第24話 番外編 買い取られた未来
宿命を力技でねじ伏せ、見事に山を降りることに成功した二人だったが――彼らの関係がわかりやすく甘々になったかといえば、そんなことは全くなかった。
むしろ、あの夜を境に、景安の態度は以前にも増して手が付けられなくなっている。
これまで押し殺していた執着心のタガが完全に外れてしまったのではないか、と翠蓮が疑いたくなるほどに、彼はいつも通りのおっとりとした顔で、以前より執拗に翠蓮をからかってくるようになったのだ。
◇
とある町の、清風門の所持する小さな屋敷。二人の仮住まいとなっているその屋敷の一室に、翠蓮はドタバタと騒がしい足音を立てて飛び込んだ。
「ちょっと、景安! これ、一体どういうことよ!?」
机の傍らで優雅に茶をすすっている男に向かって、手にした一枚の書状を勢いよく叩きつける。
そこに記されているのは、彼女の悲願である「柳家の家名再興」のための、重要な手がかりを握る高名な門派への丁寧な紹介状だった。
清虚剣仙の署名があれば、江湖の誰もが平伏する最高の後ろ盾になる。……それ自体は、涙が出るほどありがたい話なのだ。
問題は、その差出人の欄だった。
そこには、――『柳翠蓮の夫・白景安』と、いっそ清々しいほどの堂々たる筆跡で、しっかりと墨書されていたのである。
「どういうことも何も、見ての通りですが。柳姑娘」
景安はパチリと目を瞬かせ、いかにも自分は何も悪いことはしていないと言いたげに、おっとりと微笑んだ。その美しい笑顔が、今は猛烈に腹立たしい。
「だ、誰があんたの妻よッ! まだ伴侶になるなんて一言も言ってないじゃない! ただ一緒に山を降りるって決めただけでしょ!?」
湯気が立ちそうなほど顔が熱くなっていく。誰もが振り返るような凛とした女侠としての気高さなど、今の翠蓮からは完全に吹き飛んでいた。恥ずかしさと怒りで真っ赤になった顔を、景安はただ、面白そうに眺めている。
景安は全く動じない。それどころか、すっと立ち上がると、じりじりと距離を詰めてきた。
「おかしいですね。山を降りる時、『あんたが死んで私が一人で生き残るなんて嫌だ』『世界を敵に回してでも私の手をとれ』と、あれほど熱烈に私を口説いたのはどこのどなたですか?」
「なっ……! あれは予言をぶち壊すための話で、そういう意味じゃ――」
「同じことです」
背中に冷たい壁が当たった。気づいた時には、もう遅い。
逃げ場をなくした視界のすべてを、景安の端正な顔が覆い尽くす。ただのぐうたらな男のはずなのに、見上げるその瞳の奥――昏い光に宿る圧倒的な色気と独占欲に気圧され、心臓が痛いほどに跳ね上がった。
景安がふっと視線を落とし、自分の唇をじっと見つめてくるのがわかって、翠蓮は息が止まりそうになる。
「あの夜、私の手を握って『後悔しないでよ』と言った瞬間に、私の未来はすべてあなたに買い取られたのですよ。今更、ただの仕事仲間のような顔をされては困ります」
「う、ぅ……」
あまりに容赦のない執着を向けられ、さっきまでの勢いはどこへやら、翠蓮は俯いて借りてきた猫のようにしおらしくなるしかなかった。
自分の睫毛が震えているのも、耳の先までカッと熱くなっているのも、すべて彼に見透かされているのだろう。
景安はわざとらしくため息をつき、ひどく悲しそうな顔をしてみせた。芝居がかっていると分かっていても、翠蓮の罪悪感は容赦なく突つかれる。
「はあ……。山を出れば、体内の気が暴走して死ぬかもしれなかった私を、無理やり引っ張り出したのはあなたです。それなのに、用が済んだら夫にもしてくれないなんて。柳姑娘は、随分と残酷で不実な女侠ですね」
「なっ、何言ってるのよ! 私がいつそんなこと――!」
堪らず勢いよく顔を上げると、目の前で景安の唇がふわりと弧を描いた。酷く意地悪で、同時に、狂おしいほどの愛執を孕んだ微笑み。
掴まれた細い手首が、優しく、けれど拒めない力で引き寄せられる。押し当てられたのは、彼の胸元――あの運命の夜、自分が必死に掴みかかった、熱い鼓動が確かに脈打っている場所だった。
「さあ――『郎君』と、そう呼んでみてください」
その言葉に、翠蓮は完全に言葉を失った。
完全に彼のペースに巻き込まれている。けれど、手のひらからはあの夜と同じ、お互いの命を分け合うような熱い体温が容赦なく流れ込んできて、脳がまともに思考することを拒否してしまう。
「……っ、あんた、本当に、性格が悪いわ……!」
睨みつけてみるものの、自分の肩がせわしなく上下し、動揺を何一つ隠せていないことなど、彼の鋭い眼差しにはすべてお見通しなのだろう。
「なんとでも。柳姑娘に性格が悪いと罵られるのは、なかなかな快感ですので」
ふわりと微笑みながら、景安は掴んでいた翠蓮の手首を、今度は自分の首の後ろへと回させた。有無を言わさぬ力で、引き寄せられた身体が彼の硬い胸へとぶつかる。
「ひゃっ……!?」
「さあ、早く。呼んでくれないと、私は傷ついてまた山に引きこもってしまいますよ。そうなれば、家名再興の夢も遠のく」
「っ、この……っ!」
翠蓮は顔が破裂しそうなほど赤くなりながら、彼の白い衣をぎゅっと握りしめた。
いつもは「あんた」だの「ぐうたら」だのと言って誤魔化せている。
だが、一度理性を外したこの男が、どれほど自分に執着しているかを、山を降りたあの夜に身を以て知ってしまっているのだ。ここで彼がへそを曲げたら、本当に何をしでかすか分からない。
観念した翠蓮は、景安の胸に額を押し付けるようにして、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……郎君……」
「聞こえませんね。町の雑踏にかき消されてしまいました」
「郎君っ!!」
堪りかねて顔を上げ、叫ぶようにその名を呼んだ瞬間――待ってましたとばかりに、景安の唇が重なった。
「んむ……っ!?」
驚きに目を丸くする翠蓮の頭頂部を、彼の大きな手がしっかりと固定する。逃げる隙間さえ与えない、驚くほど深く、執拗で、甘やかな口づけ。その強引で熱い占有のされ方に、全身の力が抜けていく。
「ん、あ……っ」
かすかに口から甘い吐息が漏れてしまったところで、ようやく景安は満足したようにゆっくりと唇を離した。
至近距離で見つめ合う二人の呼吸が、荒く重なる。自分の唇が艶やかに濡れ、すっかり蕩けた表情を晒してしまっているのが分かって、死ぬほど恥ずかしい。そんな翠蓮を見て、景安は低く、満足げに掠れた声で笑った。
「よくできました」
景安はそっと親指で翠蓮の唇の端を拭うと、今度はその細い腰をぐっと抱き寄せ、耳元で熱い息を吹きかけてきた。
「……さて。呼び方は合格ですが、まだ『妻の証明』としては足りませんね」
「……っ! あんた……一回、私の剣で叩き斬られてみる!?」
涙目で、けれど精一杯の強がりで拳を固める。
だが、景安はそんな彼女の抵抗を愛おしむように低く笑うと、すっと身を翻して、机の上に置かれていた小ぶりな酒瓶と、二つの白磁の杯を手に取った。
トトト、と澄んだ音を立てて、透明な酒が杯に満たされる。
「な、何よ急に」
警戒露わに眉をひそめる翠蓮の前に、景安は一つの杯を差し出した。
「『まだ伴侶になるなんて一言も言ってない』。先ほど、あなたはそう言いましたね? ならば、今ここで形を作ってしまいましょう」
「は? 形って……」
「天地に誓う大がかりな婚儀は、柳家の再興を果たした後に盛大に執り行うとして。──まずは今夜、二人だけの儀式を」
景安は自分の杯を持つと、翠蓮の手を取り白磁の杯を握らせた。そして、彼女の細い腕の隙間に、迷いのない動作で己の右腕を内側からぐっと絡ませる。
「っ、これって……!」
「『交杯酒』です。これを取り交わしたならば、生きていようと死んでいようと、魂まで互いのもの。……言い逃れはできませんよ」
絡み合う腕の近さに、翠蓮の心臓がうるさいほどに鳴り響く。
見上げる景安の瞳は、底知れないほどに昏く、そしてどこまでも真剣だった。からかいの色のないその眼差しに射すくめられ、翠蓮は喉を鳴らす。
(……本当に、どこまでも用意周到で、敵わないわ)
もう、とっくに腹は決まっているのだ。
翠蓮は諦めたように小さく息を吐くと、景安の腕に自分の腕をしっかりと絡め直した。
「……後戻りできないからね、景安」
「望むところです」
二人は視線を交わしたまま、一気に酒を飲み干した。喉を焼く熱い感覚とともに、お互いの命が完全に一つに結ばれたような錯覚が奔る。
空になった杯を机に置くや否や、景安の長い腕が、翠蓮の細い腰を逃がさないよう強固に抱きすくめた。
先ほどよりも確実に熱を帯びた彼の指先が、翠蓮の耳裏から項へと滑り込み、ゆっくりと顔を傾けさせていく。
「さあ、名実ともに私のものになったのですから、もう遠慮はしません」
「ひゃっ……、ちょっと、心の準備が……っ!」
「だめです」
景安はそのまま彼女の身体を軽々と横抱きに抱え上げた。
「……さて。夜はこれからですよ、翠蓮」
「……っ! あんた、本当に……っ」
腕の中で涙目になりながらも、翠蓮は彼の白い衣をぎゅっと握りしめ、彼の胸に顔を埋める。
景安はそんな愛しい妻の抵抗を愛おしむように、もう一度、深く、深く微笑んで、彼女を屋敷の奥へと連れ去るのだった。




