第2話 居座り女侠と、最強の怠け者
「ふあぁ……。柳姑娘、いい加減に布団を返してください。それがないと、私は一日二十時間睡眠の目標を達成できません」
「だめよ! 勝負しなさい景安! 今日こそあんたの鼻をあかして、その眠そうな目をパッチリ開かせてやるんだから!」
山頂の庵には、連日、翠蓮のけたたましい声が響き渡っていた。
あれから翠蓮は、宣言通り景安の住む庵に強引に居座っていた。
家名再興のための旅はいったんお預け。
今の彼女の頭には、「この目の前の怠け者を、何が何でも叩きのめす」という一点しかなかった。そのために、持てる気力のすべてを注ぎ込む。
──しかし、結果はあまりにもひどいものだった。
昼下がりの庭。
翠蓮は木剣を構え、鋭い踏み込みとともに、電光石火の突きを放つ。柳家秘伝の技であり、並みの武芸者なら避けることすら叶わない一撃である。
対する景安は、縁側に座ってぼんやりと茶をすすっていた。
迫る木剣。だが景安は、ただ首をほんのわずかに傾けただけだった。
ひゅっ、と風を切る音。木剣は彼の美しい顔のすぐ横を虚しく通り抜ける。
「とおっ!」
翠蓮はすかさず剣をひるがえし、横なぎの一閃を見舞う。
景安は茶を持ち、今度は座った姿勢のまま上半身を柳のようにぐにゃりと反らした。剣がその鼻先をかすめる。その瞳は、至近距離で剣が迫っているというのに、水鏡のように凪いだままだ。
「……っ、この!」
意地になった翠蓮が、怒濤の連続攻撃を繰り出す。
しかし景安は、立ち上がりすらしない。茶を片手に持ったまま、まるですべての軌道が最初から見えているかのように、最低限の動きだけでひらり、ひらりと、かわし続ける。
「はい、そこまで。せっかくの茶が冷めてしまいます」
景安が空いている方の手で、翠蓮の木剣の側面を「ツン」と指先で弾いた。
それだけで、翠蓮の腕は痺れ、木剣はカラカラと音を立てて庭に転がった。景安の持つ茶は一滴もこぼれていない。
「う、嘘でしょ……。今日もかすりもしないなんて……!」
翠蓮はその場にがっくりと膝をついた。
――これで通算、十連敗である。
項垂れる翠蓮の様子を、景安はちらりと一瞥した。彼はのんびりと茶をすすりながら、事も無げに告げる。
「私に勝つのは諦めて、早く山を降りればいいのに。……柳姑娘、お腹が空きました。今日のご飯は何ですか?」
「勝負に勝ったみたいな顔で献立を聞くなーーーッ!!」
がっと顔を上げ、鬼の形相で怒鳴る翠蓮。その目には悔しさと怒りの炎が渦巻いている。
「大体、そんなにだらしないあんたが、なんでこんな不便な山の上にいるのよ。町に住めば屋台でいくらでも美味しいものが買えるでしょ」
「私は山から降りられません。それに、町は騒々しいでしょう」
景安は相変わらず、何も考えてなさそうな顔で茶杯を見つめた。
その声音があまりにも淡々としていたからこそ、翠蓮は彼の言葉の異常さに、すぐには気づけなかった。
――白景安は、生まれてから一度も、この山の一帯から出たことがない。
『山を降りれば、即座に死に至る』
かつて下された、奇妙で残酷な予言。
彼はその見えない鎖に縛られながら、ただ淡々と、仙人のように歳月を重ねてきた。
それが、この白景安という男の――隠された「正体」だった。
◇
ダラダラしているくせに、茶と飯の催促だけは一人前。しかも、淡々とした口調のくせに妙に皮肉っぽい。
イライラしながら食事の準備をしていた翠蓮だったが、ふと、夕暮れの赤い光に照らされる景安の横顔に目を留めた。
――夕陽の残光を浴びる彼は、驚くほど美しい。
乱れた黒髪も、白い衣も、すべてが赤金色に染まっている。年若いくせに、まるで世俗のすべてを見通して飽きてしまったかのような、超然とした雰囲気をまとっていた。
(……待って。いくらなんでも、おかしくない?)
翠蓮は泥だらけになった服をはたきながら、半ば本気で考え込んでしまった。
自分だって、江湖でそれなりに名を馳せた実力者なのだ。その自分が、茶を片手に持った寝起きの男に一太刀も浴びせられないなんて。
(いつもはあんなに面倒くさそうなのに、剣をかわすときだけは、まるで風か雲にでもなったみたい。
……あの男、本当は人間じゃなくて、本物の『仙人』か何かなんじゃないかしら? そういえば、仙人は若いままの姿を保つって講談でも聞いたことがあるわ……!
……まさか、見た目は二十歳そこそこなのに、中身は百歳を越えたおじいさんとか!?)
もんもんとしながら、翠蓮はじっと景安の横顔を見つめる。
そのただならぬ視線に気づいたのだろうか。
景安が、珍しくわずかに眉を動かし、目線だけで翠蓮を振り返った。
ほんの数秒、視線が交差する。
いつもは何も考えていなさそうな景安の瞳が、夕闇の中でわずかに揺れた――ような気がした。
「柳姑娘? 早くしないと日が暮れて、また私の寝る時間になってしまいます」
「……分かってるわよ! 山菜採ってくるから、ちょっとそこで待ってなさい!」
結局いつも通りに怒鳴り散らし、翠蓮は庵の外へと走る。
背後で、景安が「やれやれ」と小さくつぶやき、また縁側でごろんと横になる気配がした。
◇
翠蓮の作る料理は、とにかく豪快で、見た目の美しさは今ひとつだった。だが、味はどれも家庭的で、驚くほど美味しい。
今日もたっぷり盛られた大皿が、小気味よい音を立てて卓の上にドン、ドン、ドン、と並べられていく。
大雑把に切られた筍と肉が湯気を立てる炒め物に、並々と注がれた具だくさんの汁物、そして大盛りの菜飯。
「できたわよ!」
その声を合図に、景安が奥からのそのそと這い出てきた。
彼はまだ眠たそうな顔で箸を取って食べ始めた。その動きは気怠げでありながらも美しく、指先まで洗練されている。
「これ、久しぶりに作ったんだけど。味はどうかしらね?」
翠蓮が腕組みをして尋ねると、景安は咀嚼を終え、淡々と口を開いた。
「柳姑娘の料理は、見た目こそ殺伐としていますが……どれも毒は入っていませんし、普通に食べられますよ」
「ちょっと! その言い方ひどくない!?」
すかさず食ってかかる翠蓮。しかし景安は、我関せずと次の料理に次々と箸を伸ばしている。その口ぶりに反して、大皿のおかずはみるみるうちに減っていた。
「大体、あんたは普段、自分で料理を作らないわけ? 私が来る前だって、ずっとここで暮らしてたんでしょう? 自分で作った食べ慣れた味とか、こだわりとか、そういうのは無いの!?」
「……料理など、動くだけ気力の無駄ですから。今までも、死なない程度に干し肉をかじっていただけですし」
「生気がなさすぎるでしょ、この引きこもりーーーッ!!」
景安のどこまでも省エネな物言いに、翠蓮はギャアギャアと声を荒らげる。
──そんな二人のいつものドタバタ劇は、今やこの山の、賑やかで温かい日常の風景だった。
◇
ある日の昼下がり。またもや景安に手も足も出なかった翠蓮。彼女はその悔しさをぶつけるように、ひとり黙々と木剣を振るって鍛錬に励んでいた。
ようやく一区切りがつき、汗を拭って水を飲みに行こうとした、その時だった。
ふと縁側に目をやると、景安がいつものように無防備な姿で横になっている。
差し込む柔らかな木漏れ日を浴びて眠る彼は、まるで上質な絵巻物から抜け出てきたかのように、ハッとするほど眉目秀麗だった。
普段のぐうたらな言動さえ鳴りを潜めていれば、それこそ天上の高貴な仙人だと言われても信じてしまいそうなほどだ。
(……絵に描かれた麗人よりも、実物の引きこもり男の方が綺麗だなんて、一体どういう道理よ)
悔しいけれど、目を奪われてしまう。
翠蓮は足を止め、知らず知らずのうちに、その端正な横顔をマジマジと見入ってしまっていた。
すると──。
閉じていた景安の長いまつ毛がかすかに揺れ、パチリと、その瞳が開いた。
視線が真っ向からぶつかる。景安はまだ眠たげな目のまま、上体を起こすこともなく、のっそりと口を開いた。
「……そんなに熱心に見つめられると、さすがに寝付けないのですが」
「だっ……! だ、誰が見つめてるって言うのよ、自意識過剰男ーーーッ!?」
完璧に図星を突かれ、翠蓮の顔が一瞬にして真っ赤に染まる。
動揺を隠すようにギャーギャーと大声で騒ぎ立てる翠蓮を、景安はとろんとした瞳で見つめ返し、ふっといたずらっぽく眦を下げる。
「……顔、真っ赤ですよ、柳姑娘」
「なっ、これは鍛錬してたからよ!鍛錬!」
「まったく騒がしいですね……」
景安は彼女の怒鳴り声を聞き流すと、ごろんと背を向け、今度こそ本当に深い眠りへと落ちていくのだった。
残されたのは、赤くなった顔で、自分の心臓の音に戸惑う翠蓮。
――果たして、この頑固な女侠が、最強の引きこもり仙人を叩きのめす日は来るのだろうか。
二人の賑やかすぎる共同生活は、まだ始まったばかりである。




