第5話 心地よい日常、闇に這う影
山での生活は、気づけば一ヶ月が過ぎようとしていた。
相変わらず景安には一太刀も浴びせられず、翠蓮の戦績はついに六十敗を突破。それでも、山頂の庵には、いつしか妙に心地よい空気が流れ始めていた。
「陸光、そっちの薪、私が持つわ!」
「えっ、いいよ翠蓮姉さん。女の子にそんな重いもの──って、うわあ!? 軽々と三本も抱えた!?」
「これでも江湖を渡り歩く女侠よ。伊達に鍛えてないわ!」
最初の頃こそ「押し掛け居候」だった翠蓮だが、今や完全にこの霊山の一員となっていた。
力仕事があれば、驚くほどの腕力でテキパキとこなす。旅で培った薬草の知識を活かして、陸光がすり傷を作ったときには手際よく手当をする。
逆に対策の難しい山の急な悪天候や、険しい獣道の歩き方は、陸光や、縁側に寝そべったまま口だけで的確な指示を出す景安に助けられることも多かった。
互いに足りないものを補い、助け、助けられ。
孤独のなかで「家名再興」の四文字だけを追い求めていた翠蓮の頑なな心は、この賑やかで温かい日々のなかで少しずつ解きほぐされていた。
◇
「じゃあね、景安兄さん、翠蓮姉さん! また物資持って上がってくるから!」
賑やかな少年が、大きな背負い籠を揺らしながら山道を下りていく。
陸光の姿が竹林の向こうへ消えた途端、庵の周りは先ほどまでの騒がしさが嘘のように、しんと静まり返った。
さらさらと、夕方の風が竹林を揺らす音だけが聞こえる。景安は相変わらず縁側にごろんと寝転がったままだ。
陸光という緩衝材がなくなった途端、翠蓮は妙にこの「二人きりの空間」を意識してしまい、少しだけ落ち着かない気持ちになった。なんとなく居心地の悪さを感じてソワソワしまう。
気を紛らわせるように、翠蓮は夕食の用意に取りかかった。やがて料理が完成すると、それを運ぶために卓の上を片付け始める。
「ねえ、ここってやっぱり、龍脈が通っているのかしら?」
卓を拭いていた翠蓮は、ふと思いついた疑問を何気なく口にしてみた。
その瞬間、傍らで箸を整理していた景安の手が、ピクリと止まる。
──え?
翠蓮はゾクッとして動きを止めた。
振り返った景安の、あのいつもは眠たげに凪いでいる瞳の奥に、鋭く冷たい光が走ったような気がしたからだ。
肌がちりちりと粟立つような、冷ややかな視線。
「……どうしてそう思うのですか」
低く、驚くほど平坦に抑えられた声だった。
「だ、だって……傷の治りが異常に早いのよ! ほら、二日前に薪割りでやっちゃった切り傷、もう綺麗に治りかけてるんだから」
翠蓮は、その場を支配しそうな威圧感を誤魔化すように、誇らしげに人差し指を彼の目の前に差し出してみせた。二日前には確かに血を流していたはずの傷口が、今はもう、うっすらと赤い跡を残すだけになっている。
大発見を自慢する子供のような仕草。
景安は翠蓮をじっと見つめていたが、やがて不意に、彼の肩からすっと強張った力が抜けていった。
「……はぁ」
景安の口から、深い溜息が漏れる。
けれど、彼が面倒くさそうに溜息をつくのはいつものことだ。そのため、翠蓮は先ほどの張り詰めた空気のことなど、すっかり忘れて「また始まった」と唇を尖らせた。
「さあ、お昼よ!」
大皿をドンと卓に並べながら景安を促すと、翠蓮は待ってましたとばかりに、すぐさま料理を口へ運んだ。
「んー! 今日も美味しくできたわ!」
口いっぱいに頬張り、幸せそうに頬を緩める翠蓮。
景安はその顔をじっと見つめ、いつもの気怠げな声音で、どこか呆れたように言った。
「……まったく、能天気な人ですね」
「なによ、作ってもらっておいて!少しは感謝しなさいよね」
いつも通りの、他愛のない言い合い。
景安はもう一度ため息をつくと、翠蓮に隠すようにして、ほんのわずかだけ口元を緩めた。そして、すぐにいつもの淡々とした手つきで箸を動かし始める。
嫌味な引きこもり男のくせに、料理は絶対に一口も残さない。
(まぁ、美味しいって思ってくれてるならいいいか)
景安の妙に素直な一面を見つめながら、翠蓮は小さく胸の内で微笑むのだった。
◇
その頃、闇に包まれた不気味な大堂の奥で、一人の若者が深く頭を下げて平伏していた。
正道門派の若き門弟――。
表向きは高名な『清虚剣仙』に手合わせを挑むという大義名分を掲げて山に入っていたが、その真の目的は、霊山を囲む結界のほころびを探ることにあった。
若者は、目の前にたたずむ絶対的な存在――魔教の教主へ向けて、恭しく拳を包むように掌を合わせ、報告する。
「……霊山の東端にて、清風門の巡回と思しき者たちと遭遇いたしました。大事を取って即座に退散したため、こちらの素性は割れておらぬかと存じます」
「そうか」
大堂に低い声が響いた。
若き門弟は気づいていなかった。己が「うまく逃げおおせた」と思っているその浅はかさを。
教主の鋭い洞察は、清風門の精鋭がわざわざ姿を現した時点で、この男がすでに敵に監視され、泳がされていることを見抜いていた。
「よくやった。下がって休むが良い」
「はっ、ありがたき幸せ――」
若者が安堵の息を漏らし、立ち上がろうとしたその瞬間。
――ぴしり、と空間が鳴った。
教主の指先から放たれた目に見えぬ一筋の気功が、若者の眉間を正確に貫く。
「が、あ……?」
声にならない悲鳴を上げ、若き門弟は目を見開いたまま地面へと崩れ落ちた。
口封じだ。すでに敵に目をつけられていた駒など、生かしておく価値すらない。
ピクリとも動かなくなった死体を見下ろすこともせず、教主は闇の中で冷酷に呟いた。
「我らの悲願成就は、すぐそこまで迫っている。……そのためには、いかなる小さな油断も、無能な駒の存在も許されぬ」
彼の放つどろりとした殺気が、夜の闇へと静かに溶けて消えた。




