第10話 剣仙のやきもち
ある穏やかな午後のこと。
買い出しから戻った庭で、翠蓮と陸光は縁側に腰掛け、先ほど町で起きたおかしな出来事について楽しそうに話し合っていた。
「それでね、肉屋の店主がさ──」
「ぷっ……あははは!何それ、最高に面白いね!」
二人の弾んだ笑い声が、のどかな山間に響き渡る。
翠蓮は、いつもの気を張った女侠の顔を少し緩め、「もう、本当にそうなのよ」と、本当の弟を可愛がるように陸光の頭をぽんぽんと撫でていた。
誰が見ても微笑ましい、和気あいあいとした時間。
──ただ、そのすぐ隣にいる、一人の男を除いては。
縁側の特等席で寝転がっていた景安は、先ほどから何度も何度も、これみよがしに大きな音を立てて寝返りを打っていた。
いつもなら、どれだけ周囲が騒ごうが雷が鳴ろうが絶対に起きない省エネ男である。それなのに、今日に限っては、薄く開かれたその瞳が、ひどく冷ややかに尖っているのがわかった。
特に、翠蓮の手が陸光の髪に触れ、二人が顔を見合わせて一段と大きく笑った瞬間だった。
──ピリッ、と。
景安の周囲の大気が、一瞬にして冬の氷山のように凍りついたのを、翠蓮の肌が敏感に察知する。
景安は無言のまま、ぬっと上体を起こした。
じっと陸光の頭頂部を見つめる彼の目は、尋常ではないレベルで「お邪魔虫」を睨みつけるそれだった。真っ先にその殺気に気づいたのは、勘の鋭い弟弟子の方だ。
「ひゃっ……え、兄さん? 急にどうしたの、その怖い顔」
陸光が思わず身をすくめる。景安はじろりと彼を見下ろした。
「……騒がしい。耳障りですから、お前はあっちに行きなさい」
「ええっ!? 僕、普通に話してただけだよ!?」
「今、私が非常に重要な思索にふけろうとしていたのを邪魔しました。反省して薪の様子でも見てくることです。さあ、早く」
シッシッ、と面倒そうに手を振って、完全に陸光だけを標的にして追い払おうとする景安。その物言いは、いつにも増して理不尽極まりないものだった。
これには、隣にいた翠蓮も黙っていられない。すかさず眉を釣り上げて食ってかかった。
「ちょっと景安! あんた何よその言い草! 陸光は何も悪くないじゃない。大体、さっきまで思いっきり爆睡してたクセに、なにが『重要な思索』よ!」
「……柳姑娘の声も、少々響きますね」
「なっ──……!?」
いつもなら、どれだけ罵られてものらりくらりとかわす景安が、今日に限っては、どこか子供のように意地を張った態度を崩さない。
「翠蓮姉さん、いいよ……。僕、大人しくあっちで課題のおさらいでもしてくる……」
──これ以上ここにいたら、師兄に目線だけで本当に殺される。
そう本能で察したらしい陸光は、そそくさと荷物を抱え、逃げるように庵の奥へと引っ込んでいった。
急に静かになった縁側。
「もう、なんなのよ、本当にワガママなんだから……」と、未だに怒りが収まらない翠蓮は、プリプリと八つ当たり気味に片付けを始めた。
すると、陸光を追い払って満足したのか、景安は何食わぬ顔でふたたび縁側にコロンと横たわった。その表情からは、先ほどまでの妙な刺々しさが消えている。
「……ふぅ。ようやく静かになりました。柳姑娘、お茶にしましょう」
「自分で淹れなさいよ! 陸光をいじめた罰です!」
「冷たい人ですね。では、淹れてくれるまでここから一歩も動きません」
「いつも動かないでしょうが!」
そう噛みつきつつも、彼のあまりに急な態度の変化に、翠蓮は(なんなのよ、調子が狂うわね……)と内心すっかり毒気を抜かれてしまった。
フンと背を向けて湯を沸かしに向かう途中、翠蓮は庵の窓の影に、隠れるように佇んでいる陸光の姿を見つけた。
(あ、陸光。やっぱり可哀想なことしちゃったわね、あとで慰めて──)
そう思って声をかけようとした翠蓮だったが、陸光の顔を見て、その足を止めた。
陸光はしょんぼりするどころか、縁側に寝転ぶ景安の背中と翠蓮の姿を交互に見つめながら、これ以上ないほど「ニヤニヤ」と、すべてを察したような顔で笑っていたのだ。
──え? 何よ、その顔。
「……陸光? あんた、何ニヤついてるのよ」
訝しんで声をかけると、陸光はハッと正気に戻る。
「ううん! なんでもないよ翠蓮姉さん! 僕は不憫な立ち位置だけど⋯⋯応援してるからね!」
陸光は、わけのわからないことを言ってバタバタと部屋の奥へ走り去ってしまった。
「……なによあの一門。揃いも揃って、どいつもこいつも意味がわからないわ!」
景安が急に不機嫌になり、かと思えば機嫌を直した理由も、陸光のあのニヤつきの真意も、当の翠蓮は何一つ気づいていなかった。
彼女は、ただただ首を傾げながら竃に火をくべるのだった。
◇
「ねえ景安、あんたって他の『五大剣仙』に会ったことはあるの?」
縁側でお茶をすすっていた翠蓮は、ふと思い出したように尋ねた。しかし、返ってきたのは、
「ないです」
という、いつものそっけない一言だけだった。
実は、天下に名高い五人の剣仙のうち、翠蓮には熱烈に憧れている達人が一人いた。景安のような気怠げな男とは真逆の、燃え盛る炎のような熱い剣術を使い、義理人情に厚い漢らしい好人物──そんな噂のある彼に、翠蓮は早くに亡くした実の父親の面影をどこか重ねているところもあった。
「その方の残した伝説が本当に格好良くてね! かつて悪徳役人の軍勢に一人で立ち向かった時なんて──」
頬を上気させ、身振り手振りを交えて熱弁をふるう翠蓮。自分の瞳が、今完全に『夢見がちな少女』のそれになっている自覚はあったが、溢れる熱量は止められない。
庭で話を聞いていた陸光が、素朴な疑問を投げかけてきた。
「へえー、凄いんだね。翠蓮姉さんは、その剣仙とは手合わせしてみたいと思わないの?」
「まさか、無理に決まっているでしょ! 名乗るなんて絶対無理よ! もし目の前に現れたりしたら、目が合っただけで頭が真っ白になって何も話せなくなっちゃうわ!」
いつもの気の強い女侠はどこへやら、完璧に憧れの存在を前にした初々しい乙女の反応になってしまう。
カツン、と。
縁側で景安が茶杯を置く音が、やけに硬く響いた。
驚いて視線を向けると、景安は少し離れた場所から、心底面白くなさそうな、ひどく冷ややかな目で翠蓮をじっと見つめていた。眉間には、うっすらと不快そうな皺まで寄っている。
「……ふーん」
興味なさげに短く吐き捨てると、彼はふいと露骨に顔を背け、そのまま不貞寝するように翠蓮に背中を向けて転がってしまった。
(なによ、人がせっかく格好いい話をしてるのに、相変わらず愛想のない奴ね)
──それから、しばらく経ったある日のこと。
景安がふらりと裏山へ向かったかと思うと、両手いっぱいに、見事なまでに熟した果実を抱えて戻ってきた。
「えっ、急にどうしたのよ、そのたくさんの桃は!?」
驚く翠蓮の前に、景安はそれらを無造作にトン、と置いた。そして整った顔に、意地の悪い、どこか挑発的な笑みを浮かべて見下ろしてくる。
「どこぞの剣仙がかつて披露したという、風圧で果実をすべて叩き落としたという軽業の伝説ですよ。……私なら、気を刃にまとわせ、皮に傷一つつけずに収穫することなど造作もありません」
景安はふん、と鼻で笑って、なぜかこれみよがしに胸を張った。
「それに、私はその見知らぬ男と違って、あなたの好物をよく知っていますからね」
「へ……?」
突然何を言い出すのかと思えば、数日前の話を引っ張り出してくる。それは景安にとって全力の、そして最高に大人気ない張り合いだった。
しかし、当の翠蓮はそんな拗ねた男心の機微に気づくはずもない。ただただ、目の前の大好物に目を輝かせた。
「わあ、桃がこんなにたくさん! 美味しそう、早速食べましょ! 陸光、冷やしてくるから待っててね!」
少女のように無邪気に喜んで、両腕に桃を抱えて台所へ走っていく。ふと気になって振り返ると、縁側に佇んでいた景安が、めったに見せないような、ほんのわずかに満足げで誇らしげな顔を浮かべているのが見えた。
台所の水桶に桃を沈めながら、翠蓮は「なによあいつ、珍しく嬉しそうな顔しちゃって」と、くすくす笑った。そこへ、同じように甘い桃のおこぼれに預かろうと、陸光が後を追ってくる。
陸光は水桶の桃を見つめながら、なんとも言えない遠い目をして、ぽつりと呟いた。
「……翠蓮姉さん。兄さんって、実はめちゃくちゃ根に持つ人なんだね」
「え? どういうこと?」
「だって、姉さんが前に言ってた憧れの剣仙の話。兄さんったら、興味なさそうなフリして技の細部まで完璧に覚えてたってことでしょ? わざわざ同じ技を、しかももっと格上の技で再現して、おまけに『僕の方が姉さんの好物を知ってる』って揺さぶりまでかけてくるなんて……独占欲の方向性がめんどくさすぎて、もういっそ可愛いよ」
陸光がやれやれと首を振る。
聞かされた翠蓮は、一瞬、陸光の言葉の意味が上手く脳内で処理できず、持っていた桃を水桶にポチャリと落とした。
──え? 張り合ってたって、あの剣仙に?
──『あなたの好物をよく知っていますからね』って、それ、私を揺さぶろうとしてたの……!?
遅れてやってきた猛烈な恥ずかしさと衝撃に、翠蓮の顔が一気に耳の先まで真っ赤に染まった。
「な、ななな何言ってるのよ陸光! あいつがそんなこと考えるわけないでしょ、ただの気まぐれよ、気まぐれっ!!」
「いや、どう見ても全力だったけど……あ、翠蓮姉さん、顔真っ赤だよ?」
「うるさいわね! 桃が冷えたら早く持ってくんだから、あんたはお茶でも用意しなさいっ!!」
慌ててバタバタと立ち働く翠蓮の胸の奥で、バクバクと心臓がうるさい音を立て始める。
呆れる陸光の視線を背中に浴びながら、翠蓮は、冷たい水に浸した自分の手が、驚くほど熱くなっているのを感じていた。




