そんな理不尽な宿命、認めたくなかった。
「でも……それって、ただの予言でしょう? 実際に試してみたわけじゃないじゃない。ちょっと麓の近くまで降りてみる、とかさ。そういう検証だって……」
「わざわざ死にに行くなどという、命がけの面倒な検証はしませんよ」
どこか眠そうな景安の声が、寝返りを打つ衣擦れの音とともに、いつもと変わらぬ気怠さを伴って響いた。
──本気だ。
冗談を言っているようには到底聞こえない、あまりにも平坦な響き。
己の死を、まるで「明日の天気」と同じくらい当然のものとして受け入れている彼の諦念に、翠蓮は言葉が喉に張り付いたように、言い返すことすらできなかった。
陽だまりの中で寝転ぶ、縁側の広い背中。
いつもと変わらない、のどかな庵の景色。それなのに彼の背中が突然、目に見えない「檻」に囚われているように見えて──翠蓮はただ、その後ろ姿をじっと見つめることしかできなかった。
◇
陸光が清風門の道場へ戻った後も、景安は相変わらず縁側でのんびりと寝転がっていた。声をかけても、気怠げな生返事が返ってくるだけなのでちっとも会話にならない。
手持ち無沙汰になった翠蓮は、庵の裏手に広がる竹林へと足を向けた。
この庵で居候生活を始めて、もう一カ月以上が経つ。
裏の竹林には何度も足を運んでいたが、うっそうと生い茂る竹の葉に遮られたその場所は、ただ歩いているだけでは見過ごしてしまうほど奥まった位置にあった。
涼やかな風が葉を揺らす音に紛れて、ふと、竹林の開けた場所にある一本の大樹が目に留まる。
何気なく近づいた翠蓮は、その幹の姿に息を呑んだ。
「……なに、これ」
樹齢数百年はあろうかという巨木の幹が、腰の高さより少し高い位置だけ、不自然に抉れるように細くなっている。
近寄って表面に触れてみれば、それが鋭利な刃物によるものではないと分かった。木刀のような鈍い質量で、何万回、何十万回と寸分狂わぬ同じ軌道で打ち込まれなければ絶対に付かない、凄絶な打突の痕跡。
脳裏に浮かぶのは、いつも縁側でだるそうに寝転んでいる景安の姿だ。
ぐうたらな性格に似合わず、異様な強さを誇る剣仙。彼にも、血を吐くような鍛錬を重ねてきた過去があるのだろうか。
「……いや、あいつに限ってそれはないわね」
翠蓮はすぐに首を横に振った。あの超然とした佇まいと、「努力」という言葉がどうしても結びつかない。
「やっぱり、あいつは人間じゃなくて『仙人』だからやたらと強いのよ。生まれつき超人的な武功を持っていて、修行なんてしなくても最初から無敵なの。うん、あのぐうたらっぷりは、何百年も生きすぎて退屈しきった仙人の態度そのものだわ」
そう考えたほうがしっくりくる。あいつは人間ではないから理不尽に強いのだ。そう結論づければ、目の前の凄絶な痕跡も、昔ここに住んでいた別の誰かのものだと思える。
翠蓮はふうと息を吐き、自分を納得させるように微笑んだ。
――けれど、大樹の幹に刻まれた無数の傷痕から、どうしても目が離せない。
触れた指先に残る執念の跡。それが、景安のあの隙のない指先の動きと、どうしても重なって見えてしまう。
「……まさかね」
翠蓮は小さく呟くと、妙にざわつく胸を抑えながら、木漏れ日の落ちる静かな竹林をあとにした。




