第4話 居座り女侠、買い出しに行く 後編
麓の町は、大きくはないが必要なものはすべて揃っていた。高名な霊山と清風門のお膝元だからだろうか、行き交う人々にもどこか品がある。
「あそこのお店の干し肉が――って、え!? お姉さん!?」
隣を歩いていた陸光の焦った声が響く。だが、翠蓮の足はすでに、騒音の響き渡る酒楼へと向いていた。
店の中では、下品に顔を赤くした酔っ払いどもが、怯える楽師の娘にしつこく絡んでいた。
娘は琵琶を必死で抱えているが、男たちはその細い腕を掴んで離さない。
「ちょっと、揉め事は門派に任せた方が――」
「見過ごせるわけないでしょ、女侠が廃るわ」
止める陸光の手をするりとかわし、翠蓮は颯爽と酒楼へ押し入った。
「そこまでにしなさい。──その汚い手を退けるのよ」
凛とした声に、酔っ払いたちが「あぁ? 美人の姉ちゃん、俺らと飲みたいのか?」と舐めきった態度で手を伸ばしてくる。
その鈍重な動きを見切り、翠蓮はふっと冷ややかな笑みを浮かべた。
抜剣するまでもない。翠蓮は愛剣を鞘に収めたまま一歩踏み込むと、紙一重で拳をかわし、流れるような動作で鞘の先を男の顎へと突き上げた。返す刀で身を翻し、鋭い足払いを放つ。
こんな酔っ払いどもは彼女の敵ではなかった。またたく間に男たちが床へ転がり、派手な呻き声をあげる。
まともな抵抗すら許さぬ圧倒的な武の冴えに、酒楼の中が一瞬で静まり返る。
静寂の中、翠蓮は何食わぬ顔でパッと衣の埃を払った。
「二度とこの町で悪さをしないことね」
床に転がる男たちを冷たく見下ろしてから、翠蓮は「大丈夫だった?」と、怯える楽師の娘の前にしゃがみ込み、優しく声をかけた。
娘は涙を浮かべながら、何度も何度も頭を下げて感謝している。
彼女の無事を確認して立ち上がると、翠蓮は呆然と立ち尽くしている陸光に向かって、何事もなかったかのように微笑んだ。
「行きましょう、陸光」
周囲から沸き起こる「おお……!」「見事な女侠だ!」という割れんばかりの称賛と拍手を、翠蓮は気にも留めずに店を出た。
「いやぁ、翠蓮姉さん、かっこよすぎる! しびれたよ」
隣で目を輝かせる陸光に「これくらい普通よ」と澄ました顔で返していた翠蓮。
だが、買い出しの品が詰まった籠を目にした途端、その美しい顔を凍りつかせた。
「……あ! しまった、干し肉を忘れてたわ!」
「え? 干し肉?」
「ほら、あの偏屈でぐうたらな男への土産よ! いつも庵で退屈そうにしてるし、買って帰らないと、また『お腹が空いて山を下りる気力もありません〜』とか何とか、あの寝ぼけた声でネチネチ文句を言うに決まってるじゃない!」
別に、あの男のために焦っているわけでは決してない。ないけれど、あのふにゃふにゃした文句を長々と聞かされるのだけは御免被りたいのだ。
一気にまくしたて、今度は急いで肉屋へ向かおうと駆け出す。
「翠蓮姉さん! 兄さんの好きな干し肉はこっちの店だよ!」
「えっ、あっちじゃないの!?」
慌ててきびすを返し、陸光の後を追いかける。楽しそうに笑う彼の声に気づかないふりをしながら、翠蓮は案内された店へと飛び込むのだった。
◇
買い出しを経て、翠蓮は陸光とすっかり意気投合していた。まるで年の離れた可愛い弟ができたようで、自然と笑みがこぼれてしまう。
二人は両手いっぱいの食材を抱え、弾むような足取りで山道を登っていった。
庵に戻ると、景安はいつものように縁側でごろんと転がり、やる気なさそうに眠っていた。
「ただいま、景安! 陸光のおかげで良い買い物ができたわよ!」
「兄さん、ただいまー。翠蓮姉さんとの買い出し、すっごく楽しかった!」
二人で賑やかに声をかけ、そのまま台所へと向かう。
その背後。寝転がったままの景安が薄目を開けて、じっとこちらを見つめていた。
彼には一度も向けたことのないような満面の笑顔を陸光に見せているのが、そんなに珍しいのだろうか。
夕飯の準備に張り切る翠蓮は、景安の瞳の奥でちりりと昏い火花が灯ったことなど、露ほども気づいていなかった。
◇
トントン、と小気味よい音を立てて、厨房で野菜を刻む。
縁側からは、荷物を整理している陸光の、嬉しそうな話し声が漏れ聞こえてきた。
『翠蓮姉さん、最初は高嶺の花かと思いきや、とっても気さくで親切ですよね!』
自分のことを褒められて、翠蓮は包丁を動かす手を少しだけ緩める。
すると、いつものあの、低くて気怠そうな景安の声がポツリと返るのが聞こえた。
『……そうだね。黙っていれば、それこそ仙女のようだけど』
(――え?)
翠蓮は思わず包丁を止め、パチリと目を瞬かせた。
口を開けば嫌味か屁理屈ばかりのあの皮肉屋が、自分の容姿を「仙女のよう」と認めるなんて。
驚きで耳を澄ませていると、陸光が笑いを含んだ声で、さらに踏み込んだ質問を投げかける。
『ねえ兄さん、翠蓮姉さんがものすごい美人だから、ここに居座ることを許したの?』
(ちょっと、陸光!? なんてことを聞くのよ……!)
厨房で一人、翠蓮は顔がカッと熱くなるのを感じた。
縁側の空気がピタリと止まる。
続いて響いたのは、いつものぐうたらな雰囲気からは想像もつかない、底冷えするような景安の声だった。
『……お前のような浅はかな奴が私の弟弟子とは、まったく嘆かわしいよ』
無理やり会話を終わらせてしまったような気配。
(な、何よあの言い方……。図星を突かれて怒った子供みたいじゃない)
外では陸光が「あはは、怒った怒った」と楽しそうに笑っている。
だが、翠蓮の胸の奥でも、なんだか奇妙なザワつきが小さく弾けていた。
ただの「厄介な居候」と「偏屈な引きこもり」のはずなのに。
景安のあの頑なな拒絶が、かえって妙に意識されてしまう。翠蓮は赤くなった顔を誤魔化すように、再び大急ぎで包丁を動かし始めるのだった。




