第3話 居座り女侠、買い出しに行く 前編
「…ない。どこをどう探しても、米一粒すら残っていないわ」
居座り始めて一週間。厨房の甕をひっくり返した翠蓮は、絶望の声をあげた。
一日の大半は寝ているだけなのに、育ち盛りのように食べる景安。そして、修行並みに体力を消費する自分。
二人暮らしの備蓄が底を突くのは、考えてみれば時間の問題だった。
(買い出し⋯⋯でも、一人でこの険しい霊山を何度も往復するなんて……絶対嫌よ!)
翠蓮はドスドスと床を鳴らして景安の寝所へ向かうと、バンッ! と勢いよく扉を開け放った。
「景安、起きて!米がないの!麓の町まで買い出しに行くわよ!」
「……お断りします。私はこの山の一帯から出ると死ぬので。柳姑娘、一人で行ってらっしゃい。お土産は干し肉が良いです」
「あんたねぇ!居候の私に全部押し付ける気!?だいたいお金はどうするのよ!」
朝から布団にくるまり、目元だけを出してのたまう景安を罵倒していた、その時だ。
庵の庭に面した竹林から、がさがさと賑やかな音が聞こえてきた。
「おーい、景安兄さん生きてるー? って、うわっ! 誰ですか、その綺麗な女の人は!」
現れたのは、薄青の衣をまとい、体ほどもある大きな背負い籠を担いだ、快活そうな少年だった。
年は十五、六といったところだろうか。高めの位置で結んだ黒髪を軽快に揺らし、日に焼けた小麦色の肌に太陽のような無邪気な笑顔を浮かべている。
景安は布団の隙間から細目を覗かせ、「ああ、陸光か」と億劫そうに呟いた。
「柳姑娘、彼は陸光。私の数少ない同門の弟弟子です。麓の町から物資を運ばせているのですが……今回は来るのが遅い。怠け者ですね、まったく」
布団にくるまったまま、モゴモゴと愚痴をこぼす景安。
「兄さんにだけは言われたくないよ!
っていうか、あの引きこもりの兄さんが女の子を連れ込んでるなんて、天変地異の前触れ!? あ、僕は陸光っていいます。よろしくね、お姉さん!」
陸光は人懐っこい笑顔でぺこりと頭を下げた。
聞けば彼は、山の外に出ない景安のために、定期的に食料などの物資を調達し、外の世間の様子を伝える役割を担っているのだという。
「よっこらしょっと!」
陸光は自分の体ほどもある背負い籠をごとりと降ろすと、手際よく物資を仕分け始めた。
しかし、彼が運んできた食料はあくまで景安一人分だ。ここに翠蓮が加われば、あっという間に底を突くのは目に見えている。
(やっぱり買い出しに行くしかないわね)
翠蓮は腰に手を当て、少年に向かって指を突きつけた。
「ちょうどいいわ、陸光。私、今から麓の町に買い出しに行くところなの。道案内兼、荷物持ちとして同行しなさい!」
「ええっ!? 僕、今山を登ってきたばかりなんだけど……。あ、でも、美人のお姉さんと一緒なら楽しそうだし、いっか!お姉さんのこと、歩きながら色々聞かせてよ!」
陸光が無邪気に笑って翠蓮の顔を覗き込む。
その瞬間、布団の隙間から覗く景安の凪いだ瞳が、ほんのわずかに細められた。
「……柳姑娘、早く行って帰ってきてください。干し肉を忘れないでくださいね」
いつも通りの省エネ発言。だが、その声音はなぜか、いつもの気怠げなトーンよりもほんの少しだけ低く、冷ややかに響いた――ような気がした。
翠蓮はそれをただの空腹のせいだと綺麗に無視し、「はいはい、行ってきます!」と陸光を連れて庵を飛び出した。
◇
先ほど、翠蓮が景安をぞんざいにあしらう様子を見ていた陸光。彼は歩きながらキラキラとした目を翠蓮に向ける。
「お姉さんって、本当は凄く強いんだね」
「……なによ急に」
「だって、景安兄さんと立ち合った相手って、普通はみんなボコボコにされて這いつくばるんだ。なのに、お姉さんはこうしてピンピンしてるでしょう?」
「いや、私はただ手首に触れられただけで……」
言いかけて、翠蓮はハッと口をつぐんだ。
──つまりあの男、私を怪我させる価値すらないと、最初から完全に舐めきっていたということか。
じわじわと湧き上がる屈辱。
だが、彼女はそれをすべて「怒り」という燃料に変えられる胆力を持っていた。
「あの男……陸光、買い出しをさっさと終えて帰るわよ、戻ったら死ぬ気で鍛錬しなきゃ!」
「あ、いや、兄さんはそうじゃなくて……」
(……本当は、綺麗なお姉さんに傷をつけたくなかっただけなんじゃないかなぁ)
陸光が呟いた小さな言葉は、怒り狂う翠蓮の耳には一切届かなかった。
(絶対に、一太刀浴びせてやるんだから……!)
翠蓮は拳を握り締め、猛烈な鼻息とともに、嵐のような勢いで険しい山道を駆け下りていく。
その後ろ姿を見送りながら、陸光は「はぁ」と、山頂の師兄と同じようなため息をつくのだった。
◇
山道を下りながら、陸光はとにかくよく喋った。
「へえ! お姉さん、家名の再興を目指して旅をしてるんだ。南州柳家の柳翠蓮って聞いたことあるよ。各地の達人と一騎打ちなんて、まるで講談の侠客みたいで格好いいね!」
「まあね。……でも、あの引きこもり男にだけは、手も足も出ないんだけど」
翠蓮は、胸にくすぶる疑惑を口にするべきか少し迷った。しかし、隣を歩く陸光の幼さと屈託のない笑顔が、彼女の警戒心を自然と解いていく。
「ねえ、陸光。……あの男、本当に人間なの?実は本物の仙人か何かなんじゃないかって、私、半ば本気で疑ってるんだけど」
翠蓮が声を潜めて尋ねると、陸光はこらえきれないといった風にケラケラと笑った。
「あはは!『仙人』かあ!確かにあの暮らしぶりといい、見た目といい、それっぽいよね。でも、兄さんの強さは本物だよ。亡くなった僕たちの師匠もさ、『景安の剣は、天の理そのものだ』って、いつも遠い目をして言ってたんだ」
陸光の属する「清風門」の道場はこの山の中腹にある。
だが、当の景安は鍛錬どころか、ここ数年、門をくぐったことすらないのだという。
「でもね、景安兄さんがお姉さんを庵に居座らせてるの、実はすっごく珍しいことなんだよ?」
「え? そうなの?」
翠蓮が目を丸くする。
「勝負を挑みに来る達人は他にもいるんだ。でも、だいたいはこの霊山の結界に弾かれて、庵にすらたどり着けない。……それを突破してお姉さんが登ってきたのも凄いんだけどさ」
陸光はいたずらっぽく笑って顔を近づけた。
「たどり着けた人がいても、いつもの兄さんなら、面倒くさがって一瞬で麓まで叩き落とすか、気配を消して絶対に会えないようにするはずだもん。
文句を言いながらも追い出さないのは、お姉さんのこと、気に入ってるんだよ、絶対」
「な、何言ってるのよ! あいつはただ、私をタダ働きのお茶くみ兼、飯炊き係としてしか見てないわよ!」
うっすらと顔を赤く染めながら言い返す翠蓮を見て、陸光は嬉しそうに目を細めた。
「お姉さんがここへ来てくれて、僕は本当に良かったなって思ってるんだ。
……景安兄さん、あの山から一歩も出ようとしないからさ。師匠が亡くなってからは、ずっと一人きりで⋯⋯なんだか退屈そうで、寂しそうに見えていたんだよね。
だから、お姉さんみたいに賑やかで真っ直ぐな人が側にいてくれた方が、絶対兄さんにはいいよ」
「陸光……」
のんびりしているが、どこか浮世離れした景安に比べ、弟弟子の陸光はどこまでも素直で情に厚い。
没落した柳家の家名再興という、孤独で険しい戦いをずっと一人で続けてきた翠蓮。
彼女にとって陸光の屈託のない優しさは、張り詰めていた頑なな胸の奥へ、じわじわと温かく染み込んでいくようだった。
(あいつ……ずっと、一人で寂しかったのかしら……)
脳裏に浮かぶのは、夕暮れの中で茶をすすっていた、あの底の知れない男の、どこか冷ややかな横顔。
ほんの少しだけ胸の奥がチクリと痛んだのを、翠蓮は「気のせいよ」と激しく首を振って打ち消した。




