第11話 ほろ酔い女侠の翻弄
ある夜、麓の町から戻った陸光が、珍しい土産を取り出してきた。酒瓶を嬉しそうに揺らしながら言う。
「果実を漬け込んだ、すごく甘くて美味しいお酒らしいよ」
「お酒? 私は江湖を渡り歩く女侠だもの、少しくらいなら付き合うわ」
そう言って夕飯の卓を囲み、翠蓮は勢いよく杯を干した。
──それが、すべての始まりだった。
一刻後。
庵の卓の前には、信じられないほどふにゃふにゃに溶けてしまった翠蓮がいた。
なんだか頭がすごーく軽くて、視界がさっきから波のようにぐにゃぐにゃと揺れている。
「もーう! 景安のバカーー! なんでいっつも避けるのよぉ……。ちょっとくらい当たってくれたっていいじゃない……」
いつものように凛と背筋を伸ばしていることなど、今の翠蓮には到底不可能だった。頬に血がのぼって熱い。
机にだらしなく上体を突っ伏したまま、とろんと霞む目で、すぐ隣にいる景安の袖を掴んで思いきり引っ張る。自分の口から出る声が、驚くほど間延びしていて甘ったるいことにも、もう気づきようがなかった。
ぼんやりとした視界の端で、陸光がケラケラ笑いながら、こちらを肴に楽しそうに米を食べている。
一方で、袖を引っ張られている景安は、なぜか頑なにこちらを見ようとしなかった。いつもならすぐに意地悪く笑うくせに、見たこともないような気まずそうな顔をして、じっと視線を斜め下に落としている。
「柳姑娘、完全に酔っていますね。もう寝なさい」
「やだー! 寝ない!」
降ってくる冷ややかな声に、翠蓮はさらにむきになって景安の袖をぐいぐいと引いた。
「景安が仙人じゃないなら、なんなのよぉ。口を開けば意地悪だし……でも、景安の顔、きれいだから許す。へへ、かっこいいー」
脳みそが完全に麻痺しているせいで、胸の奥に隠していたはずの秘密が、堰を切ったように口から溢れ出ていく。
ふにゃふにゃと締まりのない笑みを浮かべながら、翠蓮は景安の頬を人差し指でツンツンと突ついた。指先から伝わる彼の肌は、少し冷たくて気持ちがいい。
だが、頬を突つかれた景安が、驚いたように目をみはった。
その瞬間だった。
水鏡のように凪いでいたはずの彼の瞳の奥に、かつてないほど深く、濃厚な「熱」がぐわりと湧き上がるのを、翠蓮は至近距離で目の当たりにする。
(え……?)
酒のせいで頭はまったく働かない。けれど、その底知れない眼差しに射すくめられた瞬間、背筋に甘い戦慄が走った。
いつもなら、どれだけ彼に近づいても跳ね返されるような見えない壁が、今はどこにもない。むしろ、じわじわと逃げ場をなくしていくような、息苦しいほどの圧迫感が押し寄せてくる。
「酒はこのくらいにしなさい」
降ってきた景安の声音は、いつもの気怠げなものとは違って、低く掠れていた。彼は強引に酒瓶を取り上げると、こちらの自由を奪うように手首を掴もうとしてくる。
「まだいいでしょー! このお酒、とーっても甘くて美味しいんだもんー!」
捕まってなるものかと、翠蓮は反射的に手を払った。
頭の中はふにゃふにゃなのに、身体にしみ込んだ武芸の動きだけは恐ろしくキレがよく、勝手に動いてしまう。容赦のない手刀を、景安の美しい顔めがけて繰り出す。
すると、なんだか遠くの方から、ケラケラ笑う陸光の声が響いてきた。
「こんなにお酒が弱くても、翠蓮姉さんが江湖で生き残れた理由が今わかったよ」
何を感心しているのか分からず首を傾げながらも、翠蓮は目の前の景安の瞳から、どうしても目を離せずにいた。
景安は翠蓮の千鳥足の猛攻を完璧な身のこなしで避けると、一瞬の隙を突いて、彼女の首筋に鋭く指先を突き立てた。
(あ……点穴……)
がくりと全身の力が抜け、視界が急速に闇に溶けていく。
そのまま床に倒れ込むはずだった身体は、しかし、景安の片腕によってしっかりと受け止められた。
ぐにゃぐにゃに薄れていく意識の向こうで、低い声が聞こえる。
「陸光。柳姑娘は私が部屋へ運びます。お前はもう寝なさい」
「はーい兄さん、おやすみー」
そんな二人のやり取りを心地よい子守唄代わりに、翠蓮の思考は心地よい暗闇の中へと溶けていった。
──けれど、深い闇の底に落ちていく微かな記憶の中で。
自分を抱き上げた両腕が、優しく愛おしむようにその身体を抱き直してくれた感覚。
ふわりと、景安がいつもまとっている白檀の香りが、いつもよりずっと濃く鼻腔をくすぐった。その心地よい体温と香りに引き寄せられるように、翠蓮はうとうとと、さらに彼のほうへと身を寄せようとする。
そして、自分の額が彼の胸元に深く触れた、その瞬間──。
景安の身体がピシリと不自然に強張り、衣服越しにトクトクと、凄まじい速さで脈打つ心臓の音が聞こえたこと。
それだけは、消えない夢の断片のように、ひどく温かく胸の奥に残っていた。
◇
翌朝。
「痛たたた……っ」
割れるような凄まじい頭痛とともに目を覚ました翠蓮は、自室の寝台に寝かされていることに気づいた。身体を起こそうとするだけで、頭の芯がズキズキと激しく痛む。
眉をひそめて顔をしかめたその時、ふわりと、自身の衣からあの落ち着いた白檀の香りが漂ってきた。
──その瞬間、昨夜の記憶が断片的に、けれど恐ろしいほどの鮮明さで蘇る。
景安の頬を指で不躾に突っついたこと。へらへら笑って「かっこいい」と容姿を褒めちぎったこと。おまけに酔っ払って手刀を振り回したこと……。
「いやあああああ!!」
叫び声をあげて頭を抱え、這うようにして居間に飛び出す。
そこにはすでに起きて、静かにお茶を飲んでいる景安がいた。だが、その目の下には珍しく、うっすらと色濃い隈ができている。一日の大半を寝て過ごす男が、寝不足。そんなことがあり得るのだろうか。
「あ、景安! 昨日は、その、ごめんなさい! 私、何か変なことを──」
必死に謝り倒そうとした翠蓮の言葉は、景安が放った、地を這うような低い声にかき消された。
「柳姑娘」
びくり、と翠蓮の背筋が凍りついた。
彼は、いつもの「ぐうたらな引きこもり」の雰囲気を完全に消し去っていた。
据わった瞳は、これまで一度も見せたことがないほど冷たく、その端正な顔は、怒りのあまりか微かに青ざめてさえ見える。
「今後、私以外の前で、一滴でも酒を飲むことを禁じます」
「えっ!? な、何よ急に、そんなに怒らなくたって……」
「怒っています。大真面目に」
景安はぴしゃりと言い放った。
「あなたがどれほどの醜態を晒したか、自覚がないのですか。あのような……あのような姿を他の男の前で見せるなど、万死に値します。もし今後、外の酒場で同じことをやらかしてみなさい。私は面倒を省みず、その酒場を、関わった男共ごと一軒残らず叩き潰しに行かねばならなくなります」
──万死に値する、醜態。
──酒場を男ごと一軒残らず叩き潰す。
「どん、どんな恐ろしい粗相をしたっていうのよーーー!? 」
景安の凄まじい剣幕に、翠蓮は「自分は酔って、とんでもない大罪か禁忌の破壊行為をやらかしたんだ」と完全に誤解し、恐怖で顔を真っ青にさせた。
ふと見ると、景安の背後で、事の真相──ただ景安が嫉妬で狂いかけて夜を徹しただけという事実──をすべて知っている陸光が、吹き出しそうになるのを必死でこらえ、肩をガクガクと震わせて床を叩いていた。
(ちょっと陸光、あんた何笑ってんのよ! 私、一体何をしたの!? 誰か教えてよーーー!!)
心の中で絶叫しながら、景安の放つ圧倒的な威圧感の前に、翠蓮はただただガタガタと震えるしかなかった。
こうして、最強の引きこもり剣仙が密かに張り巡らせた「無自覚な檻」に、翠蓮は自分が大切に囚われ始めていることなど露ほども知らず、自ら飛び込んでいくのだった。




