第1話 引きこもりの剣仙
「――我が名は柳翠蓮! 没落せし名門・柳家が剣を継ぐ者! 清虚剣仙と名高き御仁とお見受けする、いざ尋常に勝負ッ!」
白雲がたなびく霊山の頂に、凛とした声が響き渡る。
燃えるような紅の装束に身を包み、艶やかな黒髪を一つに束ねた美貌の女侠。
家名再興という重すぎる信念を背負い、各地の達人を打ち破ってきた彼女の瞳には、燃え盛るような強い光が宿っていた。
だが、彼女の前に寝転ぶ「剣仙」こと、白景安の反応はといえば――。
「ふあぁ……。熱心なのは結構ですが、少し声を落としていただけませんか。寝起きの頭に響きます」
桃の花が咲き誇る木の側、庵の縁側に寝ころんだままの青年。
彼は、だらしなくあくびを噛み殺してとろんと眦を下げた。木簪で適当にまとめられただけの長い髪はすっかり崩れ、こぼれ落ちた漆黒の髪が、雪のような白い肌に映える。
ゆったりとした白い衣をまとい、天界の絵巻物から抜け出してきたかのような仙人めいた美しさをもつ男。
しかし、その驚くほど凪いだ、波一つ立たない瞳は――悟りを開いたというより、ただ何も考えていないだけに見えた。
天下に名を轟かせる達人の風格など微塵もない。年の頃は恐らく二十歳そこそこ。何より、この圧倒的な覇気のなさである。
命がけでここまで登ってきた翠蓮の気迫は、彼の前でただの空振りに終わろうとしていた。
「な⋯⋯なによその態度は! こっちは命を懸けてここまで登ってきたのよ!」
青年の舐め腐った言動に、翠蓮は思わず額に青筋を浮かべる。
(清虚剣仙は高潔で、世俗を断ち、ひたすら剣の道を求道していると聞いたけど……ただのぐうたらじゃないの!)
「――引きこもりの世捨て人には負けないわ!」
翠蓮がサッと剣を抜く。
「参るッ!」
鋭い踏み込みとともに、まばゆい剣閃が走る。一瞬にして景安の喉元へと迫った刃。
(勝てる――!)
翠蓮がそう確信した、まさにその瞬間だった。
景安の手が、流れるような動作で翠蓮の手首をそっと叩いた。本当に、ただ「触れた」だけ。それなのに、骨を揺るがすような凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。
「えっ――!?」
指先から力が抜け、愛剣が手からこぼれ落ちる。あまりの衝撃に足元がもつれ、翠蓮は激しくつんのめった。
そのまま景安の胸元へと倒れ込む。
「わっ、ちょっと――!」
ドサリ、と重なる二つの身体。
とっさに身をよじることもせず、景安はただ淡々と翠蓮の細い腰を受け止めていた。
鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離。
端正な顔が目の前にある。絹糸のように滑らかな黒髪が、彼の動きに合わせてハラリと翠蓮の頬を撫でる。彼の胸からは、清涼な白檀と桃の花の香りが漂ってきた。
景安の、波一つ立たない瞳がじっと翠蓮を見つめる。そこには照れも、怒りも、何の感情もなかった。
遥か頭上で翠蓮の愛剣が宙を舞い、数歩後ろの地面に深く突き刺さる鈍い音が響く。
わずか一撃。それも、彼は剣すら抜いていない。ただの指先一つで、翠蓮は完全に無力化され、彼の胸の中に閉じ込められていた。
「……終わりましたね」
景安は感情の起伏がまるでない声で、淡々と言った。
彼は軽い手つきで、翠蓮の肩をそっと押して引き離す。まるで、衣服についた桃の花びらを払い落とすかのような、あまりにも自然で温度のない動作だった。
「面倒なことはしたくありません。勝てないとわかったでしょう、早く去りなさい。私はこれから昼寝の続きをしなければならないので」
背を向け、悪びれもせず再び寝転がろうとする景安。
その徹底した事なかれ主義と勝手気ままな振る舞いに、翠蓮の負けず嫌いの導火線に火がつき、一気に爆発した。
「な、なによそれ……! 待ちなさいよ! まだ終わってないわ!」
翠蓮は地面の剣をひったくるように引き抜くと、景安の前に猛然と立ちはだかり、その美しい顔を真っ赤にして叫んだ。
「あんたみたいな怠け者に、私が負けっぱなしでいられるわけないでしょ! 決めたわ、私はあんたのところに居座る! そして――絶対に、絶対に、あんたを叩きのめしてやるんだから!!」
「……はあ。最悪の展開だ」
景安は心底嫌そうに眉をひそめ、深いため息をついた。
――これが。
後に江湖の運命を根底から書き変えることになる、熱すぎる女侠と、冷めきった剣仙の出会いだった。




